第I章 科学と価値判断
現代科学が研究発表の場において(絶対的な意味での)<価値>の問題を黙
殺しているという現状は,理論の有効性を確保する上で已むを得ない方便かも
しれない。しかし,だからと言って,科学全体が何らかの規範に基づく価値判
断から免除されていると結論するのは,性急にすぎるだろう。科学といえども,
現実の社会に対して影響力を及ぼしている以上,逆に,社会からの審判を受け
なければならないのは当然である。ただし,こうした審判は,多くの場合,社
会の表面現象にすぎない技術的成果――核兵器や環境破壊の問題など――に
対してのみ下されており,科学の寄与を間接的にしか評価していない憾みがあ
る。科学における価値の問題を論じるためには,より積極的に科学の内側に踏
み込んでいく姿勢が必要である。
おそらく,大半の哲学者は,価値判断を人間の実存にのみ関与するものと考
え,客観的な知識体系とは一線を劃すべき価値論を科学の領域に持ち込むのは,
ドン=キホーテ的蛮勇だと感じるだろう。科学が価値の問題にかかわるのは,
科学的な知識を価値判断に援用するケースか,せいぜい人間の実存に立脚して
科学のあり方を牽制するケースに限られるというのが,哲学者の間に見られる
最も一般的な了解事項だと想像される。しかし,本章では,こうした見解は科
学が現に社会に対して及ぼしている影響力に対して日和見的である点を指弾し
(I−1節),これに代わって科学的な方法論に準拠する価値基準を定立する方
法を考察する(I−2節)。
©Nobuo YOSHIDA