質問 もし、粒子の領域と反粒子の領域が現在の宇宙にあれば、膨大なエネルギーの光が放出されるはずなのに、そんな光は観測されていないので、反粒子の領域はないとされているそうですが、その光が届かないような遠くにある可能性はないのでしょうか。【現代物理】
回答
 1928年にディラックが反粒子の存在を予言して以来、われわれの周辺には粒子から構成されている「物質」ばかり集まっているけれども、宇宙のどこかには、反粒子から出来ている「反物質星」や「反物質銀河」が存在するのではないか−−といった疑問が絶えず投げかけられてきました。こうした疑問に対して、近年の物理学は、かなりの程度まで答えを出していますが、それでもまだ、未知の部分が数多く残されています。
 観測データによって確実に言えるのは、われわれが住む天の川銀河内に、反物質星が存在しないということです。仮に、反物質星があるとすると、通常の粒子から構成されている星間物質と「対消滅」(物質と反物質が相互作用して消滅し、なくなった質量に相当する膨大なエネルギーが放出される過程)を起こして、高エネルギーのガンマ線を大量に放射します。こうしたガンマ線は、天空のきわめて狭い領域からやってくるはずですが、検出されているガンマ線の中に、これに該当するものは見つかっていないので、銀河系内部に反物質星は存在しないと結論できます。このほか、地球に直接飛来する反粒子の観測も、人工衛星や気球などを使って行われていますが、反原子核が検出されていないことから、地球の近傍に反物質がまとまって存在する可能性も否定されています。ただし、銀河系に反物質が全く存在しないという訳ではなく、銀河系中心部から反物質が噴出している、あるいは、銀河平面の外縁部に薄く拡がっていることを示すガンマ線のデータが報告されています。
 銀河系外の反物質に関する知見は、かなり限られたものになりますが、少なくとも、天の川銀河を含む銀河団の中に反物質銀河が存在しないことは、ガンマ線のデータからほぼ確実に言えます。さらに、数億光年のスケールで見ても、反物質銀河団は存在しないようです。銀河団は、フィラメント状に連続して分布しているので、ある領域だけに反物質が集中しているとは考えにくいからです。
 そもそも、反物質より物質が圧倒的に多量にあるのは、ビッグバン後に宇宙が次第に冷えていく過程で、物質と反物質の対称性を破るような相転移(水が氷になるような状態の変化)が起き、反粒子100億個に対して粒子が100億と1個あるといった不均衡が生じたためだと考えられています。100億対の粒子と反粒子が対消滅を起こしたなくなった後、100億分の1の割合で残った粒子が、現在の天体を構成する物質になった訳です。この相転移が場所によって違う形で起きたとすると、物質領域と反物質領域がパッチワーク状に分布することもあり得るのですが、その場合は、宇宙初期のエネルギー分布を反映している背景放射(宇宙空間に瀰漫している電磁波)にも場所による強度の違いが見られるはずです。ところが、COBE(Cosmic Background Explorer)などによる観測の結果、背景放射は(わずかな揺らぎを除いて)きわめて高い一様性を示すことが判明しました。このことから、観測可能な数十億光年の範囲では、物質と反物質に差をつけるような相転移が同じ形で起こっており、したがって、反物質が大量に存在する領域もないだろうという見方が、支配的になっています。
 ただし、これより巨大な(数百億光年以上の)スケールで見ても、宇宙が同じような姿を保っているかどうかは、はっきりしていません。相対論的な限界のため、百数十億光年彼方にある宇宙の「地平線」より先は、決して観測することのできない不可視領域であり、そこに「反物質世界」が存在しないとは、誰にも言えないのです。

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質問 人類はこれから先、産業(環境を犠牲にして)優先で行くべきか、それとも、環境(技術発展が滞る)を優先すべきか。明確な答え(考え)をお持ちでしたらお聞かせください。【環境問題】
回答
 はじめに理想論を言わせて頂くならば、環境の保全と産業の発展は両立させることが必要ですし、また、それが可能であるはずです。このように考えるのは、現代社会には膨大な「無駄」があり、これを解消することによって、環境負荷を減らしながら生産性の向上を図る余地が残されているからです。
 典型的な「無駄」は、再資源化可能な物をゴミとして捨てていることでしょう。現在、廃棄物のリサイクル事業は、ほとんどが採算割れの状態ですが、その理由は、主として、廃棄物が再利用しやすいような形で出されていないためです。複写機のように大半の製品がレンタルに回されているケースでは、最終的にメーカーのところに返ってくることを考慮して、メーカーがリサイクルしやすいようにあらかじめ設計しており、事業の一環としての再資源化が軌道に乗っています。
 自動車を例に取って説明します。現状では、自動車を廃棄処分にすると、かなり高額の処理費用を徴収される上、車体は潰されて経済価値のないスクラップにしかなりません。そこで、複写機の例に倣って、メーカーに廃車後の回収を義務づけ、そのために必要なコストを販売代金に上乗せするデポジット制を導入することを考えてみましょう。消費者は、デポジット料金の支払いによって、メーカーに車を回収してもらう「廃車権」を得ることになるわけで、中古車の査定で「廃車権」が正価で評価されるならば、損にはならないはずです。一方、自動車メーカーは、回収後の処理の便を考えて、再資源化が困難な部品(金属とプラスチックが複雑に組み合わされたものなど)の使用を避けたり、再利用できるIC基盤を取り外しやすく作るなど、リサイクルを考えた設計を行うようになります。現在の制度では、こうした企業努力に何の見返りもありませんが、デポジット制が導入されている場合は、デポジット料金と廃車コストの差が企業利益につながり、リサイクル技術の開発へのインセンティブとなります。また、将来的には、この差益がデポジット料金の値下げという形で消費者に還元されることも期待されます。
 一般に、「無駄」の解消による利得が十分に大きいならば、環境ビジネスという新たな成長分野が生まれ、環境にも経済にもプラスになるという状況が実現されることになります。
 ただし、環境ビジネスが収益を上げるに至るまでには、(デポジット制導入のような)立ち上げ段階での障害が予想されるため、これをスムーズに行うための政府の援助が必要となります。また、「無駄」の解消が直ちに目に見える利得として現れないケースも多く、政府主導で環境保全のための事業を推進しなければならない場合もあります。
 後者の例として、コスタリカにおける環境立国政策を取り上げましょう。コスタリカでは、1960年代から70年代にかけて、木材供給と農地拡大の目的で政策的に森林伐採が続けられ、森林面積の30%を失いましたが、国際市場での材木価格の低迷のために十分な外貨が稼げなかった上、開墾した土地は地力に乏しく耕作に適していないという惨めな結果に終わりました。さらに、植生の被覆が失われたことによって土壌流出が進み、土地の荒廃に拍車がかかっただけでなく、流出した土砂が付近の漁場を汚濁して沿岸漁業が壊滅的な打撃を受け、80年代には国家経済が破綻しかねない状況に立ち至りました。これは、森林伐採が、環境の悪化と産業の衰退を招来する二重の「無駄」だったことを意味します。しかし、材木業者からすると、一時的にせよキャッシュが得られるので、自発的に伐採を中止することはありません。そこで、コスタリカ政府は、森林保護の政策に転換し、法律によって森林伐採を規制する一方、政府主導で森林資源を利用する観光ビジネスやバイオ産業の立ち上げを推進しました。こんにちでは、コスタリカは、観光収入によって経済を立て直し、美しい森林に恵まれた「中米の宝石」と讃えられるに至っています。
 こうした事例から、環境の保全と産業の発展が両立できる分野もあり、必ずしも「環境か産業か」という二者択一だけではないことがわかると思います。

 とは言うものの、両立できる分野はあくまで限られたものであり、経済活動全般からみると、やはり、環境への配慮が産業の「足枷」となることも事実です。通常の企業において、ストックが減少し続けるという状況はゆっくりと倒産に向かっている異常事態であり、経営の健全化を余儀なくされます。しかし、鉱物資源や水資源、大気などの「環境財」は、「万人のもの」であるが故に誰のものでもなく、どの企業のバランスシートにもストックとして記入されません。このため、現在の市場経済は、環境財の減少は無視して、市場でのフローによって収益性を評価するという体制に固まっており、人々は、この体制の下で大量消費生活を謳歌してきたわけです。この状態で、環境の保全を図る経済施策(環境税の導入など)を実施すると、経済成長にブレーキが掛かることは避けられません。
 そこで、「環境か産業か」ということが問題になるわけですが、私の考えでは、環境の悪化は一般の人が想像する以上に深刻であり、このまま放置すると、近い将来(30〜50年後)に産業を巻き添えにして破局を迎えるおそれがあるため、「環境を第一義的に扱うべきだ」ということになります。例えば、環境汚染に配慮せずに化学物質の排出を続けた場合、浄化施設などへの出費を浮かせられるので一時的には収益にプラスになるものの、野生生物や人体への悪影響が今よりも顕在化するにつれて住民からの反発が高まり、最終的には、汚染物質を除去しなければ企業活動を継続できなくなるでしょう。ところが、五大湖におけるPCB汚染やバルデュース号からの原油流出被害などからもわかるように、一度汚染した環境を元に戻すためのコストは、初めから汚染しないようにするコストよりも遥かに高くつき、経営が破綻する結果を招きかねません。そうした事態に陥るよりは、早い段階で、環境に配慮する方針に転換することが望ましいはずです。
 こうした転換を実現するためには、政府による「アメとムチの政策」が必要となるでしょう。すでに述べたように、環境ビジネスが採算に乗る分野もあるので、この方面で助成金の支給や税制の優遇などの「アメの政策」を遂行し、収益事業として定着するまで成長をバックアップします。その一方で、排出規制や環境税などの「ムチの政策」によって、環境に負荷をかけている企業に応分の負担を課すべきです。この過程で、環境アセスメントに基づく正確なコスト計算を行い、環境対策は、一時的には経済発展のマイナス要因になるものの、長期的には十分なメリットがあることを、国民に納得させるようにします。こうした「アメとムチ」の使い分けによって、産業活動を落ち込ませないようにしながら、最終的には、環境を重視した「持続可能な循環型経済体制」へとソフトランディングすることが目標となります。
 いささか理想論ばかりを述べ立てたようですが、環境ビジネスは、(プラスチックの再資源化やバイオマス燃料など)すでにいくつかの分野で立ち上がりつつあるので、環境の保全と産業の発展(少なくとも維持)を両立させることは、現実に可能であると期待して良いのではないでしょうか。

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©Nobuo YOSHIDA