科学は〈価値〉を語れるか

表紙を表示する 総目次へ 本文へ



概要

 こんにち,科学研究に従事する人々の間には,「専門家としては<価値>の 判定に関与しない」という黙約があるかのように見える。学問的な知見に関連 して何らかの価値判断を下すことが迫られた場合には,研究誌や学会などの学 術的な研究発表の場は避け,一般人向けのエッセイなどを通じて,しばしば「あ くまで個人的な見解だが……」という断り書きを添えた上で,自分の考えを述 べるのが研究者としてのマナーらしい。もちろん,問題解決のために提案され た手法の有効性や機能性などのように,他の手法との比較に基づいて善し悪し を決定できる「相対的な」価値については,科学的な議論の枠内で判断を示す ことが許されている。しかし,かつて形而上学がその対象としていた<神>や <善>などの超越論的な観念はもとより,く人間の尊厳>といった生命倫理の 話題に頻繁に引用される観念も含めて,およそ「絶対的」価値との絡みを避け られない題目と見なされると,もはや科学的な方法論は通用しないものと決め つけられ,研究の場から締め出されてしまうのが実状である。
 科学研究から価値判断を排除するという禁欲的な姿勢をはじめて明確に打ち 出したのは,おそらくマックス・ウェーバーであろう。彼は,<価値>をめぐ る対立はあたかも「神々の争い」のように根源的なものであり,いずれか一方 の立場を客観的に正当化することは困難であると考えて,科学的な真理を解明 するためには「没価値」の立場を採用せねばならないと主張した。ただし,ウェー バー自身が価値相対主義者に徹していた訳ではなく,むしろ実践的な面におい ては,個人の人格に「聖」なる<価値>を認め,自己自身の運命を選び取る主 体的な決断を称揚していた。このような人道主義的な理想家としての資質 と,学問の客観性を守ろうとする科学者としての使命感との間に生じる緊張関 係が,<価値>に関するウェーバーの見解を,現在なお論じるに足るものにし ている。

 ウェーバーが示した高邁な使命感に比べると,こんにちの研究者が科学的な 議論の枠内で(絶対的な)<価値>の判定をあえて行おうとしない理由は。は るかに消極的である。こんにち学界で一般に了解されているように,学問上の 業績は,提出された理論がどれほど有効な科学的命題を生成できるかによって 評価されており,その研究が<人間の尊厳>のような<価値>の問題とどのよ うにかかわるかは無視されるのが通常である。例えば,バーキンソン病を治療 するのが目的で行われた脳の部分移植手術について論じる場合でも,移植片の 生着率や術後の機能変化のような個別のテーマに論点を絞るのが好ましいとさ れ,「このような手術は人道上の観点から非難されるべきだ」などと主張して も,学問的には全くの蛇足と見なされるばかりか,学術論文の書き方も知らな い新米と嘲られるのがオチだろう。一方,歴史的な要因として,アーリア人種 の優越性を科学的に証明しようとしたナチズムへの反省の念が,学問の名の下 にFらかの価値判断を行う研究に対する嫌悪感を催させているという見方もあ るが,この嫌悪感をもってしても,科学的に妥当な手法を採用している限り, 人工中絶された胎児を利用する“ナチス的”研究の学問的成果を学術発表の場 で否定することはできないのである。こうした事情があるため,学問的な業績 を挙げて地位の保全に努めねばならない立場にある職業科学者としては,あえ て価値判断を中止して「没価値的な」研究に従事せざるを得ないのである。
 もっとも,このような科学者の態度に怯儒な利己主義を見いだして反感を覚 えるとしたら,いささか行き過ぎだろう。学問的な評価基準を理論の有効性に 限定する方針は,前世紀後半に科学と技術がそれぞれ基礎と応用として互いの 発展を触発しあう関係にあることが認識される過程で採用されたもので,この 評価法が科学の量的発展に最も貢献するという経験則に依拠している。この点 について,個々の科学者は必ずしもはっきり意識しているとは限らない。だが, 科学的な知見を土台としながらも何らかの価値判断に踏み込んでいる記述を見 て,専門の研究者が「科学的な意義がない」と論評するとき,その背後にある のは,この記述が,より有効な理論を求めて常に前進することを余儀なくされ ている科学の流れには何ら寄与していない――という発想だろう。とすれば, 研究の現場から<価値>の問題を締め出す契機となっているのは,「科学の進 歩」という目標だと主張することも可能である。
 生活のあらゆる面に科学に由来する技術が入り込んでいる現代にあって,科 学は自然を解明しようという本来の役割を離れ,もはや人間の制御の効かない 巨大なリヴァイアタンとして人類の命運を左右できる力を獲得している。この ような存在が,単に己れの進歩に差し障るからといって,いつまでも<価値> についての議論を排除していて良いものだろうか。実際,現代科学は,古典的 な意味での<価値>にかかわるさまざまの問題――その中には,脳死を前提と する臓器移植の妥当性やX線レーザー開発などの軍事研究の是非といった現実 的な課題から,物理学的な世界像と<魂>や<自由意志>が両立するかという “形而上学的な”テーマまでが含まれる――に直面しており,こうした話題に ついて沈黙を守ることはあまりに退嬰的だと思われかねない。この疑問に対し て,わたしは次のように解答しよう。すなわち,科学が自身の体系の内部に絶 対的な意味での<価値>の規範を導入することは好ましくない。なぜなら,そ うした規範自体の妥当性はもはや科学の枠内で判定し得ないため,ウェ−バー が危惧した「唯一神の圧制」をもたらす懸念が払拭できないからである。しか し,科学が採用している方法論に準拠して,科学に対しても適用できる<価値> の基準を提出することは,学問的に見て充分に意義があるのみならず,「没価 値的な」科学の暴走を避けるために必要な作業だと考える。この作業を,わた しは科学哲学に委託したい。

 本論文は,科学哲学的な論考に則って,科学の体系に適用可能な価値の規範 を模索する試みである。内容は大きく2つの部分に分けられる。第I章では, 一般論として,科学的方法論で取り扱える<価値>の性質について分析し,認 識の様態に適用される価値基準として《範型》な概念を提出する。第II章では, 最も根本的な《範型》である<創造的秩序>について論究し,これによって科 学がどのように規制されるかを考察する。


©Nobuo YOSHIDA