分子における複雑性の実現


 「少数の原子で構成された分子」という単純で現実的な物質系において、相対的に高次の階層に見られる全体的な特徴の中に、基礎物理学で定義される諸要素の組み合わせに還元できないタイプのものがあることは、具体的に例示できる。議論の要諦は、「原子が特定の位置に配位された状態」としての分子の存在が、波動関数を用いた量子論の記述では、部分に分割できない単純な事態として実現されるという点である。


きわめて簡単な例──2原子分子

 はじめに、問題の所在を明らかにするために、一酸化炭素COのような異種原子2個から成る2原子分子を考えることにしたい。環境との相互作用が無視できる孤立分子の場合、「核間距離がLである」という性質は、(原子核を質点で表し、電子に関しては分子軌道理論を援用するといった近似の下で)明確に定義することができる。この性質を、仮に「距離L-性」と呼ぶことにしよう。

 「距離L-性」は、簡単な量的表現で表されるものの、質量や電荷などの1次的な物理量が特定の値を取るという状態ではないので、「複合的な性質」と見なされる。古典力学の範囲では、この性質は、2つの原子核の位置ベクトルをq1q2(以下、太字はベクトルであることを表す)として、
  |q1 - q2| = L
という式がある精度で満たされることと等価であり、各原子核の位置の記述に還元される。ただし、原子核が古典的な力学法則に従って運動しているならば、核間距離Lの位置が安定な平衡点になることは稀であり、通常は、与えられた初期条件に応じて偶然に距離L の位置に辿り着いたものと解釈される。

 これに対して、量子力学における「距離L-性」は、全く異なる様相を呈する。古典力学で3次元座標空間内部の位置を示すものとして扱われたqは、量子力学では、波動関数ψが定義される「状態空間」の変数へと姿を変える[1]。粒子が1個しかない場合は、qを座標空間と解釈してもさして問題ないが、粒子がN個あるときには、波動関数は、
  ψ(q1,q2,…qN)
と表され、状態空間は、座標空間とは数学的構造の異なる次元数3Nの空間となる。

 2原子分子の状態は、原理的には、全電子(一酸化炭素COの場合は14個)と2個の原子核の自由度を使って計算することができるが、そのままでは自由度が48個と多すぎるため、通常は、断熱近似によって電子と原子核の運動を分離し、分子軌道法などによって、核間距離が与えられたときの電子エネルギーを先に計算してしまう。こうすると、2つの原子核の間の有効ポテンシャルが(電子エネルギー+原子間のクーロンエネルギーとして)求められるので、実質的に、6次元の状態空間で波動関数が定義される2体系の問題に帰着する[2]。さらに、並進運動(自由度3)と回転運動(自由度2)を分離すれば、分子軸方向に核間距離が変化する1自由度の運動だけが残される。弱く励起された核の運動を扱う場合は、平衡点の回りの微小振動を考えれば良いので、原子核の相対距離をrとすると、核間距離にかかわる運動は、調和振動ポテンシャル:
  U(r) = 1/2 k(r - L)2
に捕捉された粒子の運動と同等になる。このとき、基底状態の波動関数は、
  ψ0(r) = C exp{-c(r-L)2} …(1)
で与えられる(Cとcは、以下の議論には無関係の定数である)。この波動関数は、2個の原子核が相対距離Lの地点で(零点振動を除いて)互いに静止している状態を表している。分子振動が励起されたときの波動関数は、エルミート多項式を使って書き下され、r=L が包絡線のピークとなる振動解として与えられる。

 量子力学における2原子分子の「距離L-性」は、「それぞれの原子核の波動関数が3次元座標空間のある地点でピークを示しており、このピークの間隔がたまたまLになる」ということではない。実際、分子が運動量の固有状態にあるときには、原子核の位置は確定されず、q1q2が特定の値になる点で波動関数がピークを示すことはない。「距離L-性」とは、波動関数ψ(q1,q2) が、高次元状態空間内部にある「原子間距離Lの点」で、(1)式のような“単一の”ピークを示すことを意味する。

 「距離L-性」は、物理的なリアリティを持つ性質である。このことを理解するためには、次のような思考実験が役に立つだろう。一酸化炭素のような2原子分子を1個だけ容器の中に封入する。容器壁は、絶対零度に冷却された黒体でできており、容器の中央付近に、2原子分子をトラップする浅いポテンシャルの井戸があるとする。容器中の分子は、初めのうちは激しく運動しているが、容器壁に衝突するたびにエネルギーを失い、最終的には、電子運動・分子回転・分子振動のいずれも基底状態に落ち込んで、ポテンシャルの井戸の中で微小振動をするようになる。この過程を通じて分子の波動関数は自律的に変化し、状態空間を張る変数の適当な組み合わせに対して、平衡点付近でピークを示すような定常状態に達する[3]。「距離L-性」は、このような相互作用の結果として実現される物理的な性質であり、人間が2原子間の距離を観測して初めて具体化するような人為的な性質ではない。

 「波動関数が状態空間内部のある点でピークを示す」という事態は、基盤となる量子力学の法則から導出することが可能であり、基礎物理学からは原理的に導けない新規な性質として創出されたわけではない。にもかかわらず、「距離L-性」は、構成要素の組み合わせに還元することのできない性質である。なぜなら、「ピークを示すこと」は変化量の振舞いとしてきわめて単純であり、これを、より単純な事態に分割することができないからである。実際、「距離L-性」を「2つの原子核がそれぞれ位置q1q2にあり、両者の間隔がLである」という形に言い換えるためには、原子核の相対距離という1次元空間で実現していた事態を、q1q2の6次元空間に拡張して記述し直さなければならず、単純な事態に分割したことにはならない。さらに、この言い換えは、並進運動や回転運動が励起されている場合には、物理学的に見て正しい命題ですらない。「距離L-性」という複合的な性質は、状態空間内部のピークという単純な事態として実現されたと見なすべきなのである。


もう少し複雑な例

 2の議論を一般の多原子分子に拡張することは、形式的には容易である。1直線上にないN原子分子の場合は、分子軌道法で求めた電子エネルギーを有効ポテンシャルに繰り込んだ上で、総数3Nの自由度から並進運動と回転運動の自由度を引いた(3N-6)個の振動モードを考えれば良い。微小振動をしている場合、振動のエネルギーEは、平衡点からの変位を適当に1次変換して得られる基準座標Qiを使って、
  E = 1/2Σi(dQi/dt)2 + 1/2Σiωi2Qi2 …(2)
と表される[4]。波動関数は、基準座標Qiを引数とする調和振動子解で表され、基底状態では、(1)式と同じように、Qi =0 となる点でピークを持つガウス曲線になる。

 基準座標Qiが全て0になる点は、(2)式より明らかなように、エネルギー的に見て最も安定な原子の配位を表しており、分子の幾何学的な形状を決定する。すなわち、原子核の座標変数によって張られた(3N-6)次元空間内部のある点でピーク値を持つことが、分子がある形を持つことの物理的な実現となる[5]。分子の化学的特性は、遊離基となったときの振舞いなどを別にして、原子の配位によってほぼ決定されるので、化学反応の単位として定義される分子は、状態空間における波動関数のピークという形で存在していると言って良い。2原子分子の場合と同様に、これも物理的には単純な事態であり、構成要素の組み合わせに還元することはできない。

 具体的な例として、ベンゼンC6H6を考えてみよう。ベンゼンの最大の特徴は、炭素原子が正六角形の頂点に配位されるという「正六角形-性」にある。ベンゼンには、6個の炭素原子核、6個の水素原子核、42個の電子が存在するため、162(=(6+6+42)×3)次元の状態空間における波動関数を扱うことになり、具体的な数式を書き下ろすことは難しい。しかし、コンピュータを用いた最適化構造の探索より、炭素原子核が正六角形の頂点に配位された状態がエネルギー最小の基底状態になることが判明しており[6]、6個の炭素原子核の座標変数によって張られる状態空間において、炭素骨格が正六角形となる1点に波動関数のピークが生じていることがわかる。

 ベンゼンの場合、炭素原子核が正六角形の頂点に位置しているという「正六角形-性」が、その化学的な振舞いをほぼ決定する。ベンゼンの持つ特性の多くは、π電子の共鳴による強固な炭素骨格(ベンゼン核)が形成されることに由来しており、「正六角形である」ことと「ベンゼンとして存在する」ことは、実質的に等価である。従って、「素粒子→原子→分子/結晶→…」という階層構造を考えたとき、分子レベルの存在物(entity)であるベンゼンは、物理的には、状態空間内部のピークとして単純に実現されていると見なすべきである。「炭素原子核が正六角形の頂点に配位される」ことは、シュレディンガー方程式を使って説明可能(explainable) であるが、「正六角形である=ベンゼンである」ことは、炭素原子核などの構成要素に関する記述のみを用いては定義可能(definable) ではなく、従って、「ベンゼンである」という存在論的な特性は、より単純な構成要素の組み合わせに還元できない。


簡単な例の深遠な真実

 これまでの議論で重要なのは、その上で状態関数が定義されるような変数qの張る状態空間が、計算を行うために導入された数学的な枠組みではなく、物理的なリアリティを持っているという点である。

 古典力学においても、質点の運動を調べるために、各質点の位置qを座標軸とする空間を考えることはある。これと運動量pを組み合わせた空間は、位相空間(phase space)と呼ばれ、解析力学を進める上で有用な道具になっている。しかし、位相空間そのものは、リアリティのない数学的な虚構でしかない。古典力学においては、位相空間内のある1次元軌道だけが“実際の”運動を表しており、空間の他の領域は、実現されなかった仮想的な軌道で埋め尽くされている。位相空間の導入は、あくまで、理論的に可能な運動の総体を考えるための手段であり、位相空間自体に何らかの物理的な意味が与えられているわけではない。

 これに対して、量子力学における状態空間は、その中で量子ゆらぎ(quantum fluctuation)が生じるスペースとしての物理的意味を持つ。このことは、量子力学の基盤となっている場の量子論に遡って考えると、わかりやすい。

 標準的な場の量子論の定式化では、時空の各点に状態空間が割り当てられる。最も単純な自由スカラー場理論の場合、状態空間を張る変数は、実スカラー変数φ(t,x) となる。この変数は、ある空間的超平面Σ上で定義される波動関数Ψ[φ(t,x); (t,x)∈Σ] に作用する演算子でもあり、そのフーリエ成分は、(係数を別にして)波数kを持つ粒子を生成・消滅する演算子となる:
  φ(t,x) = ∫[dk]{exp(iωt-ikx)a(k) + h.c.} (h.c. : エルミート共役項)
この生成演算子を適当に重ね合わせると、ある状態fを作る生成演算子aを構成することができる:
  a= ∫[dk]a(k)f(k)
非相対論的な近似の下では、aは運動量表示の波動関数f で表される1粒子状態を生成する[7]。特にf として紫外領域で切断された正弦関数exp(ikq)ρ(k)(|k|が小さいときはρ〜1、|k|→∞のときρ→0) を選べば[8]、ある点qの付近で1粒子を生成する演算子となり、これを真空(フォック真空)に作用させると、qという位置に1粒子が存在する状態|q〉が得られる。これより明らかなように、1粒子状態の位置変数qを動かすことは、場の変数φ(t,x)を足し合わせる際の重みを変えることに相当する。qは場φの集団運動を記述する集団座標であり、1粒子波動関数ψ(q) が1点に集中していないのは、集団運動において場の変数が確定値を取っておらず、量子論的なゆらぎのために拡がっていることの結果である。また、q空間内部にある波動関数のピークは、もともとの場の変数φが張る状態空間のピークに由来するものである。

 N粒子系の波動関数ψ(q1,q2,…qN) についても同様の議論ができる。この関数が定義される3N次元の状態空間は、「現実の座標空間よりも巨大な次元数を持つ数学的な虚構」ではなく、実は、膨大な次元を持つ(連続極限では無限大となる)場の変数φが張る状態空間の内部で、現象に関わる少数の変数を再構成して作り上げた“小さな”空間にすぎない。N個の粒子から成る分子が特定の状態を取っているという事態は、こうした小さな空間において、波動関数がピークを示すことに対応する。

 場の変数が張る膨大な次元数の空間から現象に関わる小さな空間に自然に移行するには、無関係な変数が分離されなければならない。数式の上での変数分離は、人間が計算を遂行するために行う人為的な作業だが、自然界では、少数のパラメータが現象を支配するようになる“秩序形成”の過程が、しばしば自律的(autonomous)に進行することが知られている[9]。膨大な変数を持つシステムが自由エネルギーの極小値に対応する準安定状態に近づく過程では、多くの場合、適当な変数変換を行うことによって、システムの大局的な振舞いを決定する少数のゆっくり変化する変数と、これらに隷従する減衰モードの変数に分離することができる。これがいわゆる隷従化過程で、システムの全体を支配する変数は、秩序パラメータ(order parameter)ないし支配パラメータと呼ばれる。隷従化過程が実現されている場合、システムを完全に記述するN個の変数を変数変換し、n個(n≪N)の秩序パラメータQ={Q1,Q2,…Qn}とN-n個の隷従パラメータq={q1,q2,…qN-n}に分けると、波動関数ψ(Q,q)は、近似的にψ(Q,q(Q))と表される[10]。このとき、微小な誤差やランダムな揺らぎを別にすれば、形成された秩序構造は、実質的に、小さなn次元空間に局在すると見なして良い。

 2原子分子の「距離L-性」やベンゼン環の「正六角形-性」は、膨大な次元数を持つ状態空間のごく一部分に、秩序パラメータに支配された状態を表す波動関数のピークが生じることを意味する。こうしたピークは、秩序形成を経てシステムが到達する状態を表しているという意味で、古典的な力学系におけるアトラクタと類比的に考えることができる。ただし、古典的力学系のアトラクタが、位相空間内部で定義される数学的虚構にすぎないのに対して、量子論では、その近傍に量子ゆらぎが集中するという物理的な状態を表している。

 波動関数がピークを示すという単純な形で、分子の形成のような複雑な事態が実現されることは、不思議に見えるかもしれない。実は、こうした複雑性の度合いは、場の変数が張る高次元状態空間のどのような部分にピークが形成されるかに依存する。多くの次元にわたるピークは、一般に複雑性が高い。これは、2原子分子の「距離L-性」が1次元空間のピークであったのに対して、ベンゼン環の「正六角形-性」が12次元空間のピークであったことを思い起こせば、納得できるだろう。有機高分子になると、より多くの次元にまたがるようなピークが生じており、物理的には単純な事態でありながら、人間の目には、きわめて複雑な性質が実現されているように見える。超伝導・超流動のような量子論的な協同現象は、さらに高度な複雑性が、準粒子の集団運動によって実現された例である。複雑な性質が単純に実現されるという不思議な出来事が起こるのは、高次元状態空間の内部で物理的な過程が生起する量子論固有の特性である。



【注】

[1] 量子力学的な状態が定義されるヒルベルト空間とは、変数qの定義域Ω内で|ψ(q)|2がルベグ可積になる複素関数ψ(q) の集まりである。この定義域Ωに対する一般的な呼び名はないようだが、次の翻訳では「状態空間」という呼び方が採用されている。J.v.ノイマン著『量子力学の数学的基礎』(みすず書房、井上健ほか訳、1957)II-1。変数qを演算子として特徴づける解説もあるが、変数は同時に演算子となり得る(すなわち、関数ψ(q)に対してqψ(q)を考えることができる)ので、状態空間の変数として扱う方が、より一般的である。

[2] こうした扱いについては、多くの教科書で解説されている。例えば、ランダウ=リフシッツ著『量子力学 2』(東京図書、好村滋洋・井上健男訳、1970)第11章。

[3] ここで述べた思考実験の範囲では、波動関数は自律的に基底状態に落ち込むが、より一般的なケースでは、decoherent history理論に基づいて、断続的に分かれていく波動関数の特定の分岐だけを考えねばならない。decoherent history理論については、Roland Omnes: 'Consistent interpretations of quantum mechanics' (Rev.Mod.Phys. 64(1992)339) などを参照。

[4] ランダウ=リフシッツ著『量子力学 2』(前掲書)第12章。

[5] 各原子の位置座標qiから基準座標Qiへの座標変換は、一般には線形変換ではないので、ここで言う(3N-6)次元空間は、ベクトル空間論の意味での部分空間にはならない。

[6] ベンゼン環については、ハートリー・フォック・スレーター方程式をコンピュータで解くことによって、1%程度の誤差で原子間距離まで正しく求めることができる。平野恒夫編『分子軌道法MOPACガイドブック』(海文堂出版、1991)などを参照。

[7] 量子力学と場の量子論の関係を解説した教科書は少ないが、次のものが比較的わかりやすい。新井朝雄著『多体系と量子場』(岩波書店、2002)

[8] ρ(k)によって|k|の大きい領域で切断を入れるのは、場の量子論特有の紫外発散の困難を避けるためである。

[9] 古典的力学系における自律的な秩序形成に関しては、多くの教科書が出版されている。例えば、ヘルマン・ハーケン著『協同現象の数理』(東海大学出版会、牧島邦夫・小森尚志訳、1980)。ただし、これを量子論にまで拡張するには、3に挙げたdecoherent history理論を援用しなければならない。

[10] 正確に言えば、秩序形成に全く関与しない変数rも存在するため、波動関数は、近似的に、秩序形成にかかわる項ψ1(Q,q(Q))とrに依存する項ψ2(r)との積になる。これも、自然に実現された変数分離である。





【項目リストに戻る】
【表紙に戻る】

©Nobuo YOSHIDA
info@scitech.raindrop.jp