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§1.クローン技術


 1996年7月5日、イギリスのロスリン研究所で、イアン・ウィルムット博士らの研究グループの手によって、世界初の体細胞クローン動物であるヒツジのドリーが生み出された。この瞬間から、人類による生命の操作は、新たなステージに突入したと言って良いだろう。


クローンとは何か


 「クローン」とは、同一の遺伝情報を有する細胞・個体を意味する用語で、クローンを作る技術をクローニングという。この言葉は、小枝を示すギリシャ語(klon)を語源としており、植物の小枝を挿し木すると、親の木と同じ形質を有する植物が育つことに由来する。

 一卵性双生児は、自然に発生したクローン個体であり、1個の受精卵が卵割の途中で何らかの原因により2つに分かれ、それぞれが個体に発育したものである。これを応用したのが初期胚の分離によるクローニングで、受精卵があまり分化していない時点で人為的に2つに分離することによって、一卵性双生児を作る技術である。ただし、双子を作るのがやっとで、三つ子以上になると成長は見込めない。畜産業では、(肉質が良い、産乳が多いなど人間から見て)優秀な形質を持つ個体の大量育成が望ましいため、この技術を改良して多数のクローン個体を生み出せるように技術開発が進められた。こうして実現されたのが、 初期胚の核移植によるクローニングである(受精卵クローン)。標準的なクローン動物(羊や牛)は、受精卵が32個細胞期胚になったときに、これをバラバラにして、核を吸引除去した未受精卵の細胞質と電気融合させ、体外培養で胚盤胞にまで成長させた後、別の雌の子宮に移植することによって作り出す。この技術は、すでに実用化されており、日本の畜産試験場でも、1990年代に入ってから多数の受精卵クローン牛が誕生している。

 ここで重要なのは、上で述べた技術を使う限り、クローン個体は原則的には同時期に子供として生まれるという点である。子供同士は互いにクローンになっているが、発生の段階では精子と卵子の受精が行われており、2親から半分ずつ遺伝子を受け継いでいる。その意味で、一卵性双生児を人為的に生み出したものと考えて差し支えない。


クローン羊ドリー


 ドリーのケースがこうした従来技術によるクローン動物と異なるのは、すでに成熟した個体の体細胞を使ってクローン個体を作り出した点である(体細胞クローン)。言ってしまえば、大人が自分の(遺伝的な)コピーを作ったことに相当する。

 この成果が画期的なのは、多くの生物学者の常識に反して、一度失われた細胞の全能性を復活させることに成功した点である。すべての細胞には、あらゆる器官を作るのに必要な遺伝子が含まれている。しかし、受精卵が、そこから内臓や骨格など体のさまざまな部分が分化していくことができるという意味で全能(omnipotent)なのに対して、成熟個体の体細胞は、すでに全能性を喪失し、培養しても各組織特有の(心筋細胞なら自律的に脈動するような)細胞にしかならない。これは、遺伝子の実体であるDNAがメチル化などの化学的修飾を施されてしまったためである。これまで、こうした遺伝子の変化は不可逆的だと考えられており、成熟個体の体細胞からクローンを作り出すことは困難だという考えが、生物学者の間で支配的だった。

 体細胞クローンを作る試みとして、1970年にアフリカツメガエルの腸上皮細胞を使った実験が行われているが、成熟したカエルから作った個体は、オタマジャクシとして成長したもののカエルに変態することはなかった。これは、カエルの体内では、オタマジャクシをカエルに変える遺伝子が、もはや用済みのものとして機能しなくなっているためだと考えられる。また、鳥類や哺乳類に関しては、多くの科学者の努力にもかかわらず、体細胞クローンを作る試みはことごとく失敗してきた(ただし、追試による検証がなされていないいくつかの報告例はある)。

L17_fig18.gif  ドリーを誕生させたロスリン研究所ウィルムット博士のグループは、この常識を覆すべく、次のようなテクニックを用いてクローニングを行った。まず、年齢6歳の雌ヒツジ(フィン・ドーセット種)の乳腺細胞を採取し、培地上で3〜6世代にわたって継代培養する。これを、核を除いた(スコティッシュ・ブラックフェイス種ヒツジの)未受精卵細胞と電気融合させ、6日間培養した。277個の培養細胞のうち、胚盤胞まで成長した29個を13匹の代理母(スコティッシュ・ブラックフェイス種)の子宮に移植した結果、148日後に唯一の健康な個体としてドリーが誕生した(他は流産または出産直後に死亡した)。

 成功をもたらした鍵となる操作は、乳腺細胞の継代培養中に栄養条件を悪くして、細胞周期を休止期に誘導したことである。受精直後の卵細胞は、RNAの合成をほとんど行っていない休止期にあるので、核移植する細胞を同じ状態にすればクローンが可能になるという見通しのもとに実験したところ見事に成功したという訳だが、分化した細胞核が全能性を取り戻した理由については、必ずしも明らかになっていない。とにかくも、こうして、成熟個体の体細胞からクローンを作るという「神をも恐れぬ」技術が実現したのである。

 ドリーは、素年間は健康に育ち、1998年にはポニーを出産して生殖能力があることが確認された。しかし、5歳半になったとき、老齢の羊に多く見られる関節炎に罹患し、健康上の不安が表面化、さらに、2003年には重篤な肺疾患を発症して、獣医師の判断で安楽死させられた。羊の平均寿命は必ずしもはっきりしていないが、一般には11〜12歳と言われており、ドリーが6歳で病死したことは、クローン動物に健康上の問題があることを示唆する。ドリーは6歳の雌羊の体細胞から作成されているので、誕生時に、すでに細胞年齢が6歳に達していた可能性もある。


クローン技術の問題点


 ドリー誕生に用いられた技術は、まだいくつかの問題を含んでいる。

 第1に、成功率がきわめて低く、「まぐれ当たり」的な色彩が色濃いことを指摘しなければならない。ドリーの場合も、同様の処置を行った多数の乳腺細胞のうちただ1つだけが成長したにすぎない。また、日本で2001年4月までに作られた225頭の体細胞クローン牛のうち、96頭と4割以上が出産の前後に死亡している。死亡原因はさまざまだが、免疫不全など通常は稀にしか見られない異常が絡んでいるケースが少なくない。

 特に注目されているのは、クローン牛に母体内で異常に成長して死産に至る「巨大胎子」(通常25〜40kgの黒毛和牛が50kg以上になる)が数多く見られるという点である。その原因はいまだ解明されていないが、1つの仮説として、受精の際にリセットされる遺伝子のオン/オフがクローンでは完全には行われず、母体内での成長をコントロールする遺伝子がうまく働いていないという見方がある。こうしたオン/オフは、主にDNAにメチル基が結合すること(メチル化)によって制御されており、生殖細胞と異なって部分的にメチル化されたDNAを持つ体細胞から作られたクローンは、必然的に遺伝子に異常が生じることになる。この仮説が正しいとすると、クローン個体は、単に出産に至る割合が低いだけでなく、生物としての機能そのものが不完全であると考えられる。

 成功率が低くなるもう1つの原因として、核移植を行う際に細胞に過大なストレスを加えることが指摘できる。マイクロピペットを細胞に突き刺し核を吸い出す際に、細胞は大きく変形させられる。細胞を、核や細胞内器官が内部に浮かんでいる液体の入った袋だと見なすと、こうした変形が重大な事態を引き起こすとは考えられないかもしれない。しかし、実際には、細胞内部には微小管などによる3次元構造が存在しており、外力による細胞の変形は、その歪曲ないし破壊を意味する。こうした細胞レベルでのストレスが、発生の過程に何らかの悪影響を及ぼしたとしても不思議はない。ただし、この点については、今後、技術的改善によって克服される可能性もある。

 クローン技術の第2の問題は、こうして誕生した個体の生物学的な特性が、充分に解明されていない点である。クローン羊ドリーは、すでにボニーという子供を出産しており、正常な妊娠能力を有することが確認された。だが、生後5歳半という若さで老齢のヒツジに特有の関節炎に罹患したことが判明し、クローン動物の健康に対する懸念が急速に広まった。このほか、クローンマウスは免疫力が低下して通常よりも短命であることが判明している。生物学的に信頼できるデータを得るには、多数のクローン個体を長期間にわたって観察する必要があるが、ドリーを作り出したウィルムット博士は、多くの事例を元に「クローン動物は明らかに何らかの異常を持っている」と主張している。

 生物学者が注目しているのは、クローン動物の年齢である。外見上は、母胎から産み落とされたばかりのクローン個体は、新生児のさまざまな特徴を備えており、0歳の動物のように思えるだろう。しかし、染色体レベルではどうなっているだろうか。よく知られているように、体細胞が分裂する過程で、染色体末端のテロメアと呼ばれる部分が少しずつ短くなっていき、これが限界点を越えると細胞の分裂能力が失われる。ドリーを誕生させる際には、すでに6年分の分裂を通じて短くなったテロメアを持つ細胞が使われているので、彼女は、細胞学的には、生まれながらにして6歳に達している可能性がある。このように「老化した」細胞がクローン個体やその子孫にどのような影響をもたらすかは必ずしも明らかではないが、ガンの発生確率が高まるという予測もある。クローン個体のテロメアを調査したところ、ドリーでは短くなって細胞レベルで老化していることが示されたが、クローン牛では、受精の場合と同様に、発生初期に元の長さに戻っているという結果が得られた。これが羊と牛という種の差によるものか、用いられたクローン技術によるものか、はっきりしていない。


クローン技術の応用


 こうした問題があるにもかかわらず、成熟個体の体細胞からクローン個体を生み出す技術は、多くの利用価値を含んでいる。以下に列挙しよう。

  1. 優良家畜の増産 : 肉質の良い牛・乳量の多い牛など、畜産業の面から見て優秀な形質を持つ個体の体細胞クローンを大量に作り、食料の安定供給を図る。技術的には短時日のうちに実用化できるが、倫理的な問題は別にしても、染色体異常などを持たない正常な個体に成長するかどうかなど、今後とも見守るべき点は多い。
    【クローン牛】日本では、霜降り肉生産のために、クローン牛の研究が集中的に進められており、1998年7月、石川県畜産総合センターで、成熟個体の体細胞を用いた世界最初のクローン牛「のと」と「かが」が誕生した。霜降りの牛肉はごく限られた肉牛からしか得られず、肉質の良い牛を見つけることが肥育業者にとって苦労の種だった。従来は、肉質の優れた雄牛の精液を採取して人工授精するという手法が使われていたが、これでは、雌牛の遺伝子が混じってしまい、必ずしも優秀な子牛ばかりが生まれるわけではなかった。このため、最優秀の肉牛のクローンを作り、高価な霜降り肉を安定生産しようという計画が進められている。
  2. 実験用動物のコピー : マウスやラットを使った実験で、実験個体の違いにより結果が一定しないことがある(例えば、ビスフェノールAのような環境ホルモンがマウスの精巣形成に影響を及ぼすかどうかなかなか確定できないのは、もともとの精巣の大きさに個体差があるため、投与後に解剖して得られた測定値が化学物質の影響によるものか判然としないからである)。この場合、クローン技術を使って全て同一の遺伝子を持つ実験動物を用意すれば、実験精度を上げることができる。また、ヒトと同じ疾患を持つ実験動物(糖尿病のマウスや高血圧のネコなど)を遺伝子操作によって作り、クローン技術でこれを大量にコピーして研究期間に供与すれば、この分野での研究が促進される。
  3. 希少動物の保護・再生 : 絶滅の危機に瀕している動物をクローンによって増やしたり(中国でのクローンパンダの開発)、既に絶滅した動物の遺体の細胞から個体を再生する方法が研究されている。シベリアの永久凍土で凍りづけになったマンモスから採取した細胞の核を、現存する象の除核未受精卵に融合させて、マンモスのクローンを作る計画もある。残念ながら、6500万年以上前の恐竜のDNAはさすがにボロボロになっているため、恐竜のクローンを作るというSF『ジュラシック・パーク』の夢は実現不可能らしい。
  4. ペットの分身づくり : 死んだペットのクローンを作る試みもある。アメリカでは、死んだ愛犬の再生を希望する資産家からの資金提供によって、2002年にクローン猫cc(カーボンコピー)が開発された。2005年には、死んだペットの細胞(口腔粘膜など)からクローンを作るビジネスが始まり、1匹数百万円で販売されている。ペットに死なれた飼い主の多くは、ペットロス症候群に苦しめられており、死んだペットに良く似たクローンは、心の慰めになるという考えもある。しかし、クローンといっても生き写しではなく、毛の模様のような後天的な性質は必ずしも同じにならない。さらに、健康なクローンが生まれる確率はたかだか数パーセントしかなく、多くのクローン胚を作成し、無事に生まれた中から健康そうな個体を選び出して依頼主に手渡すことになるが、そうしたやり方は、倫理的な問題をはらんでいるとの見方もある。
  5. 動物工場 : 化学合成が困難な生化学物質を、遺伝子組み換え技術によって動物に作らせることができれば、その動物のクローンを用いて医薬品などの大量生産が可能になる。
    【クローン羊ポリー】1997年7月、ロスリン研究所で作られたクローン羊ポリーには、血友病の治療に必要なタンパク質を合成するヒト遺伝子が組み込まれていた。将来的には、このタンパク質を乳に分泌させ、治療薬として利用する計画である。
  6. 移植用臓器の作成 : 遺伝子組み換え技術などによってヒト組織との適合性が向上した動物が産生できれば、そのクローンを大量に供給して移植用臓器の不足を解消できると予想される。アメリカでは、クローン牛の胎児の脳をパーキンソン病患者の脳に注入するという治療法も開発中。ただし、いずれも実用化されるまでには相当の期間を要する。

人間への適用


 クローン羊・ドリーの成功が発表されたとき、生物学者のみならず、多くの知識人・ジャーナリストが騒然としたのは、この技術をそのまま人間に適用することが可能だったからである。人間のクローニングは、オルダス・ハックスレーの『すばらしい新世界』をはじめ多くのSFで取り上げられた題材で、しばしば非人間的な“悪魔の技術”として扱われた(『すばらしい新世界』では、人間的感情を持たずに単純労働を営々と遂行する労働者の大量生産のために、この技術が利用される)。クローン技術を人間に適用することの是非は、倫理面・安全面の考察に基づいて、徹底的に議論されなければならない。

 クローン技術の人間への適用といっても、いくつかの段階がある。比較的穏当なものから、順に説明していこう。


 最も受け入れられやすいのが、発生・分化などに関する基礎研究にヒト・クローンの初期胚を利用することである。受精卵を用いてヒトの発生を研究することには、「受精」という神秘的なプロセスが介在することもあって、批判が強い。これに対して、ヒト・クローンの初期胚は、本来は人間へと成長するはずもない1個の細胞を培養したものなので、心理的・倫理的抵抗感が少ないようだ。アメリカをはじめ多くの国では、クローン個体の作成を目的としない基礎研究は、倫理委員会などによる規制はあっても、基本的に容認されている。

L17_fig19.gif  クローン技術を移植医療に利用することも、少なからぬ学者が容認されるべきだと考えている。こんにち、死体/生体からの臓器や組織の移植は、多くの国で通常の医療行為として実行されているが、移植臓器(組織)の不足と、移植後の拒絶反応という2つの問題を抱えている。クローン技術を利用して患者本人の体細胞から臓器を作り出すことができれば、自分と同じ遺伝情報を持っている細胞なので拒絶反応も起きず、臓器不足も解消される。現在、人間の皮膚細胞を牛の除核卵細胞と融合して、胚性幹細胞(各組織に分化する元の細胞、ES細胞(embryonic stem cell)あるいは万能細胞とも呼ばれる)を作る実験が試みられている。また、中絶胎児から得られた胚性幹細胞を、さまざまな組織へと分化させる研究も進行中であり、これらの技術を組み合わせれば、レシピエントと同じ遺伝情報を持つクローン組織を作って移植することも可能となる(右図)。ただし、こうした技術に対しては、倫理的な面から批判する声も挙がっており、特に、ヒトとウシの細胞を融合させる技法は、「種の混交」につながるとして危険視する学者もいる。

 従来の方法では子供ができない夫婦に対する不妊治療として、夫婦の一方の体細胞を利用したクローン人間を作ることも考えられる。2002年には、イタリア人医師がこの目的でクローン人間作りを実行に移したと発表して論議を呼んだ(真偽のほどはいまだ不明である)。確かに、事故や病気で完全に生殖能力を失った後も体細胞があれば子供を作ることが可能になるので、この技術の利用を望む人もいるかもしれない。しかし、夫婦間の遺伝子を半分ずつ持つ通常の子供とは異なって、ひとりの大人の遺伝的コピーを作るという点で、倫理的に問題が多い。さらに、現時点では、安全性が確立されておらず、健康な子供が生まれる確率はかなり低い。

 もちろん、不妊治療とは無関係にクローン人間を作り出すことも技術的には可能だが、これに対しては、大半の学者や知識人が反対している。

 世界的にみると、クローン人間の作成に対しては、ヨーロッパを中心に反対意見が強い。EU(欧州連合)の場合、 欧州会議総会において「クローン人間誕生につながる研究の禁止を訴え、クローン技術の管理をより強化すべきである」と決議したほか、イギリス・ドイツ・フランス各国では法律でヒトの胚を扱う生殖医療全般を規制し、クローン人間の作出を禁止している(違反者に対する刑は、国によって懲役5〜20年になる)。一方、アメリカでは、クリントン米大統領が、クローン技術の人間への適用に対する強い反対姿勢を表明しているが、全体的な禁止法はなく、1997年に「人のクローン個体づくりに対して連邦資金の支給を当面禁止する」という大統領令が公布されたにとどまっている。民間資金を用いた研究は規制しない。また、WHO(世界保健機関)は「人のクローン再生は認められない」との公式声明を発表、キリスト教の総本山であるバチカンからも、ドリー誕生の発表後、法王ヨハネ・パウロ2世が「人間の生命と尊厳を危険な実験の対象とすることは、絶対に許されてはならない」と言明している。日本では、「人間のクローン胚(動物との交雑胚も含む)を母胎に戻して妊娠させること」を禁じ、違反者に10年以下の懲役または1000万円以下の罰金を科す「クローン技術規制法」が2000年に成立した。


 いくつかの世論調査の結果をみると、クローン技術を利用した移植用の臓器・組織の作成に対しては、容認できるとする声が禁止すべきだとの意見を上回ることが多いが、クローン人間の作成に対しては、不妊治療の場合を含めて、反対意見が強い(1998年に行われた全国2700人を対象とする総理府の調査では、67%の人が不妊治療としても用いるべきではないと回答している)。これは、人間の倫理観からして、きわめて当然の結果だと思われる。

 ただし、一部の人が不安に思っているように、ヒトラーのような特定の人間を再生することは、クローン技術といえども不可能であると強調しておくべきだろう。ドリーで用いられた技術は、生物学者にとっては、受精卵ではなく体細胞からクローンが生み出されたという点が画期的なのだが、そうした技術的な面に目をつぶると、単に、時間差を付けて一卵性双生児を生み出したことにほかならない。当然のことながら、記憶や意識は全く別のものとなり、クローン人間といえども、独立した人格の持ち主として別個の人生を歩むことになる。一卵性双生児は、顔や体つきのみならず内面までそっくりだと言われるが、これは、ふたりがほぼ同一の環境で育てられた結果であり、生育環境を違えれば、学業成績や行動パターンなどにかなりの差異を生じることが知られている。心を数値化することは難しいが、大雑把にいって、知能や性格のうち遺伝的に規定されるのは50%程度であり、残りは、環境要因によって変化すると考えられる。実際、遺伝子が持っている情報の多くは、細胞の置かれた環境(特定の化学物質の濃度など)に対してどのように反応するかを定めるものであり、個体の全体像をまとめた設計図が予め用意されている訳ではない。代謝系に影響を及ぼす糖鎖の構造や、異物に対する反応を定める免疫系も、遺伝以外の要因によって決定される。ドリーのように、共通するのは遺伝子だけで、細胞質や母胎環境が全く異なるケースでは、クローンではあっても乳腺細胞を提供した“親”とはかなりの差異が生じるものと予想される。むしろ、ドリー・タイプのクローンの研究を通じて、生物の成長に後天的な要因がいかに大きな影響を及ぼすかが判明するのではないだろうか。


 体細胞クローンは、人間が洋服を裁断するように生命を操る技術でもある。この技術が持つ倫理的な意味は、今後とも検討を続けなければならないだろう。




©Nobuo YOSHIDA