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§4.ヒトゲノム解読と遺伝子診断


 かつて、人間の遺伝子は純粋にアカデミックな研究の対象であり、将来的には医療の発展に役立てられるとしても、それがビジネスの道具になるとは考えられなかった。しかし、現在では、事情は一変している。ヒト遺伝子は、巨大なビジネス・チャンスを生み出す宝の山であり、バイオ産業の急成長の陰で "Gene is money." と囁かれる時代が到来したのである。


ヒトゲノムの解読


 2000年6月26日、クリントン大統領はホワイトハウスで記念式典を開き、ヒトゲノムの解読がほぼ完了したと発表、「今世紀の科学の進歩の中で最もすばらしい出来事」と讃えた。この業績が10年前から始められた国際共同研究「ヒトゲノム計画」によるものと誤って伝えたマスコミもあったが、実は、自身有能な遺伝学者であるクレイグ・ベンターに率いられた米バイオベンチャーのセレーラ・ジェノミクス社が、30億ドルの巨費を投じた国際研究をわずか9ヶ月で出し抜いて達成したものである。大統領と並んで式典に出席したベンター社長は、「われわれは自動解析装置の開発などを含めて合計10億ドルの資金を投入し、ゲノム計画を牽引した」と誇らしげに語った。


ゲノムとは

L17_fig37.gif  ゲノムとは、生物が持っている全遺伝情報を指す。遺伝情報を担っているDNAは、ワトソンとクリックが1953年に解明したように二重らせん構造(右図)をしているが、らせんのそれぞれの鎖がリン酸とデオキシリボースの単純な繰り返しになっている一方で、各鎖をつなぐ横棒の部分は、A(アデニン)T(チミン)G(グアニン)C(シトシン)という4種類の塩基のいずれかが、A−TないしG−Cというペアを組んだ形をしている(下図)。DNAの分子構造は、化学的な修飾を別にすると、このATGCという塩基の配列によって完全に決定されるので、ゲノムは、ATGCという4つの文字の並びとして表される。

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L17_fig38.gif  遺伝子は、特定の塩基配列で区切られるDNAの一部分を指し、ATGCの並び方によってタンパク質の構造を決めている。染色体上で遺伝子はまばらに分布しており、その間隙には、遺伝子の発現をコントロールしている部分と、何の役割も果たしていない単なるスペーサーの部分とがある(右図は、キイロショウジョウバエの第1染色体上にある遺伝子のいくつかを表したものである)。

 1980年代まで、ヒト遺伝子を研究するに当たって、分子遺伝学の研究者は、場当たり的に遺伝子を探し出し、その機能を決定する作業を行ってきた。しかし、こうしたやり方では、ヒトが持っている全ての遺伝子を網羅的に調べることは困難である。3万数千個と言われるヒトの遺伝子の中で、90年代の終わりまでに位置と機能が解明できたものは約1万個にすぎない。そこで新たに提案されたのが、46本あるヒト染色体の全塩基配列(総数30億ペア)を解読してしまい、そのデータを元に遺伝子を探索していく方法である。これが「ヒトゲノム(人間の全遺伝情報)の解読」である。


「ヒトゲノム計画」とセレーラ社の解読競争

 1986年、ダルベッコ(米)らがヒトゲノム解読の重要性を科学誌上で主張したことに端を発して、非営利の国際共同研究として遺伝情報の公表を目的とする「ヒトゲノム計画」が動き出した。1990年には、米国立衛生研究所(NIH)が計画のリード役となり、日欧の研究者をも引きずり込んで、人類を月に送り込んだ「アポロ計画」に匹敵する巨大プロジェクトとなる。当初は、多くのチームでゲノム解読を進めるための下準備に手間取り、計画の完遂も危ぶまれる状況だったが、人の手を煩わせずにDNAを分析する全自動の解読装置が開発されたことによって軌道に乗り、90年代の終わり頃には、2005年までにゲノム解読が完了するという見通しが立つに至った。

 アカデミックな色彩の濃い「ヒトゲノム計画」に対して遺伝子ビジネスの立場からなぐり込みをかけたのが、バイオベンチャーのセレーラ社である。1998年に設立されたセレーラ社は、解読装置の最大手パーキン・エルマー社およびコンピュータ・メーカのコンパック社の協力を得てNIHをも凌ぐ最新鋭の施設を揃え、ヒトゲノム計画の成果として公開されていたデータを元に効率的な解読を進めた結果、わずか9ヶ月で国際共同研究を出し抜くことに成功した。2000年6月にセレーラ社が解読完了を発表した時点で、ヒトゲノム計画の方ではまだ86.8%しか解読しておらず、予定を繰り上げたものの、全塩基配列を解読し終わるのは2003年になる見込みである。ただし、セレーラ社のデータは解読の精度がやや落ちると見られており、相当の読みとりミスがあると言われている。


遺伝子特許と遺伝子ビジネス

 セレーラ社が10億ドルの巨費を投じてまで「ヒトゲノム計画」を出し抜こうとしたのは、ヒトゲノムが“宝の山”であり、これを独占することにより巨大な富を手にすることが可能だからである。セレーラ社は、解読した塩基配列をデータベース化して製薬会社などに有償(年間500万ドル程度)で利用させる事業をすでに立ち上げている(ファイザー製薬や武田薬品がセレーラ社と契約済み)。将来的には、解読したヒト遺伝子を特許化し、遺伝子ビジネスにおいて独占的な権利を行使しようと目論んでいる。例えば、特定の遺伝子の欠損が疾病の原因となる場合、当該遺伝子が本来コードしているタンパク質がそのまま治療薬として有効に作用することがあるが、この遺伝子に関して特許を取得すると、医薬品の市場を独占することが可能になる。また、他社が遺伝子の塩基配列を利用して開発した医薬品を販売しようとする際に、特許侵害を理由に差し止めたり、高額な特許使用料の支払いを要求することもできる。

 遺伝子のように誰もが体内に保有している物質に関して特許が取得できることは、奇妙に思えるかもしれない。しかし、米国の特許法では、その発見が「新規で有用(new and useful)」であると認められれば、自然界に存在する物質についても発見者に特許(独占的使用権)が与えられることが明記されている。遺伝子の場合、塩基配列と体内での機能を最初に解明したことが認められれば、特許が与えられる。ただし、どこまで機能が解明された時点で特許の対象となるかについて米特許庁の判断は揺れており、近年は、特許を認めることにかなり慎重になっているようだ。セレーラ社は、すでに10000件の遺伝子特許を仮出願しているが、まだ各遺伝子の機能を特定していないため、特許が成立するかどうかは、セレーラ社が今後どこまで機能を解明できるかにかかっている。

 なお、EUや日本では、遺伝子そのものは特許の対象にはならないが、「…の塩基配列を持つ遺伝子によってコードされるタンパク質を成分とする薬」という形で特許申請がなされた場合、実質的には遺伝子を対象とするものであっても、形式的に薬の特許として認可されることが多い。

 特許を武器にした遺伝子ビジネスに邁進しているのは、セレーラ社だけではない。独自に遺伝子解読を進めているインサイト社も、50000件の遺伝子特許の出願とデータベースの有償提供を行っている。また、ヒューマン・ジノム・サイエンシズ社は、病気関連遺伝子に標的を絞って特許を取得、さらに、医薬品の自社開発にも乗り出している。アメリカでは、このほかにも1000社を越えるバイオベンチャーが、得意分野での遺伝子解析やゲノム創薬を進めている。

 当然のことながら、ヒト遺伝子を特許化する動きに対して、遺伝情報は公共財だという観点からの批判も多い。ヒトゲノム計画の研究者の中は、すでに解読された部分を公表し、遺伝情報を「公知の事実」にして新規性を喪失させ、特許化を阻む動きに出ている者もいる。しかし、民間企業から資金提供を受けている研究者も多く、その場合は、知的財産権に敏感な企業との契約によって、研究発表が制限されるのが一般的である。


医療への応用

 ヒト遺伝子が完全に解読され遺伝子マップがデータベース化されることにより、医療に革新が起きると期待されている。特に、遺伝子関連疾患の診断と治療は、劇的に変化するだろう。

 遺伝病というと、ハンチントン舞踏病やデュシャンヌ型筋ジストロフィーのように1つの遺伝子の異常が原因となって生じる単一遺伝子疾患がまず思い出されるが、病気の発症や進行の程度に及ぼす遺伝的影響まで考えると、実は大多数の疾病が遺伝子と関連していることになる。ガン・高血圧・糖尿病などのいわゆる生活習慣病が、実は遺伝子と密接な関係を持っていることはすでに明らかになっている(例えば、p53というガン抑制遺伝子に異常があると、ガンになる確率がきわめて高くなる)。アルツハイマー病(脳血管性痴呆とともに老人性痴呆の2大原因となっている病気)のように原因が解明されてはいないものの、遺伝子との関係が強く示唆されている疾患も数多い。また、AIDSのような感染症でも、病原体に感染してから発症するまでのプロセスに、遺伝子が深く関わっていることがある。こうした病気について、関与する遺伝子が突き止められ、その機能が解明されると、診断技術や治療法の開発が促進されるはずである。

 ヒトゲノム解読によって急速に進むと期待されるのが、遺伝性疾患の診断技術の向上である。特定の家系に頻発することから遺伝子の異常が原因となっていると推定される病気は多数見つかっているが、こうした病気に罹っている患者のDNA配列をデータベースと比較することによって、どの遺伝子にいかなる異常が生じると病状が現れるかを決定できる。

 さらに、異常遺伝子がコードしているタンパク質の構造を特定できれば、治療法開発の方針も立てやすくなる。多くの病気(ガン・動脈硬化症・骨粗鬆症・関節炎・アルツハイマー病など)は、遺伝子の異常のためにタンパク質の構造に変異が生じたり、必要量より過剰ないし過小にタンパク質が産生されることによって増悪する。したがって、不足するタンパク質を補充したり、変異した/過剰になったタンパク質に結合してその機能を阻害する化学物質を投与することが治療法となる。このように遺伝情報に基づいて治療薬を開発する手法は、しばしば「ゲノム創薬」と呼ばれる。

 従来の医薬品開発が地道な候補物質探しから始まるのとは異なって、ゲノム創薬では、まずゲノムのデータバンクから必要な情報を入手し、コンピュータを駆使して遺伝的変異や既知の疾患遺伝子との類似性を探し出すことになるため、IT企業との提携が不可欠になる。また、コンピュータや解読装置などを揃えるのに多額の設備投資が必要となり、毎年1つの医薬品を開発するのに年間10億ドル掛かるとも言われる。この分野では、アメリカが圧倒的な研究開発力を持っている一方、これまでの基礎研究の積み重ねを資産とする欧州の有力製薬会社(ノバルティスやヘキストなど)もかなりの成果を上げている。残念ながら、厚生省の手厚い保護政策の元で国際競争力をなくしてしまった日本の製薬会社は、ほとんど太刀打ちできない。

 ゲノム創薬による医薬品としては、ノバルティス社による慢性骨髄性白血病治療薬「グリーベック」が知られている。これは、染色体異常に起因する白血球の異常増殖を阻害する薬で、異常な遺伝子が発する増殖指令を解析することによって開発された。FDA(米食品医薬品局)は、2ヶ月半という異例のスピードで認可承認を行っている。

 さらに、個人の遺伝情報が利用できるようになると、患者の遺伝子を調べて、体質にあった薬や治療法を選ぶ医療「テーラーメイド(オーダーメイド)医療」も可能になる。これまでは、各人が有するゲノムの差によって薬の効き方や副作用の出方に違いが生じるために、思うように治療効果が上がらないこともあった。医薬品が実際に効く割合は70-80%、抗ガン剤の場合は30%程度にすぎないと言われており、薬が合う体質か遺伝子チェックで調べることは、医療の効率を上げるために有効である。例えば、塩酸イリノテカンは、非常に強力な抗ガン剤でありながら、場合によっては死に至る強い副作用を示すため、臨床的にはあまり使用されていなかった。しかし、副作用は特定の遺伝子を持つ人に限って高い頻度で見られることが判明したため、事前に遺伝子を調べて副作用が起きにくいことがわかれば、積極的に使われるようになると期待される。

【テーラーメード医療と従来医療の比較】
テーラーメード医療従来の医療
対象・遺伝子情報から薬の効き目がわかっている人・症状のある人すべて
投与方法・遺伝子情報から最適な投与方法・量を確定・同じ症状なら決まった薬を一定量
薬理効果・有効性・安全性が予測できる・有効性・安全性には個人差がある
薬剤費用・必要な患者にだけ投与するので抑制可能・不必要な患者に投与するので増大
研究開発・副作用が原因で開発を諦めた薬を仕立て直すことも可能・少数の副作用が原因で開発をあきらめるケースも出てくる

ヒト以外のゲノムの解読

 ゲノムの解読が進められているのは、人間だけではない。他の動植物の遺伝情報も世界中の研究機関で調べられており、そのデータは農業・医療の分野で役立てられると期待される。すでに解読が終了した生物は、枯草菌・らん藻類・線虫・ショウジョウバエなどで、主としてアカデミックな研究の対象となるものである。しかし、今後は、バイオビジネス分野で重要になる生物のゲノムが集中的に解読されることになるだろう。

 特に関心を集めているのが、イネゲノムの解読である。イネゲノムのデータは、遺伝子組み換えを行う上で決定的な役割を持つため、アジアのコメ市場を狙うアメリカの農業ビジネスにとって、きわめて重要な意義を持つ。日本でもイネゲノム解読が進められているが、欧米各社がこの分野に参入してきており、イネ遺伝子の特許化も絡んで熾烈な争いが繰り広げられている。2001年1月、スイスのシンジェンタ(スイスの製薬会社ノバルティスと英アストラゼネカの農業化学部門が合併してできた企業で、農薬分野では世界トップ、種子部門では3位を占める)が完全解読に成功したと発表した。遺伝子データは、全米科学振興協会(AAAS)に寄託され、大学や公的研究機関には無償で、企業が商業目的に利用する場合には有償で、研究者に提供される。一方、日本を中心とする10の国・地域の研究機関が参加した「国際イネゲノムコンソーシアム」は、きわめて高い精度での解読を進めたものの、解読完了はシンジェンタに2年近く遅れることになった。ヒトゲノム解読と同じ構図が、ここでも繰り返されたわけである。


遺伝子診断


L17_fig53.gif  ヒト遺伝子の解読が進んだ結果、いくつかの病気に関しては、患者や親の遺伝子を検査することにより、発症する以前に罹患確率を見積もることが可能になった。ただし、100%確実な診断が可能なのは単一遺伝子の変異が原因となる少数の疾病(ハンチントン舞踏病など)のみで、多数の遺伝子が関与する疾病(乳ガンなど)の場合は、確率的リスク評価が行われる。例えば、乳ガン遺伝子BRCA1のある変異型のキャリアは、一生の間に80%強の確率で乳ガンを発症すると言われる。したがって、この遺伝子を持っているとわかった場合、定期的な乳ガン検診を受診して早期発見を心がけることが推奨される(人によっては、乳房切除によってあらかじめリスクを減らす方法を選ぶかもしれないが、早期発見ができれば、乳房を温存する治療法が施せるケースもあるだろう)。アメリカでは、一部の医療機関で乳ガンの遺伝子検査が商業的に行われているが、キャリアだと判明した人に多大な精神的負担を与えることになるため、精神的なケアが不可欠だとされている。


発症前診断の問題点

 こうした遺伝子診断に関しては、医療技術の進歩として歓迎される一方で、いくつかの問題点の存在が指摘されている。

 問題点の一つは、異常な遺伝子を発見する技術だけが先行して、診断はできるが治療法はないという厄介な状況が生み出されることである。

 こんにち、すでにアメリカで大きな問題になっているのが、ハンチントン病のケースである。これは、進行性神経変性疾患の一種で、少年期には全く異常を示さないものの、中年になってから突然発病する。運動神経が冒されることによる運動失調(踊っているようなギクシャクした動きを示すことから舞踏病と呼ばれる)に始まり、しだいに精神障害が増悪し、最終的には痴呆状態になった後、100%確実に死亡する。単一の遺伝子変異による遺伝病であり、親がハンチントン病の遺伝子を持っていれば50%の確率で子供に伝えられ、その遺伝子を受け継いだ者は必ず発病する。現在までのところ、この遺伝子の保因者かどうかを検査する方法は確立されているが、治療法は全くない。アメリカでは、「将来発病する」と診断され自殺した例もあり、医師によっては、この病気の遺伝子検査をすることに慎重である。特に、子供に対して検査を行ってキャリアであることが分かった場合、親が教育を放棄することも考えられるため、未成年の検査は禁止すべきだとする意見が多い。


遺伝子差別

 さらに、遺伝診断の結果が流出した場合、雇用や保険の面で深刻な「遺伝子差別」が起きることも懸念される。

 例えば、アルツハイマー病に関与する遺伝子が解明された暁には、「将来50%の確率で発症する」という診断が下されることもあるだろう。こうしたデータが、被験者が勤務している会社に知られた場合に、何が起きるかは想像に難くない。アルツハイマー病は老人性痴呆症として知られているが、50歳代に発症することも稀ではない。物忘れがひどく名前を思い出せないといった軽微な記憶障害から始まり、しだいに精神障害が顕著になって行動に異常が生じる。将来、こうした病気になる確率が高いことが判明した場合、雇用者は、仕事上の失敗を恐れて重要ポストに就けることを避け、早期に退職するように仕向けるだろう。これは、営利企業としてやむを得ない措置かもしれないが、当の社員からすると、自分の意志ではどうにもならない先天的な要因によって雇用差別を被ることになり、法の下の平等という精神に反する。

 例えば、次のような実例が報告されている。アメリカ在住のサージェントという女性は、1999年に軽い呼吸困難を起こして医者に診てもらった際、念のために行った遺伝子検査でα-1欠損症であることが判明した。これは、後に重篤な呼吸困難が発症することを意味しており、治療には高額の医療費が必要となる。彼女は、この事実を知った雇用主に解雇された上、健康保険も解約されたという。(「日経サイエンス」2001年3月号より)

 こうした事態を懸念して、アメリカでは、2000年2月にクリントン大統領による大統領令で、遺伝子情報による公務員の雇用差別(遺伝子診断の強制・遺伝情報による待遇格差など)を禁止した。ただし、一般の企業での差別を禁じる連邦法は制定されていない。米国経営者協会が1999年に行った調査では、大企業や中堅企業の30%が何らかの形で従業員に遺伝子情報を求めており、7%がその情報を採用や昇進の際に参考にしていた。

 一方、生命保険会社も、遺伝子診断のデータが入手できたときには、これを、加入者の選別に利用するはずである。医療保険の場合、統計的なデータから得られた罹患確率を元に保険料と保険金の額を設定しているが、特定の遺伝子の保因者に関しては、罹患確率が大幅に高くなるため、この金額設定では儲けにならない。したがって、ガンや糖尿病など保険の対象となる疾病に罹る確率が高まるような遺伝子を持っている人に対しては、加入を拒否したり保険料を高くするといった遺伝子差別を行うことが予想される。実際、アメリカ・ニューハンプシャー州では、1991年、精神発達遅滞を起こす遺伝病の保因者であることが判明した家族6人全員に対して健康保険が打ち切られたことがある。この事件をきっかけとして、1995年、遺伝病を理由とした保険の差別を禁止する州法が制定されたが、こうした規定は、必ずしも一般的になっているわけではない。

 個人の医療保険の場合、保険会社は、加入希望者に対して健康診断を行い、その結果をもとに加入の是非や適正な保険料を割り出している。将来、遺伝子診断が簡便に行えるようになった時点で、保険加入時の健康診断の1項目に加えられる可能性もある。保険会社の側からすると、遺伝子診断で病気が発症する確率が高いとわかった人が、その事実を隠して高額の医療保険に加入する(保険の逆選択)ことも予想されるので、むしろ「遺伝子検査の結果を本人が知った場合、保険会社に告知すべきだ」(日本保険協会)という見解を示している。

 こうした保険会社の動きに対して、生まれながらの形質に基づいて人間を差別することは、基本的人権に反するとの考えから、何らかの法的な規制が必要だという意見も強い。この問題に関しては、国によって微妙な温度差がある。


出生前診断

 遺伝子診断が受精卵や胎児に対して行われるようになった場合には、異常が発見された時点で中絶されるという「胎児の人権」にかかわる問題が生じる。出生前診断には、着床前に行う受精卵診断と、着床後の胎児に対して行う胎児診断があるが、いずれも倫理的な観点からの批判にさらされている。

 日本の母体保護法では、先天性疾患を理由に中絶することは認められていないが、現実には、ダウン症(第21染色体のトリソミー)などが発見された場合には、(母体保護法にある「経済的理由」を拡大解釈して)過半の親が中絶を選択している。こうした状況を鑑みると、受精卵や胎児の遺伝子診断が一般的になったとき、何らかの異常が発見されれば、必ずしも致死的な疾患でなくても、中絶される蓋然性が高い。

 1998年、日本産婦人科学会は、受精卵診断について、重い遺伝病に限り審査を経て承認されるとする見解を発表、これを受けて、1999年、鹿児島大学倫理委員会が、デュシャンヌ型筋ジストロフィーの遺伝子診断を国内で初めて承認した(産婦人科学会が承認しなかったため、実施はされず)。ここで承認された診断法は、人工授精で得られた初期胚から細胞を採取して遺伝子診断を行うもので、異常が発見された胚は子宮に移さずに廃棄する(=殺す)ことを前提とする。着床前の胚を対象として、着床させないという消極的な手段によって先天的な遺伝性疾患を防ぐことになるため、倫理的に容認できるとする意見も多い。しかし、先天的異常の保因者を社会から排除しようとする優生政策につながるとして、障害者団体などから反対意見が出されている。また、細胞を採取する過程で初期胚を傷つけることになり、それが原因となって胎児に障害が発生しないかどうかも不明である。2004年には、神戸の産婦人科医が、男女産み分けのために無申請のまま受精卵診断を実施していたことが判明、議論を呼んだ。

 アメリカでは、ごく一部の医療機関でこうした受精卵診断が実施されている。今のところ、診断の対象は重篤な遺伝病の保因者の受精卵に限られているが、それでも、ナチス的な優生思想につながるとして批判は多い。

 さらに、この技術を用いれば、多くの受精卵の中から“好みの”遺伝子を持つ子供──例えば、黒髪の男の子より金髪の女の子というように──を選び出して子宮に移し、他の受精卵を廃棄することも可能である。もちろん、常識的な親や産婦人科医がこうした暴挙を実行するとは考えにくいが、「技術的に可能なことは誰かが実行してしまう」というこれまでの技術の歴史を考えると、そう楽観することもできないかもしれない。




©Nobuo YOSHIDA