質問 右と左という概念を地球外生命との交信で伝達することは可能なのでしょうか?
絶対的な左右の非対称というものはあるのでしょうか?【現代物理】
回答
 「“右”とはどちら側を指すのか」を定義するのは、易しいようで実はきわめて難しい問題です。日常生活では、「北を向いたときに太陽が昇る側」とか「多くの人にとって利き腕がある側」という決め方をしますが、これは、地球上の人類だけに通用する「右側」の定義であって、地球がどちら向きに自転しているか、あるいは、人間がどんな生き物かを知らないET(地球外生命)には、全く意味のない決め方です。また、ツル植物や巻き貝などは大半が右巻きで、何らかの法則性があるようにも見えますが、ほとんどの生物学者は、進化の過程で偶然にそうなっただけで、地球以外のラセン状の生物が右巻きになるとは限らないと考えています(地球上でも、ラセン状のバクテリアには右巻きと左巻きのものがいます)。
qa_fig16.gif  ちょっと考えると、「右ねじの法則」や「フレミングの左手の法則」などに従っている電磁気的な現象を「右とはどちら側か」を定義するのに使えるように思えるかもしれません。しかし、これも「磁場の向き」を決める絶対的な方法がなければ、左右の別を決定する役には立たないのです。通常は、磁石のN極からS極に磁力線が伸びているとして磁場の向きを決めていますが、もともとN(S)極は「地球で北(南)を指す極」として定義されたものなので、地球以外で通用する訳ではありません。実際、磁場の向きを(S極からN極へ磁力線が伸びるとして)逆さまに定義し、右と左の定義を逆にする(正確には空間を反転させ、(x,y,z)を(-x,-y,-z)に変える)ような変換をしても、電磁気学の基礎になるローレンツ−マックスウェル方程式は形を変えないことがわかっています。つまり、電磁現象を使っただけでは、右と左は原理的に区別できないのです。
 現代科学の知見によると、左右が非対称になる唯一の物理過程は、「弱い相互作用」と呼ばれる素粒子反応です。この相互作用は、原子核が電子を放出して原子番号が1つ大きい原子に変わるという「ベータ崩壊」を引き起こすものです。ベータ崩壊が左右対称でないことは1956年に実験的に見いだされ、1957年にリーとヤンという2人の中国出身の物理学者によって理論的に解明されました。 qa_fig18.gif 細かな話は原子核や素粒子の教科書に任せることにして、ここでは、ベータ崩壊を使って“右側”を定義する方法を説明しましょう。電流を流しているコイルの中央付近に放射性コバルト原子核を置くと、一定の半減期でベータ崩壊を起こして電子を放出しますが、電子が飛び出す方向が偏っていることがわかります。コイル内部での電子の動きが下向き(電流は上向き)になる方を手前に、上向きになる方を向こう側にして同じ実験を繰り返したとき、電子がより多く飛び出す側が“右側”だと定められます。天の川銀河を含む超銀河集団は、全て同じ物質(陽子・中性子・電子など)から構成されていることが判明しているので、この方法を教えれば、ETにもどちらが右側か伝えられるのです。
 多くの物理学者は、弱い相互作用に現在のような左右非対称性が生じたのは、宇宙の歴史におけるある偶然の結果だと考えています。ビッグバン直後の高温状態では完全に左右対称だった空間が、宇宙が冷えてくるにつれて(ちょうど水が氷になるように)相変化を起こし、右と左に違いが生じるような形で“凝固した”という訳です。ですから、「この宇宙」以外に宇宙があったとしても、そこの住人にわれわれの“右側”の定義を伝えることは不可能でしょう。

qa_fig17.gif  ところで、19世紀半ばに、フランスの微生物学者・パスツールは、アミノ酸などの分子にはL体とD体(*)という互いに鏡像関係にある光学異性体が存在し、生物は、そのうち一方(アミノ酸の場合はL体)しか利用していないことを発見します。彼は、これを自然界における根元的な法則性の現れと考え、「生命現象は宇宙の非対称性に由来する」と喝破します。原子物理学の計算によると、(弱い相互作用の結果として)L体はD体よりも分子が持っているエネルギーがわずかに低く、生命誕生以前の段階で、小さなエネルギーで作ることができるL体の方がほんの少し(1017分の1程度)多くあったと考えられています。もし、最初にあったわずかな差が増幅されてL-アミノ酸が支配的になり、これから作られたタンパク質や、このタンパク質と結合する核酸(DNA)が一方向にねじれてラセン構造を作っていく──というのが化学進化の一般的な傾向であるならば、パスツールの主張通り、生命は宇宙における左右の非対称性を足がかりにして誕生したことになります。ただし、残念ながら、この壮大なアイデアは、まだ科学的に検証されていません。
(*)L体とD体という記法について読者から指摘がありました。参考文献(R.A.ヘグストローム/D.K.コンデプディ「自然はなぜ非対称か」(日経サイエンス,1990年3月号)ほか)の記述に従って「左巻き/右巻き」ないし「左旋回性/右旋回性」としていましたが、L体/D体という記法は、ラテン語の「levo(左旋性)/dextro(右旋性)」という言葉に由来するものではあっても、実際には旋光と直接の関係はなく、また、ラセン形にもなっていません。投影式を用いた定義があるそうですが、ややこしくなるので、ここでは単にL体/D体とだけ記しておきます。

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質問 機械の高性能化が進んでいる昨今ですが、人間が機械に支配されるような社会になることは将来あり得るのでしょうか?【技術論】
回答
 SF作家たちは、行き過ぎたテクノロジーの発展がもたらす悪夢として、機械が人間を支配するディストピアを繰り返し描いてきました。純文学作家のE.M.フォースターが1909年に発表した短編"The Machine Stops"は、生活のすべてを機械が取り仕切り、もはや機械を制御する方法が忘れられてしまった未来社会で、突如、機械が動かなくなる恐怖を描いています。さらに、第二次世界大戦後にコンピュータが開発されてからは、意志決定能力を持ったコンピュータが人間を手玉に取るという状況が問題にされるようになりました。SF映画史上の傑作とされるS.キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』では、木星探査ロケットの制御用コンピュータが自我に目覚め(?)、乗組員を次々と殺していく光景が冷徹に描写されていました。また、竹宮恵子の壮大なSFマンガ『地球へ』には、市民の教育や国家的な政策すらもコンピュータの決定に任せてしまう社会が登場します。
 幸いなことに、「巨大コンピュータの意志が人間を支配する」ような社会は、当分は実現しそうにありません。現在のところ、どんな高性能コンピュータといえども、所詮は、与えられたプログラムに従って機械的な論理演算を行っているだけであり、人間を手玉に取るほどの力はありません。もちろん、2000年問題のケースのように、プログラマが予想しなかった動きをして人間を困らせることはありますが、これはあくまでプログラム・ミスによる誤作動と言えるものです。「データ駆動・超並列・バイオ素子・自己学習型」の夢のコンピュータが完成された暁にはどうなるかわかりませんが、あと100年かそこらは、コンピュータは便利な道具以上のものにはなり得ないでしょう。
 もっとも、機械が「上から」人間を支配することはないとしても、利用しているはずの機械に、いつのまにか人間性が蚕食されていくという問題は、現在すでに深刻になりつつあります。機械の動作は、基本的にきわめて単純なもので、人間が持つ複雑かつ精妙な認知・応答の能力と比較になりません。ところが、現代社会では、機械に囲まれて生活しているうちに、人間の能力の方が機械に合わせて単純化してしまうという現象が、しばしば見られるのです。例えば、ビルに備え付けられた空調施設は、快適とされる一定の温度を保つように設定されています。ところが、人間は、朝夕には低く昼過ぎに最高に達するという気温の日周変化に適応した動物であり、一定の温度環境の中にいると、かえって自律神経が失調し、発汗などによる体温調節機能が失われて、屋外に出ると熱中症などに罹りやすくなります。あるいは、自動車のケース。肉体を使って運動する場合は、肌に当たる気流や足の裏の感触から、自分がどのように動いているかという情報がフィードバックされます。ところが、自動車を運転する場合、アクセルやハンドルの簡単な操作でたやすく動かせるものの、視覚情報以外には動きの感触がフィードバックされないので、危険な状況を実感できないまま、ついつい無謀な運転をしてしまいがちです。また、サイバースペースでの仮想現実の問題も重大です。機械は現実の人間のように厄介なネゴシエーションをしなくても魅力的な光景を見せてくれるため、外の世界に対する関心を失って、サイバースペースに引き籠もってしまうという若者が増えてきています。
 SF作家が描いたような機械に支配されるディストピア社会が、そのままの形で実現されるとは思いませんが、自分が利用していると思っていた機械にいつのまにか心身が操られていたというSF以上の恐怖は、もう現実のものになっていると言えるかもしれません。

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質問 燃料電池車について教えて下さい。【技術論】
回答
 内燃機関によって駆動力を得るという現在の自動車の仕組みは、窒素酸化物などの有害ガスや、二酸化炭素のような地球温暖化ガスを排出する上、ガソリンの原料となる石油の供給に不安があるなど、多くの問題を抱えています。このため、次世代自動車として、世界中の大手自動車メーカーがこぞって開発に力を入れているのが、燃料電池の電力でモーターを回して走る車──燃料電池自動車です。現在、試作車は続々と発表されており、ダイムラー・クライスラー、GM、フォード、トヨタ、本田は、2003〜4年までに商用燃料電池自動車の生産を始めると予告しています。
 燃料電池とは、学校で習う水の電気分解:
  2H2O+電気エネルギー→2H2+O2
をちょうど逆にした化学反応:
  2H2+O2→2H2O+電気エネルギー
をもとに、燃料となる水素に空気中の酸素を反応させて電気を取り出す装置です。燃料電池を自動車の動力源として利用する試みは、1950年代から行われてきましたが、触媒として高価なプラチナを使わなければならないなどの理由から、なかなか実用的なものはできませんでした。しかし、近年の技術改良で、漸く実用化目前までこぎ着けたわけです。
 燃料電池車には、いくつかの種類があります。 日本では、トヨタが、1996年に水素吸蔵合金を使った水素貯蔵方式を、1997年にエタノール改質方式を、それぞれ利用した試作車を製作しています。また、日産自動車も、メタノール改質型燃料電池とリチウム電池を組み合わせたハイブリッド車を発表し、燃料電池車競争に名乗りを上げました。

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質問 21世紀には、ドラえもんのように意志を持った「機械」やロボットをつくることが可能になると思われますか?私は、機械が意志を持ったときが人間存続の危機だと思うのですが、そういう点についても考えをお聞かせください。【その他】
回答
 「意志」とは何でしょうか。まず、この問題から考えてみたいと思います。
 多くの植物には茎が光に向かう性質(光屈性)があり、まるで光を求めて体を伸ばしているように見えますが、実際には、光の当たり方によってオーキシンのような成長促進ホルモンに濃度差が生じた結果であることが知られています。また、単細胞生物のゾウリムシは、光や温度・化学物質などを感知して好ましい環境へと移動していきますが、これも、各受容器から伝えられる情報が、繊毛運動を引き起こすモータータンパク質の働きを変化させるためです。こうした単純な「向性」は、一連の生化学的プロセスとして理解することが可能です。それでは、より高等な動物が示す「意志的な」行動は、植物や単細胞生物の単純な動きとは質的に違うものなのでしょうか。それとも、基本的なメカニズムは同じで、ただ膨大な数の生化学的プロセスが複雑に組み合わされているために、いかにも合目的的に行動しているように見えるのでしょうか。この問題に対して、科学はまだ完全な答えを出していませんが、私は、基本的なメカニズムは同じだという考えを支持しています。
 例えば、雌コオロギが雄コオロギの歌声に誘われるように近づいていくのは、哺乳類の求愛にも似た意志的な行動のようです。しかし、近年の研究では、雄が奏でる4.5kHzのシラブルの繰り返しに特徴的に反応するニューロン(神経細胞)があり、このニューロンが左右の耳(コオロギの耳は足についています)に入ってくるシラブルの僅かな強度差を検出すると、強度が大きい方に体を回して差がなくなるようにする(つまり、音源の方向に体を向ける)という簡単なルールに従って行動していることがわかってきました。実際、このルールをプログラムしたマイコンが制御するロボット・コオロギ(マイクの耳とモーター駆動の足を持っています)を作ったところ、生きたコオロギさながらに、ウロウロししながら少しずつ雄コオロギの歌を流すスピーカーに近づいていったという報告があります(B.Webb,1995)。
 鳥類や哺乳類は、知覚データだけに基づいて動き回るのではなく、(大脳新皮質を使って)未来には何が起きるかを予測しながら行動方針を決めているため、無脊椎動物と比べて行動パターンがきわめて複雑なものになっていますが、生物の体を構成している生化学物質や細胞組織は、単細胞生物や無脊椎動物とほとんど同じなので、ある行動を引き起こす基本的なメカニズムに大きな差異があるとは思えません。つまり、合目的的な行動の契機としての「意志」は、ある特権的な生物だけが備えているものではなく、そのレベルが「植物→無脊椎動物→魚類・両生類・爬虫類→鳥類・哺乳類→類人猿・人類」と段階的に変化していると考えられるのです。
 現在の技術水準でも、ロボット・コオロギのように、昆虫レベルの行動パターンをシミュレートする機械を作ることは可能です。また、簡単な行動戦略を立案する人工知能の研究も進んでいます。例えば、仮想的な空間の中で物体を持ち運びする作業を扱う人工知能の場合、いくつかの物が積み重ねられているとき、教えられなくても、下の物体を持ち上げるには、上の物体をどかさなければならないと「思いつく」ようなモデルも考案されています。こうした技術を組み合わせれば、21世紀中には、爬虫類と同程度の「意志」を持っていて、目的物をキャッチするのにいろいろな行動戦略を練り上げたり、危険が迫ってくると自主的に逃げ出すようなロボットを実作することも可能になるでしょう。しかし、より高度な哺乳類クラスのロボットは、行動に関与する因子があまりに膨大になるため、予想を超えたブレイクスルーでもない限り、人類の科学・技術では手の届かない夢に終わると思います。
 人間と同様な「意志」を持つ機械を作るとなると、さらに大きな困難が待ち受けています。人間は、きわめて抽象的な(「ある人を喜ばせる」というような)目的や、それまでになかった新たな目的を設定し、これを達成するように行動方針を策定しています。したがって、同じことを機械に実行させるためには、抽象的な目的の意味を解釈して実行可能な行動方針を立案したり、独創的で有意義な目的を自分だけで案出するようなプログラムを作成しなければなりません。しかし、こうしたプログラムを書くには、人生の意味を論理的に解明しておく必要があります。もしそんなことが可能だとすると、人生は何とも底の浅いものであり、意志を持った機械に道を譲ってもかまわないような気がしませんか?

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©Nobuo YOSHIDA