質問 ブラックホールの蒸発に関する質問です。ブラックホールが作られる時の材料は、通常の物質ですね。多くの陽子と中性子が含まれます。ところが、ホーキングの説によるブラックホールの蒸発で、宇宙に放出される物質は、正のエネルギーであれば反物質でもかまいません。反陽子や反中間子でもよいのですか。それとも、重粒子数は保存されるのですか? そうならば、ブラックホールの属性として、重粒子数を持つのですか?【現代物理】
回答
 ホーキング放射によるブラックホールの蒸発においては、物質/反物質は区別されません。物質が凝集してできたブラックホールでも、粒子と反粒子が同じ割合で放出されます。ただし、通常のブラックホールでは、ホーキング放射はきわめてわずかであり、しかも、周囲に形成されている降着円板から(反物質ではなく)物質が大量に流入しているので、「事象の地平線」付近から飛び出してくる反粒子は、この物質との相互作用を通じて大半が対消滅してしまうはずです。
 ブラックホールでレプトン数やバリオン数(重粒子数)が保存されなくても、現象論的には、ほとんど問題がありません。この宇宙で物質の方が反物質よりもずっと多いことからもわかるように、そもそも、バリオン数は厳密な保存量ではありません。また、恒星の重力崩壊によって生まれたブラックホールでは、蒸発するまでに途轍もなく長い時間──例えば、1070年というような──が掛かるため、ビッグバンからわずか100億年しか経っていない現在の宇宙では、ブラックホールから放出された反物質の量など測定すべくもないからです。
 しかし、純粋に理論的な見地からすると、この問題は深い意味を持っています。凝集したモノの種類によらず、ブラックホールが粒子と反粒子を同じ割合で放出するという予想は、形成過程に関する情報がブラックホール内部で完全に失われたことを示唆するからです。どんな粒子がどのような軌道を辿って飲み込まれていったかという情報は全て消滅し、質量・電荷・角運動量という自由度だけを持つ“顔のない”ブラックホールが形成され、そこから過去の“しがらみ”とは無関係に新たなモノが放出されるというわけです。ホーキングは、こうした「情報の喪失」が現実に起こると考えていますが、この見解に批判的な物理学者も少なくありません。
 情報の喪失が起きるように見えるのは、ブラックホールに関する理論が不完全だからだという見方もあります。何よりも、ブラックホールの中心部に、特異点と呼ばれる物理法則の破綻する領域が存在するのが、事態を紛糾させる原因になっています。特異点の存在は、一般相対論という近似的な理論の適用限界を示していると考えられますが、代替理論は完成していません。さらに、ホーキングの理論も、ブラックホール近傍の粒子の振舞いを半古典的に扱っており、厳密に量子論の計算を行ったわけではありません(ホーキング放射自体を否定する物理学者もいます)。重力の強い領域での量子効果を正しく取り入れた“完全な”物理学理論が完成した暁には、ブラックホールが形成されてからホーキング放射で蒸発するまでの全過程が、ある方程式の解として求められるということもあり得ます。きちんと計算すれば、ブラックホールのできかたに応じて、ホーキング放射に差が生じるのかもしれません。
 ブラックホールと情報の問題に関しては、近年、超ひも理論に基づく研究が精力的に進められています。あと数年で、アインシュタインの理論を歴史の遺物に変えてしまうような画期的な業績が発表されると期待する人もいるようです(ただし、私自身は懐疑的ですが)。

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質問 高校入試で地球の中心の重力を問う問題がありました。意外なことに重力はゼロということでした。周囲の物質から引っ張られるので、重力が相殺しあってゼロになるということはわかりました。そうなると、地球では地表が最も重力が強い場所ということになります。
そこで質問(1):重力の説明で3次元の空間が歪むことを2次元空間で例示している本が多いのですが、どの本も中心部が一番深く(重力が最大)のように描いていますが、これは間違いではないですか。星の表面が最大ではありませんか。
質問(2):ブラックホール生成の説明で、星が重力崩壊で中心部にどんどん圧縮されていくと、ありますが、星の表面が最大重力ですから、表面に向かって星の内部の物質が圧縮されていき、ブラックホールの中空部はブラックホールにはならないのではありませんか。従ってブラックホールになるのは星の表面部だけではないのでしょうか。【現代物理】
回答
 まず、天体の内外で重力がどのようになるかを、古典的なニュートン理論から求めてみましょう。物質分布が完全に球対称である場合、中心からrの地点での重力は、半径r の球の内側にある質量が全て中心に集まった場合と等しくなることが知られています。これは、球の外側にある質量からの寄与が全て相殺されてしまうことを意味します。天体の密度が一定値ρだとすると、半径r(r<天体の半径R)の球の内側にある質量mは、
  m(r) = 4πr3/3 × ρ
となります。これが球の中心にあると考えて良いのですから、中心からr の位置にある単位質量に作用する重力f は、
  f = Gm(r)/r2 = 4πGrρ/3
です。一方、天体の外側では、
  f = Gm(R)/r2
となり、重力は表面で最大になります。
 物理学的な計算を行うには、重力そのものよりも、「重力ポテンシャル」という量を用いた方が便利です。重力ポテンシャルは、重力を斜面に置かれた物体を引きずり落とす力になぞらえたときの斜面の傾きに相当します(正確に言えば、重力ポテンシャルを位置座標で微分したものが単位質量あたりの重力になります)。密度が一定の天体の場合、重力ポテンシャルU は、
qa_201.gif   U = 2πGr2ρ/3 + (定数) (r<R)
  U = -Gm(R)/r2 (r>R)
となります(定数は、r=R で U が連続になるように決められます)。このポテンシャルは右のグラフのようになり、他の力が働かなければ、質量を持つ物体は、このポテンシャルの坂道を滑り落ちるように運動します。確かに、重力ポテンシャルの傾き(=重力の大きさ)は天体表面で最大になるものの、重力は常に全ての質量を天体中心に集める形で作用します。
 一般相対論において、重力場は、時空の歪みを表す gμνという量(μ,νは0,1,2,3のいずれかの値を取ります)で記述されます。特に重要なのが -g00という量であり、大ざっぱに言うと、これが1からどれだけずれているかによって、時空の歪みの大きさがわかります。重力が弱い場合、 -g00 は、ニュートン理論における重力ポテンシャルU と
  -g00 〜 1+2U/c2 (c:光速)
なる関係で結ばれています。密度が一定となるような天体の内外での重力場は、シュヴァルツシルトの内部解/外部解として厳密に求められていますが、シュヴァルツシルト解の -g00 と、上で計算した重力ポテンシャルU は、近似的にこの関係を満たしているので、天体が作る重力場をわかりやすく示すときには、天体中心部で時空の歪みが最も大きくなるような図が描かれるわけです。
 ブラックホールが形成されるような強い重力場の下では、 -g00は簡単な式では表されませんが、定性的には、時空の歪みが最も大きくなる天体の中心に向かって物質が滑り落ちていくというイメージは成立します。

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質問 電場と磁場は密接な関係にありますが、どうして性質が異なる場なのでしょうか。物質は構成する元素が違えば性質は異なりますが、場には構成要素があるとは思えないのですが。【古典物理】
回答
 もし物質が存在しなければ、電場と磁場は完全に同じ性質を示します。 qa_200.gif 例えば、真空中の平面電磁波の場合、電場と磁場は互いに直交する向きに位相が90°ずれた状態で振動しているだけなので、電場と磁場の定義を逆にしても何ら不都合はありません。より数学的に言うと、真空中のマクスウェル方程式に対して、電場Eと磁場Bを入れ替える「双対変換」を施すと、同じ形の方程式になることが知られています。つまり、物質のない世界では、物理的な性質をもとに電場と磁場を区別することはできないのです。
 電場と磁場の振舞いに差が生じる原因は、場ではなく物質の側にあります。陽子や電子は±eの電荷を持っていますが、磁荷(磁石のN極あるいはS極だけが孤立して存在するもの)はありません。スピンという形で磁気モーメント(磁気双極子)を持っていますが、これは、小さな環状の電流によっても作ることができるので、磁荷がないことと矛盾しません。実は、電荷と磁荷が同時に存在すると、マクスウェル方程式が自然な解を持たなくなってしまうため、電磁場だけを考える限りは、どちらか一方しか存在できないのです(不自然な解を容認するならば、電荷と磁荷が共存できることがディラックによって示されていますが、あまりエレガントな理論ではありません)。電荷だけが存在するため、この世界では、圧力や摩擦力などの物質間の相互作用が、主に電気的な力に担われているのです。磁荷だけが存在する場合は、磁気的な力で物質が形作られることになりますが、そうした世界は、「双対変換」によって電荷だけが存在する世界に書き換えられるので、両者を区別することは、原理的に不可能です。

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質問 変な質問で申し訳ないのですが、どうして人は「恋」をするのでしょうか?? 人間以外の動物で失恋して、「この相手と一緒になれないのなら死にたい」と思ったり、実際にそうした例ってあるんでしょうか? 寂しくて切ない想いって人だけのものなのでしょうか? こういう時代だからこそ、科学的な立場で「人」として生きる意味・人とその他の動物との「恋」の違いについて、お答えいただけたら嬉しいのですが。【その他】
回答
 多くの動物学者は、動物の求愛儀式や巣作りなどの愛他的とも思える行為を、遺伝的に規定された行動パターンと見なしており、人間的な感情と結びつけて理解すべきではないと考えているようです。しかし、動物の中には、恋愛の萌芽と言えるような感情的行動を示すものもあり、全てを本能のなせるわざと解釈するのは、早計に過ぎるのかもしれません。
 動物の愛情表現として知られているのが、さまざまな求愛行動です。例えば、タンチョウヅルは、首を伸ばし羽を大きく広げて優雅な求愛ダンスを踊ります。ただし、こうした派手な求愛のディスプレイが、相手を思いやる気持ちから出ているとは考えられていません。行動進化論の学説によると、捕食者に見つかりやすい危険な求愛ダンスを頻繁に踊れるのは、一般に生存能力の高い個体であり、このダンスは、種の存続に有利な個体を選択するための試験として、本能が命じている行動だということになります。しかし、タンチョウの場合、子供が一羽で踊ることもあり、ツルの本当の気持ち──そんなものがあるとして──は、良くわかりません。
 仲睦まじく見えるつがいの例は、動物界の至る所に見いだされます。ハクチョウは、つがいの相手を見つけると、巣作りのために群から離れて、一緒に眠ったり互いに身繕いしたりして、とても仲が良さそうです。しかし、そうした行動が見られるのは子供が幼いうちだけで、時期が過ぎると、すぐに別れてしまいます。これは、自身や幼子を守るための防衛本能に基づく行動なのでしょう。
 ほとんどの動物の場合、高度な恋愛感情を認めるのは、難しいように思われますが、類人猿ともなると、人間的な感情を認めても良さそうなケースが、いくつか報告されています。オランウータンは、つがう相手を選ぶのにはっきりとした“好み”があり、動物園で繁殖を試みても、気が合わないと交尾に至らないことが少なくないそうです(J.M.マッソン/S.マッカーシー著『ゾウがすすり泣くとき』(河出書房新社))。逆に、気が合った相手とは、一緒に遊んだり抱き合って眠ったりして、仲良く過ごします(とは言っても、生涯の伴侶とはなりません)。発生的には本能に根ざす行動なのかもしれませんが、少なくとも、気の合う相手と一緒にいることの安心感ないし“快さ”を意識していることは、確実なようです。
 人間の恋愛感情は、類人猿にも見られるこうした情動を、より高度にしたものと解釈できます。人間が他の動物と大きく違っているのは、大脳新皮質を発達させたことにより、複雑なシミュレーションを行えるようになった点です。大脳新皮質とは、もともとは、予測のための補助器官にすぎなかったと考えられます。眼前にある餌を今すぐに食べてしまうよりも、どこかに隠しておいて後で食べた方が有利である──そうした予測を適切に行えれば個体の生存確率が高まるため、巨大な大脳新皮質を持つ種が進化してきたというわけです。ところが、人類の場合は、大脳新皮質が桁外れに巨大化したため、そこで行われる情報処理の方が、生物としての生存よりも重要な意味を持つようになってきました。類人猿ならば、その場にいるつがいの相手に対して本能的に“快さ”を感じるだけでしょうが、人間は、この快さを特定の行動から引き離して抽象化し、大脳新皮質におけるシミュレーションを通じて、さまざまな記憶や想念と結びつけていきます。こうして、日常的世界のあらゆる局面を、恋愛という一つの感情が浸すことになるのです。
 恋愛感情が、本能に根ざしシミュレーションによって膨らんだものだと考えると、何か貶められたように感じるかもしれません。しかし、それは誤解です。人間社会における価値観は、大脳新皮質が行うシミュレーションによって構築されているものであり、それ以外に価値の源泉はないのです。

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質問 ハイデガーは現存在の基本的なあり方として、「何処からか世界の中に投げられてある」という被投性があると指摘しています。現存在の「気分」は、その現存在がこの世界に投げられている「所在」を示しているといいます。これは、世界の構造と主観の構造を結ぶ結節点を述べているように思うのですが、この点についてどのように考えますか。【その他】
回答
 ハイデガーの現存在(Dasein=「いままさにあるもの」)には、対応する物理学的概念がありません。物理学(および他の大半の自然科学)とは、現象の個別性を捨象して一般的用語法により記述する学問であり、"Da" と名指されるようなリアリティを持った場所を特定することは、困難なようにも見えます。しかし、人間を含む全ての事物存在を普遍的な法則性の下に研究する物理学の方法論が、現存在から出発して実存論的な分析を加えていくハイデガー流の方法論と相補的な関係にあり、両者を併せて初めて世界全体を俯瞰し得るというのならば、現存在を巡って、両者を結びつける議論が成立しなければならないはずです。
 現存在に関する議論は、明らかに、時間と空間を自明な枠組みとして設定する古典力学的世界観には馴染みません。素朴に考えると、中枢神経系における特定の電気化学的プロセスが現存在についての物理学的記述のように思えるかもしれませんが、これは、脳という事物存在を対象化したにすぎず、現-存在に迫ったことにはならないのです。
 もし日常的存在了解によって把握される現存在を物理学的に記述することが原理的に可能であるとすれば、それは、古典力学的な時空ではなく、量子場の理論で用いられるような関数空間においてだと考えます。関数空間とは、やや過剰に単純化すれば、「抽象的な性質が物理的に実在する空間」と言えるでしょう。結晶における原子の整列性などは、この空間における1つの状態として実現されています。関数空間では、あらゆる出来事が連続的な変動のプロセスとして表されるため、物体の運動というメカニカルなイメージよりも、むしろ、情報の流れというソフトなイメージで捉える方が妥当です。
 現存在は、こうした情報の流れの場に出現すると考えられないでしょうか。複雑に絡み合う情報が、あるレベル──私は、関数空間における次元数の大きさによって決まると推測しています──に達すると、現存在としての自立性を持つに至るという見方です。仮に客体に対立する「主体」なるものが実在するならば、あらゆる情報を遮断したモナド的な純粋意識として自存できるはずです。しかし、現実にそんなものはありません。現存在は、情報の流れの中に投げ出されているのであり、情報の変化という形でのみ存在を了解することが可能なのです。
 現存在の存在様式が必然的に「世界内存在」であるというハイデガーの主張は、この文脈で解釈すると、わかりやすいでしょう。歩行のような機械的な動作は、学習記憶によって獲得された行動パターンを運動野から一方向的に投射して実行している単純なプロセスなので、あまり意識されません。これに対して、双方向的に情報をやり取りしながらオンタイムで行動方針を決定していく他者への配慮は、複雑性の程度が高く、意識の枢要な構成要素となります。現存在にとっての世界が常に他者と相関的であることは、その出現の契機から導かれる性質だと言えます。
 われわれは、ともすれば、視覚的情報・聴覚的情報など感覚器官から入力されたセンスデータを個別に分析した上で、これらを総合して認識を構築していると考えがちです。しかし、実際のところ、中枢神経の回路網は、コンピュータのように明確なコンセプトの下に設計されたものではなく、胎児期にランダムに作られたシナプス結合のうち、生存に有利なものだけが選択・増強されることによって形成されたにすぎません。分析と総合を段階的に行うスマートな情報処理装置と言うよりも、何らかの入力を契機として非定型的な神経興奮が引き起こされる得体の知れないウェットウェアです。この結果、現存在も、視覚・聴覚のように入力系統の明確なものだけではなく、内臓感覚、あるいは、起源が明らかでない感覚ならざる感覚をも巻き込み、記憶と欲望がまぜこぜになった捉えどころのない状況として現れます。現存在の本質規定である「気分」は、こうした状況の全体的性質を指示する概念ではないでしょうか。
 以上のような解釈は、いささか牽強付会ではありますが、実存主義と物理学という決して相容れないものを敢えて結びつけるときの、一つの考え方を示すものと了承してください。

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質問 この世のあらゆるものは、何かでできているはずですが、「時間」というものは、どういった物質でできているのでしょうか? エネルギ−のようなものだとすると、それを発生させるメカニズムがあると思うのですが、どのようなシステムで発生したものなのでしょうか??【現代物理】
回答
 ニュートンが大成した古典力学では、「時間」は、物質とは異なる“何か”として、未定義のまま導入されています。主著『プリンキピア』の冒頭で、「時間・空間・場所および運動などには、万人周知のものとして、その定義を与えることはしない」(『プリンシピア』(中野猿人訳、講談社)より)とあり、さらに、「絶対的な時間」に関しては、「それ自身の本性から、他の何者にもかかわりなく一様に流れるもの」と、かなりわかりにくい説明を加えていることから、ニュートン自身、時間の本性について、考えあぐねていたと思われます。運動方程式:
  F = ma
において、実体的な定義がなされていたのは質量m だけであり、外部から物質に加えられる力F と、物質の位置と時刻の関係から導かれる加速度a は、物質の運動にかかわる物質以外の“何か”として、その実体は不問に付されています。
 20世紀の初頭には、アインシュタインの相対性理論によって、時間は空間と不可分のものであり、両者が1つになって4次元的な拡がりを構成していることが明らかにされました。しかし、数学的には4次元多様体として明確に記述されるようになったものの、「時間」とはそもそも何かと問われた場合、答えようがないという点は変わりありません。
 物理学者が精力的に研究している“究極の理論”が完成した暁には、時間(および空間)の本性が明かされるかもしれません。19世紀にマクスウェルによって導入された「場の理論」では、電場E(x,t) や磁場B(x,t) などの場の量は、位置x・時刻t となる点で場がどのような強さになるかを表しています。しかし、究極的な統一場の理論では、多くの成分を持つ1つの場φ(x,t) のみが存在し、あらゆる物理現象は、φの変化として記述されることになります。従って、まず位置xと時刻t を決める時空多様体があり、そこでφが与えられていると考えるのは、いかにも冗長です。φという唯一の実体があり、その変化や差異を表すための枠組みとして二次的に構成されるのが時間・空間であるという可能性もあります。いずれにせよ、物理学的な結論が出されるまでには、まだかなり先になりそうです。

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©Nobuo YOSHIDA