「脳が意識を持つ」という発想の誤謬

 意識を科学的に解明しようとするときに混乱の元となるのが、まず“脳”の存在をよく知られた前提とし、その上で、「この物質的存在になぜ意識が生じるのか」と問いかける論法である。このような立場から議論を進めようとして、“意識”は“脳”に付随すると言ってみたり、“意識”と“脳”は互いに作用しあう異種の実体だと想定してみても、建設的な主張にはなるまい。問題の所在を明らかにするには、“脳”と呼ばれるものがきわめて作為的な概念であることを正当に理解する必要がある。

 解剖学の知見を得たときから、人は“脳”を物象化して捉えてきた。頭蓋を切り開くと、そこに一つのまとまった物体を視認することができる。人々はこの物体を“脳”と呼称し、頭を強打すると意識を失うなどの経験的事例から、これを意識と関連づけて考えるようになったのである(“脳”が身体制御のための司令塔としての役割を果たしており、意識とも何らかの関係を持っていることは、ミイラ製造技術の開発の過程で解剖学的知見を蓄積した古代エジプトをはじめ、いくつかの古代文明で知られていた)

 物象化の手法は、通常の生活を送る上で、ごく一般的な認知の方略(strategy)である。猛獣に襲われる危険のあるとき、その個体の生態系における役割や環境との物質循環に思いを馳せても意味がない。外敵を環境から切り離された個体として捉え、その位置を自分との相対座標によって表すことが、生存のための適切な対応を実践するために有効な手段である。こうした方略は、食物を獲得したり道具を使うときにも役に立つもので、きわめて幅広く適用され、多くの場合に高度な有効性を持っているため、しばしば外界を認知するための唯一の方法論と錯覚されがちである。しかし、物象化とは、あくまで生存活動に有利な一つの方略に過ぎず、場合によっては、より対象に即した認知があり得ることをわきまえなければならない。

 “脳”に限らず物象化された対象は、一般に、自律的な内部変化や環境との相互作用のようなダイナミックな特徴が捨象されており、その一方で、個体として空間内部に定位したときの位置や運動、あるいは、スタティックな構造が過度に強調されている。この結果、日常的な生活世界においては、特徴的な(弁別のための指標となり得るような)外形を維持したまま、一定の場所を占めたり移動したりする存在として現れることになる。逆に、こうした形で表象されないような対象は、物象化すること自体が困難になる。例えば、環境に応じて複雑に外形を変えていく粘菌は、外形や構造によって弁別される物質的存在として把握されにくい。このように、非定常的に変化していく不定形の対象は、捉えどころのないものとして「不快な/不気味な/不可解な」といった感興を引き起こし、しばしば、「さして重要でない」あるいは「生活圏から排除したい」ものと見なされる。

 物象化によって最も強調されるのが、恒常的な外形ないし(外部から視認できるような)構造である。これは、弁別指標となり得る特徴として、まず、時間的に変化しない部分を抜き出すという単純な作業が行われることに起因する。このため、物象化された対象は、時間的に不変な構造が与えられたものとして現れ、それが(全体として、あるいは、個々のパーツごとに)運動することによって変化していくと認知される。人間が製造・使用する道具に関しては、こうした認知の手法は、日常的な行為をスムーズに遂行する上で役に立つ。われわれは、ハサミという道具を二枚の刃が交差する形で固定された構造を持つ物体として了解しており、切断したい紙や布があるときは、外形を頼りにこの物体を探し出し、可動部分を操作することによって紙や布を切断する。物象化の手法は、道具存在の特性をきわめて適切に抽出する。

 しかし、物象化によってその本質的な要素が捨象されてしまうような対象も、数多く存在する。最も単純な例は、竜巻や渦糸のような渦動現象だろう。これらを(分析的な判断を入れずに)直感的に眺めているとき、人は往々にして「媒質の回転運動」という渦の本質を看過し、空中/水中を移動する物質的存在として表象しがちである。こうした捉え方は、日常生活にはさしたる悪影響を及ぼさない。しかし、学術的な論考が必要な局面でうかつに物象化を行うと、重大な見落としが生じることもある。

 物象化された対象としての“脳”は、頭蓋内に生起するさまざまな物理現象から意識活動に直接関連する本質的な要素を切り捨て、恒常的な構造という特質を抜き出して再構成した虚構的存在に過ぎない。意識活動に係わる協同現象は、ニューロンの集団的・持続的な興奮として実現される4次元的な拡がりを持った複雑なプロセスである。ところが、電気化学的な興奮過程は視認できないという物理的制約もあって、こうしたダイナミックな要素はしばしば看過され、時間的変化の乏しいスタティックな部分が“脳”として捉えられることになる。この結果、硬膜に包まれた表面にしわのある灰白色の物質的存在としての“脳”が、頭蓋内物理現象を担う実体であると錯覚されてしまうのである。

 物象化の手法によって時間的変化の少ない恒常的な実体として“脳”を措定し、その上で意識活動についての分析を行うという二段構えの論法を採用すると、物質的な存在に過ぎない“脳”に意識が生じる理由が不可解な謎として残されてしまう。仮に、安定した構造を持つ“脳”に電気化学的な変化が生じて意識が派生するという仮説を立ててみても、人がありありと実感する意識を単なる化学変化に擬することに抵抗を感じない訳にはいかないだろう。実際、非学術的な発話の場面では、物質的な“脳”に非物質的な意識が宿るという言い回しで、両者をそもそも異質なものとして取り扱おうとすることが多い。

 “脳”と意識の関係を巡る謎は、われわれが一般的にイメージしている“脳”が、意識活動に関与する物理現象の担い手ではなく、現象の中から時間的変化に乏しい部分を抜き出して人為的に作り出した虚構であることを理解すれば、基本的に解消されるはずである。「脳が意識を持つ」という主張が滑稽なのは、もともと意識との関わり合いが希薄な部分を物象化しておきながら、これをあたかも自明な前提のように扱っているからである。学術的な論考における“脳”と“意識”は、頭蓋内で生起する物理現象のあるアスペクトを異なる手法で抜き出して概念化したものと見なすべきであろう。



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©Nobuo YOSHIDA
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