認知過程と座標空間の虚構性

 われわれが日常的にその実在性を直感できるはずの座標空間(3次元の空間と1次元の時間)が、実は物理的な相互作用を通じて派生した虚構であるという主張は、いささか面妖に思われるかもしれない。ここでは、認知科学の助けを借りて、この素朴な見解に対する反論を示す。

 すでに Piaget and Inhelder(*)によるパイオニア的な研究で述べられているように、ユークリッド計量の概念は、トポロジーの観念に由来するもので、幼児における心理学的な発達のかなり後期になってから現れる。素朴な見解とは異なり、幾何学的空間の直感は、直接的な知覚による外部世界の理解ではなく、感覚データの加工や運動制御を含む複雑な操作から成り立っている。

(*) Piaget, J. and Inhelder, B.(1967), The Child's Conception of Space. New York: The Norton Library

 神経生理学の実験データによれば、こうした心理学的な操作を遂行する能力は、知覚/運動の体験を通じて行われる中枢神経系の回路形成と平行して獲得される。例えば、感受性の強い時期に、垂直(水平)方向の縞模様で取り囲まれた人工的な環境のもとで育てられたネコの場合、ストライプ状の視覚的刺激に反応する視覚野ニューロンの方向特異性が垂直(水平)方向に集中することが知られている(+)。察するに、このようなネコは、見慣れた方向と直交する向きの拡がりについて、直感的な認識を得るのにかなりの困難を覚えるだろう。

(+) Blakemore, C. and Cooper, G.P.(1970), "Development of the Brain Depends on the Visual Environment", Nature 228:477-478.

 一般的に言って、正常な動物の感覚野におけるシナプス結合は、生後の発育過程を通じて、感覚ニューロンの発火パターンから、外界についての有益な情報を引き出すことができるように、アレンジされている。こうして獲得された情報は、生き残り戦略の観点から見て役に立てば十分なのであって、必ずしも外界を忠実になぞる必要はない。生物にとっては、餌を取ったり外敵から逃れるためにどのような運動制御を行えば良いかを予測することが急務なのであって、生命体の自律的な形態形成や生態系のシステム論的な協調性を認識できなくてもかまわないのである。

 外界のできごとを「空間−時間−物質−力」という枠組みを用いて表象する手法は、有限なアクセス速度や記憶容量の制限の中で、最適な情報を抜き取るためにこそ好都合である。実際、座標空間内部で(餌や外敵のような)個体の運動方向を指定するために必要なパラメータの数は、わずかに2つである。ところが、同じ現象を位相空間で表象しようとすると、無数の力学変数が関与するために、膨大なデータの処理に追われてしまい、瞬時に反応することが困難になる。こうして、中枢神経系を持つ高等動物は、生存競争上の有利さから、外界の事物を表象する認知的虚構(cognitive artefact)として、座標空間の直感的な概念を獲得するに至ったと推定される。



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©Nobuo YOSHIDA
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