小脳は、身体各部の受容器や大脳からの信号を受け取り、これをもとにして延髄の前庭神経核や反射中枢である小脳核に運動を制御する信号を投射する器官である。その主たる機能は、複数の筋活動の相互関係を計算して協調的な運動を実現させることにあり、小脳の障害は、運動における推尺の異常――たとえば、物を取ろうとして目標の手前や先を掴むような症状――や各種の運動失調を惹起する。
小脳による運動制御の特徴は、(負荷が加わったときに筋張力を与える)伸張反射などとは異なって、閉ループをもつフィードバック制御ではないという点である。実際、多数の筋肉が関与する複雑な運動の場合、いちいち出力を検出しながら発生したエラーを操作器の側に帰還させていたのでは、迅速な行動が実現できないばかりか、信号伝達の遅れに起因するオーバーシュートが生じて(行き過ぎたり戻り過ぎたりの)病的な振戦を引き起こしかねない。こうした問題を回避して協調的な運動の制御を図るため、小脳では、あらかじめ筋張力などの目標値を設定し、これに基づいて信号を一方的に投射するフィードフォワード制御が実現されている。
小脳がフィードフォワード的な運動制御をしている例としてよく知られているのが、前庭動眼反射弓と呼ばれる制御システムである。これは、物体を注視しているときに(受動的または能動的な運動によって)頭の位置が変化した場合、その動きに応じて眼球の方向を調節することによって、視野にプレが生じないようにするものである。このシステムでは、頭の動きに関する情報は、頭位の運動を検出する平衡器官から小脳を経由して前庭神経核に送られ、ここでさらに動眼神経細胞に興奮/抑制を指示する信号に変換されて眼の動きを調節するのに使われるが、眼球の運動によって視野のプレが補償されたかどうかの情報は、中枢神経系には送られるものの、これを前庭神経核へと伝達する経路は存在せず、負のフィードバック制御が行われている訳ではない。にもかかわらず、正常人ならば対象物体から視線を外さずに正しく注視し続けられるのは、頭部がどれだけ動いたかという情報をもとに、視線を一定に保つのに必要な眼球の回転角を小脳で計算し、この目標値に向かって運動筋をフィードフォワード的に制御しているからである。このとき、小脳は(三半規管から得られた回転速度に関するデータを積分するなど)目標値を求めるための一種のコンピューターとして機能しており、この計算に必要なさまざまなバラメーターは、介在するニューロンにおけるシナプス結合数や後シナプス電位の形で、学習を通じて小脳内部にインプットされている。
こうしたフィードフォワード制御は、単に小脳のみを介した機械的な動きに便われているだけではなく、大脳連合野からの指令によって随意運動が遂行される場合にも利用されていると思われる。連合野が随意運動の指令を発するとき、指令信号は運動野を経て小脳に送られる一方、小脳からの出力が大脳運動野に接続する錐体路のニューロンに投射されるようになり、結果的に運動が実行される以前に小脳と大脳の間でループが形成される。この過程で小脳が果たしている機能についてはいまなお不明な点が多いが、小脳が運動を制御する“コンビュータ”であることを考慮すれば、おそらく、運動を(部分的に)シミュレートしながら必要な筋張力の値を計算し、これをもとにそれぞれの筋肉を支配する大脳運動野の各部位に適切な“準備”をさせていると推測される。ここで言う“準備”とは、生理学的には、運動に数百ミリ秒ほど先だって大脳運動野に運動準備電位を誘起する過程を指し、これが小脳からの情報に基づいていることは、小脳を除去したサルで準備電位が著しく減少するという実験結果から確かめられる。準備電位が誘起された状態では、筋張力それ自体は変化していないが、これから行おうとしている運動で収縮する筋では、伸張に対する脊髄反射が増幅し、逆に弛緩する筋の反射は減少することが判明しており、まさに運動の“準備”が整えられていると言って良い。このように、運動の実行以前にその状況を予測してしかるべき目標を設定するというフォーマットは、フィードフォワード制御の典型である。
©Nobuo YOSHIDA
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