前ページへ 概要へ 表紙へ

§5.人体改造時代の幕開け


 急速に進展し続けるバイオテクノロジーは、人間をもその射程に収めつつある。もちろん、動物工場や遺伝子組み換え作物を作るように人間も遺伝子レベルで改造してしまおうというものではない。遺伝子工学や核移植などの技術を利用して、遺伝病の治療や損傷した組織の再生を行うことが、差し当たっての目標となっている。だが、技術のいびつな進歩は、そうした行為が人間に許されるかどうかを改めて問わなければならないような生命操作を、医療の名の下に強硬に押し進めていく危険がある。このセクションでは、人間をターゲットとするバイオテクノロジーの事例をいくつか紹介し、その倫理的な問題点を指摘したい。


遺伝子治療


 遺伝病に対する決定的な治療法として期待されているのが、遺伝病の保因者に対して遺伝子操作を施す「遺伝子治療」である。遺伝子治療には、遺伝子欠損の患者に遺伝子を送り込む場合と、欠陥遺伝子を正常な遺伝子と交換する場合があるが、いずれも、他に有効な治療法がない致死的疾患に限って試験的に実施されているだけで、実用的な治療法として確立されるまでには、まだかなりの年数が掛かりそうである。これまで、ADA欠損症などの免疫疾患や、ガン・AIDSなどの患者に対して3000例以上試みられているものの、必ずしも満足な結果は得られておらず、1990年代前半に盛り上がった遺伝子治療に対する期待感は、急速に薄れつつある。


遺伝子治療の事例

L17_fig22.gif  正式に認可された世界初の遺伝子治療は、1990年に米国立衛生研究所のアンダーソンによって行われた。患者はADA(アデノシンデアミナーゼ)欠損症の4歳の女児。正常な遺伝子が欠けているためADAという酵素を作ることができず、治療を行わなければ免疫不全のため死に至る。この患者に対する治療は、次のようにして行われた(右図)。(1)患者の血液からリンパ球(T細胞)を取り出して培養する;(2)培養したリンパ球をADA遺伝子を組み込んだレトロウィルスに感染させると、いくつかの細胞の染色体にADA遺伝子が挿入される;(3)ADA遺伝子が正しく挿入されたリンパ球を選び出し、さらに培養して数を増やしてから患者の体に戻す;(4)体内でリンパ球のADA遺伝子が正常に機能すると、ADAが産生され病状が改善される(と期待される)。当初の計画では、体内で増殖し続ける骨髄幹細胞にADA遺伝子を注入する予定だったが、サルを用いた実験で幹細胞がADAをほとんど産生しないことが明らかになり、やむを得ずリンパ球を利用することになった。遺伝子を導入したリンパ球は数年で死滅するため、治療効果は永続的ではなく、定期的に再治療を施さなければならない。医療チームは月1回の割合で計4回ADA遺伝子を組み込んだリンパ球を投与したところ、学校に通えるまでに症状が改善したという。ただし、それまで行っていた酵素補充療法も継続して行われたため、遺伝子治療の効果が出たかどうかははっきりしない。
 日本でも、1994年に北大でADA欠損症患者に対して同様の遺伝子治療が行われた。この治療は1997年まで続けられ病状の改善が見られたが、リンパ球に寿命があるため治療効果が徐々に薄れ、最近では酵素を補う注射を定期的に受けている。このため、造血幹細胞に遺伝子を組み込む新たな遺伝子治療の申請が出されている(2000年現在)。


治療の現状

 当初、遺伝子治療の主たるターゲットはガンであり、臨床研究の7割を占めていた。例えば、TNF(腫瘍壊死因子)の遺伝子をリンパ球に導入してガン組織に注入すれば、ガンが縮小すると考えられた。しかし、大半のケースで期待したほどの効果が上げられまま、1995年にNIHがガンに対する治療効果がほとんど認められないと発表、それ以降は、臨床的な治療よりも、副作用の少ない遺伝子組み込み技術の開発といった基礎的な分野が中心的なテーマとなっている。アメリカでは、1999年に臨床試験中に患者が死亡(死因は不明だが、遺伝子を運び込むアデノウィルスに対する免疫反応が原因だと言われる)して以来、遺伝子治療に対する期待感は全般的にしぼんでしまった。

 現在、遺伝子治療で期待されているのは、閉塞性動脈硬化症の患部に血管増殖因子の遺伝子を注入する治療で、米タフツ大学のグループが100例以上試み、その9割で血管新生効果があったという。

 日本では、ADA欠損症・腎細胞ガンなどに対する臨床試験が行われているが、必ずしも目覚ましい成果は上がっていない。ただし、閉鎖性動脈硬化症などで血流が滞っている患部に血管増殖因子の遺伝子を送り込むという治療は、動物実験で期待を持たせる結果が得られている。今後は、各種のガンや糖尿病・心筋梗塞などへと遺伝子治療の適用範囲を広げていく予定だが、臨床医が行う“通常の医療”になるのは、かなり先(2020年以降?)になりそうである。


生殖細胞/受精卵への遺伝子治療

L17_fig39.gif  上で述べたような体細胞に対する遺伝子治療は、遺伝病の根本的な治療にならない。受精卵にあった遺伝子の異常は全身の細胞にコピー済みであり、治療によって導入された“正常な”遺伝子は、体内では少数の異物にとどまるからである。こうした限界をうち破るため、生殖細胞(卵母細胞、精原細胞)や受精卵に対して遺伝子治療を施してしまおうという考え方もある。これに成功すれば、出発点となる細胞から異常が取り除かれ、そこから分裂してできた全ての細胞が、正常な遺伝子を持つことになる。これは、遺伝病の根本的・永続的な治療法となり、次世代に遺伝病の遺伝子が伝えられることも防ぐ効果がある。

 受精卵に対する遺伝子治療は、クローン技術と組み合わせて行おうという案がある(右図)。重篤な遺伝病を持つ両親の精子と卵子を人工授精し、ガラス容器内で初期胚の段階まで成長させた上で、正常なヒト遺伝子を組み込んだウィルスに感染させ、遺伝子の導入を行う。こうして細胞のいくつかは正常な遺伝子が組み込まれたものになるが、全ての細胞に遺伝子が導入されるわけではないので、そのまま成長させたのでは、正常遺伝子を持つ細胞とそうでない細胞が入り交じったキメラ個体になってしまう。そこで、遺伝子が正しく組み込まれた細胞を選び出し(そのためには適切なマーカーが必要となる)、その細胞の核を除核した別の未受精卵(母親からのものであることが好ましいが必須ではない)に移植して電気刺激を与えると、(クローン羊ドリーの場合と同様に)受精卵であるかのように成長を始め、最終的には、全身が正常な遺伝子を持つ細胞から成る個体へと育っていくはずである。

 受精卵の段階で遺伝子治療を行ってしまえば、治療効果が全身に及び、生涯継続する。産まれてくる子供が遺伝病に苦しめられることもなく、社会から遺伝病を根絶できるかもしれない。したがって、この治療を積極的に推進すべきだと主張する研究者もいる。しかし、受精卵に対する遺伝子治療には、多くの医学者が反対しており、近いうちに実現される可能性は乏しい。反対の根拠は、われわれがまだ遺伝子について十全な知識を得ていないという点である。バクテリアに遺伝子を組み込む場合でさえ、しばしば予期せぬ結果を生む(昭和電工が製造した健康食品が原因となって全米で1000人を越える被害者を出したケースでは、遺伝子組み換えによってバクテリアにL−トリプトファンを作らせようとしたところ、有害な副産物が生成されていた)。ましてや、人間のように複雑な分化を行う生物の受精卵をウィルスに感染させて遺伝子操作を行ったときにときに、染色体レベルで何らかの異常が生じる危険性は決して小さくない。しかも、こうした異常が致死的でなく不妊も引き起こさない場合は、それが子々孫々にまで伝えられる可能性があることを、念頭に置くべきである。また、遺伝子単独では疾病の原因になるが、他の遺伝子と組み合わさると生存率を高めるケースもある。例えば、鎌形赤血球貧血症の場合、父母双方から遺伝子を受け継ぐ(遺伝子型がホモになる)と重度の貧血症に苦しめられるが、一方からのみ遺伝子を受け継ぐ(遺伝子型がヘテロになる)ときには、マラリアに対する耐性を獲得する。遺伝子が持つこうした複雑な側面に対して、現在の医学的知識はあまりに乏しい。現在の杜撰な遺伝子工学によって生殖細胞に生命操作を施し、自然には生まれるべくもない人間を本人の意思とは無関係に作り上げることは、現時点では、倫理的に許されないだろう。


移植医療の新展開


 従来の移植医療が臓器や組織を丸ごと取り出して患者に移植していたのに対し、近年、組織を培養して人体部品を作成し、損耗したものと交換するという組織工学(Tissue Engineering)の技法が開発されつつある。


人工器官

 損耗した人体部品を交換する新技術というと、金属やプラスチックなどの既存の工業素材で半永久的に使用可能な人工器官を作成して移植することを思い浮かべる人が多いかもしれないが、現実には、こうした技術は実用段階には程遠い。どうしても、異物である人工器官と血液が接触する部分で血栓ができてしまい、人工器官の機能を阻害するとともに、全身に運ばれて血管を詰まらせ、脳梗塞や心筋梗塞などを引き起こす。工業素材を用いた人工器官として最も開発の進んでいる人工心臓も、心臓移植までのつなぎとして数十日間使用する外付けのものが大半で、半永久的な埋め込み型人工心臓は、2001年に臨床試験が開始されたばかりである。

 現在、実用化に向かって急速に技術開発が進められているのは、培養した細胞をベースに人工器官を作り上げるという手法である。例えば、線維芽細胞をコラーゲンスポンジ上で培養して作った人工皮膚は、1998年に米食品医薬品局(FDA)で認可され、すでに製品化されている。移植が成功すると、単に患部を覆うだけではなく、傷を修復するためのタンパク質を分泌する“生きた”皮膚となる。周囲と色が異なる・汗腺がない・毛が生えない──など、いくつかの問題点はあるが、従来のように、患部と同程度の大きさの皮膚を切除する必要がなく、火傷などの治療の際に有効である。

 実験的には、軟骨・腱・靱帯も、培養細胞に増殖因子を添加することによって作成可能になっている。鼻や耳のような立体的な軟骨組織は、成形した生分解性ポリマーに軟骨細胞を植え付け、一定の形に増殖させることによって作ることができる。

 将来的には、幹細胞(組織や臓器に成長する元になる細胞)を培養・移植することにより、肝臓・心筋・すい臓・小腸・ぼうこう・脊髄などが多くの組織・器官が再生可能になると言われる。肝臓に関しては、培養した肝細胞を小さな穴の開いたマイクロカプセルに詰めて体内に埋め込む方法が検討されている。また、これまで脊髄は再生不可能だとされてきたが、脊髄損傷のマウスに胎児の神経組織を移植して、運動能力を回復させた実験もあり、人間への応用が期待されている。


移植用組織の供給源

培養細胞を用いた移植医療の技術が進展する中で、元になる細胞をどこから入手するかが、重要な問題となってきた。


再生医療


 長い年数にわたって生きている間に、さまざまな原因によって人間の組織は損耗していく。脊髄損傷によって内部の神経が断裂した場合には、神経組織が自然に再生することがないため、重篤な後遺症が終生残ることになる。また、心筋細胞や肝細胞の損耗は、致死的な帰結をもたらしかねない。いったん失われた組織が(トカゲの尻尾のように)再生されるならば、多くの患者にとっての福音となるだろう。こうした再生医療は、数年前まではSF的な夢とされてきたが、1998年にヒトES細胞が発見されるや、急速に現実味を帯びてきた。2010年には、日本国内だけで8000億円市場になるという試算もある。


ES細胞(embryonic stem cell;胚性幹細胞)

 俗に「万能細胞」と呼ばれるES細胞は、組織が未分化な胚(胎児の初期段階)に存在しているもので、血球や神経組織など全身のあらゆる細胞に分化する能力(全能性;正確には、胎盤などには分化できないため、多能性と言うべきである)を持っている。マウスのES細胞は、1981年に胚盤胞(100個ほどの細胞から成る胚)ですでに発見されていたが、人間の場合は(ヒトの胚の研究が倫理的な制約を受けることもあって)なかなか見つからず、1998年になって、人工授精による受精卵を用いて研究していたウィスコンシン大学のトムソンが、全能性を持つ細胞の培養に成功した。このニュースは、生理学の大発見としてTVでも取り上げられた。同じ頃、ジョンズ・ホプキンス大学のギアハートや米バイオ企業のジェロン社の研究チームも(中絶された胎児の卵巣などを用いて)同様の研究を進めており、ES細胞を作り出した。

L17_fig41.gif  初期胚から採取したES細胞を培養し、特定の方向に分化させるための化学物質を添加すると、血球・神経細胞・心筋細胞・肝細胞・軟骨細胞などのコロニーが形成される(例えば、レチノイン酸で処理すると神経細胞に分化する)。したがって、ES細胞をストックしておけば、移植用にどんな組織でも作り出すことができる。こうした再生組織を患者に移植することにより、さまざまな治療効果が上げられると期待される。例えば、パーキンソン病の症状の緩和には脳細胞の移植が効果的であり、現在は中絶された胎児の脳細胞が利用されているが、将来的には、ES細胞から脳細胞を作り出してパーキンソン病の患者に移植することが計画されている。また、アルツハイマー病や糖尿病の患者に対して、ES細胞から分化させた脳細胞やランゲルハンス島細胞の移植が検討されている。また、遺伝子組み換えの技術によって、特定の組織への分化を誘導する遺伝子を挿入する技術も、開発中である。

 さらに野心的な計画としては、ES細胞から臓器そのものを作成しようという試みがある。すでに、イモリやカエルなどの両生類を用いた実験では、ES細胞(ないしそれと類似した胚の細胞)から心臓やすい臓などの臓器を試験管内で作成することに成功しており、人間の臓器をES細胞から作り出すことも夢ではない。ただし、心臓・肝臓などの巨大な器官を丸ごと作り上げるには(いかにして立体構造まで正確に再生させるかなど)克服しなければならない問題が数多くあり、実用化までにはまだかなりの期間が必要である。

 ES細胞の作成にはヒトの胚が必要となるため、倫理的な問題も生じる。フランスやドイツでは、法律でES細胞の作成を禁止している。ES細胞を供給しているのは、アメリカ・オーストラリア・シンガポールなど一部の国に限られる。日本では、2002年に文部科学省が認可し、翌年から京大再生医科学研で国産ES細胞が作成され、国内の研究機関に提供されている。ES細胞を得るための受精卵は、通常は、不妊治療の目的で人工授精によって作られた中から、子宮に戻されなかったものを(両親の承諾を得て)利用している。こうしたやり方に対しては、カトリック教会や医学者の一部などから厳しい批判が提出されている。


クローン技術による組織再生

L17_fig40.gif  これまでES細胞は、人工授精後に子宮に戻されなかった受精卵に由来する胚から採取することが多かった。しかし、再生医療に用いる場合、他人のES細胞から作成した組織や臓器の移植には拒絶反応が伴うため、免疫抑制剤の助けを借りなければならない。そこで、クローン技術を使って患者本人の体細胞からES細胞を作り出す方法が、クローン羊ドリーを生み出した英ロスリン研究所などで開発されつつある(右図)。これは、患者の体細胞(皮膚細胞など)の核を(核を除いた)未受精卵に移植し、電気刺激によって受精卵と同様の状態にして発生を開始させ、胚盤胞になったところでES細胞を得るというもので、クローン羊ドリーを作り出した技術の応用である。このES細胞に特定の化学物質を添加して作成した組織は、もともと患者の細胞のクローンなので、拒絶反応は全く起きない。将来的には、病気や事故による損耗に備えてあらかじめスペアの組織を用意しておき、悪くなったところを交換するという医療が広く行われるようになるかもしれない。

 2004年、ソウル大学の研究チームが、ヒトのクローン胚からES細胞を作成したと発表、国際的な注目を浴びた。2005年には、患者の皮膚細胞からクローンES細胞を作ることに成功したと発表し、実用化が間近であるとの期待が高まった。しかし、まもなく、これらの研究データが捏造されていたことが判明、科学者のモラルが問われるとともに、ES細胞を巡る国際的な競争が熾烈なものであることを伺わせた。


倫理的諸問題

 ES細胞を用いた再生医療は、現在の医学では治療困難な難病に苦しむ患者にとって、大きな福音になるかもしれない。しかし、倫理的にさまざまな問題を孕んでいることも、また事実である。

 ES細胞の研究は、受精卵や中絶胎児を扱うことから、中絶に反対する団体から厳しい批判を浴びている。研究に歯止めがないと、貧困者による受精卵の売買が行われる危険もあり、各国政府が規制を行っている。アメリカ政府は、ES細胞を扱う場合の指針を1999年に策定しており、提供者に対するインフォームド・コンセントの徹底などが求められている。2000年からは、ヒト受精卵に対する政府助成も限定的な形ながら解禁された。日本でも、2001年に文部科学省が基礎研究に限って解禁、これを受けて、日本産婦人科学会は廃棄する予定の受精卵に限定してES細胞の作成を認めた。

 究極の再生医療と言われるクローン胚からの移植用組織作成に関しては、最初の段階でクローン人間の作成と同一の過程を経ることになるため、倫理的に許されないと主張する人も多く、より厳しい規制が加えられている。この分野で最先端にいるアメリカでは、バイオ産業育成の狙いから民間の研究に対する規制はない(2001年に、ヒトクローン胚の作成を全面的に禁止する法案が下院を通過したが、上院を通過せずに廃案となった)。しかし、ブッシュ大統領はヒトクローン胚の作成に批判的であり、連邦予算も認められないため、研究は必ずしも盛んでない。フランスやドイツ両政府は、ヒトクローン胚の作成について法律(「生命倫理法(仏)」「胚保護法(独)」)で研究を禁止するにとどまらず、国際的な禁止条約を策定すべきだと国連に要請している(2001)。一方、イギリスでは、政府の許可を受けることを条件に、ヒトクローン胚によるES細胞の研究を認めている。ただし、作成したクローン胚は14日以内に廃棄することが定められているため、クローン人間の誕生にはつながらない。日本の場合、再生医療につながる成果が次々と報告されたこともあって、「クローン技術規制法」(2000年制定)の枠内で、クローン胚を母胎に戻さないなどの制限の下で研究を容認する方針が示されていた。しかし、2001年11月に、政府の総合科学技術会議は、ヒトクローン胚を用いたES細胞の研究は時期尚早として「当面禁止」という指針を決定した。

 こうした動きをよそに、世界最初のヒトクローン胚は、2001年11月、バイオベンチャーのアドバンスト・セル・テクノロジー(ACT)社が作り出している(ただし、このクローン胚は、胚盤胞になる前に成長を止めたため、実質的に作成に失敗したという意見もある)。その後、イギリスや韓国の研究者も、ヒトクローン胚を作成したと発表した(韓国での成果は疑問視されている)。

 ES細胞に関しては、このほかにも人々を仰天させる実験が行われている。クローン技術によってES細胞を作成する際に、核移植する核を除いた未受精卵細胞として、ヒトのものではなくウシの卵細胞を利用したというものである。融合した細胞は、ウシの細胞質とヒトの遺伝子を持つ“キメラ”細胞となっている。この細胞は、初期胚の段階でES細胞を採取するのに利用され、それ以上に育てられることはなかったが、仮に子宮に戻して成長させたとすると、何が生まれるのだろうか。もちろん、途中で死んで流産される確率が圧倒的に高いが、もし成長を続けたとすると、どんな赤ん坊が誕生することになるのか、確実に予言できる科学者はいないだろう。これはもはや神の領域ではないかという思いを拭うことはできない。

 なお、骨・筋肉・血球など特定の組織は、ES細胞を利用しなくても、骨髄にある間葉系幹細胞を培養して組織が作り出せることが判明している。また、マウスを使った実験では、成体の幹細胞を培養して心臓・肺・肝臓・腎臓・消化管などの細胞に分化させることに成功しており、技術の進展で、こうした倫理的問題を解決できるかもしれない。


iPS細胞(Induced pluripotent stem cells; 人工多能性幹細)

体細胞に数種類の遺伝子を導入することで、多能性(さまざまな細胞に分化する能力)を与えた細胞。2006年に山中(京大)が、ES細胞で重要な役割を果たしている24遺伝子を1つずつ組み込んだ細胞の機能を調べることで、4遺伝子を導入すれば多能性が実現されることを発見、マウスiPS細胞を樹立した。ヒトのiPS細胞は、2007年に山中とトムソンが同時に樹立。

ES細胞と同様に、再生医療に利用できる。患者本人の体細胞を利用すれば、拒絶反応も起こらない。ただし、iPS細胞はガン化しやすいことが知られており、安全な再生医療が可能かどうかは研究中。医薬品の影響を調べる細胞試料の作成には有用である。




©Nobuo YOSHIDA