19世紀的な運動制御の理論によれば、随意運動を行う主体――大脳新皮質の特定部位に擬されることもある――は、運動に先立って基本的な目標を設定し、これを実現するのに最適な要素プログラムを蓄積された記憶情報から引き出し、一連の行動プログラムに練り上げた上で、脊髄に指令を送るとされた。この考えに従えば、意志機能は、目標を設定し指令を発する脳部位に帰属することになり、意識化を含めた高次の精神現象がすべてここで実現されると見なせる。素朴なイメージを用いるならば、ここに意識を担い身体を制御する“ホムンクルス”が存在するとでも言えようか。
しかし、こうした古典的な制御理論は、いくつかの理由によって反駁される。
第1に、運動は時間とともに展開されるものであり、運動に伴う環境の変化にも正しく応答していかなければならないにもかかわらず、特定の部位があらかじめプログラムを設定する手法では、(飛んでくるボールを捕球するといった)短時間で反応しなければならない運動を、正しく制御できないはずである。この困難は、感覚器官からのフィードバック・ループを加えても解消できない。神経生理学的なデータでは、感覚情報を中枢にフィードバックするには、(視覚の場合は)少なくとも 100ミリ秒程度は必要であり、機敏な動作には間に合わないからである。
第2に、中枢が扱う情報は、すべての筋出力をカバーしている訳ではなく、より抽象的な運動の単位にかかわっていることが知られている。これは、運動補足野や大脳基底核に損傷を受けた人が、単なる伝達経路の離断から予想される以上に拙劣になること、あるいは、処理すべき情報量と処理速度から概算して、すべての制御指令を中枢が担当するのは困難なことから判明した。
以上を考慮すれば、随意運動の制御は、抽象的なプランを具体的なプログラムに組織化するものであり、この作業を通じて、時間的な構造を持つ《意志》が構成されていくと推定される。
©Nobuo YOSHIDA
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