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  道元の思想は厳しい。ぬるま湯のような虚構の世界に浸ることをうとましく思う現代人は、すべからくこの思想を学ぶべきである。
 道元の厳しさの源は、現実以外に救済を求めないところにある。「死して後に浄土に往ける」などという甘えた発想は、微塵もない。日常を構成する全てが瓦礫に至るまで仏性の現成だとする思想の下に、いかに悲惨であろうとも、その中で生き抜くことが仏道だと主張する。死後に救済はない。死は終末ではないが、死を越えて自己が継続することはない。そもそも、われわれが己と呼ぶものが、仏の現れ方の一つなのである。したがって、現実以外を求めることは、仏の教えに反することになる。ただ現実を生き抜くことが、仏教の修行であり、同時に宗教的実践となる。
 日常には、些末に見えるものも多い。しかし、食事をすることも、排泄することも、眠ることすらも、修行であり、また実践である。修行して何らかのステータスに達するというわけではない。生きること即ち救われることなのである。(1月4日)

  現在、自動車の運転免許は、18歳以上に制限されている。これは妥当なことだろうか。おそらく、純然たる運転技術に限れば、18歳まで待つ必要はあるまい。前方に見えるカーブを曲がるには、速度をどこまで落とし、どれだけハンドルを切れば良いかを体得するのは、むしろ、14〜5歳位が好適だろう。子供に欠けている人生体験が必要になるのは、総合的な判断が要求される局面である。10メートル程先を自転車が走っており、さらにその10メートル先の歩道で小学生が遊んでいる。大人の運転手ならば、小学生がいきなり道に飛び出し、それを避けようとして自転車がハンドルを切るかもしれない、それに備えてブレーキに足を載せていなければならないことを、一瞬のうちに判断できる。しかし、人生経験に乏しい青少年は、その辺りの総合的判断が叶わず、事故が起きた場合には、予測不能な行動をとった自転車乗りを非難するだろう。こうしたトラブルを避けるためには、運転免許を18歳以上に限るのが適切だと考えられる。(1月10日)

  大学生の常識のなさが批判されるようになって久しい。聞くところによれば、三木清も65年前に、「今の大学生はかつての高校生並だ」と嘆いたというから、いつの時代にも、現実と要求水準の乖離が見られるのかもしれない。しかし、「東京−名古屋間の距離は?」と問われて「1万kmくらい」と答える大学生がいるとなると、事態はまことに憂慮に値するとも思われる。
 だが、待てよ……と、そこで気が付く。私自身、学生の時分に、東京と名古屋の距離が答えられただろうか。人間というもの、自分の愚かだった頃を実に速やかに忘れてしまう。今でこそ、この程度の知識は当たり前のこととして身に付いているが、それは、例えば平均時速50kmで自動車を走らせても5〜6時間は掛かるといった体験に根差しているのではないか。旅行する機会もあまりなく、本からの知識とテレビや電話のような距離を実感させないメディアを介しての情報に埋没していた当時、私も、名古屋まで1000km以上はあると思っていたような気がしないでもない。とすると、学生の非常識度は、昔からそれほど変わっていないのではないか。いや、私が抜きん出て非常識で、今の学生がそのレベルまで落ちてきたのか。そういえば、郵便料金表の見方も大学院生になるまで知らなかったし、マクドナルドの注文の仕方はいまだにわからない。これは単に、何を常識とするかの問題にすぎないのかもしれない。(1月13日)

  生物は、生存競争を通じて環境に適応したものだけが生き残ると考えられる。それでは、自然界とは全く異質の環境であるはずの動物園内部で、多くの動物が長寿を全うするのは何故か。もちろん、動物園側の長年の努力をこそ評価すべきなのだろう。珍獣を見せ物にするところから始まりながら、徐々に学術研究と社会教育の場として整備されるにつれ、飼育方法が改善され、個体の長期生存が可能になったわけである。栄養面に配慮した飼料、種によっては空調設備まで整えた生活スペース、病気を予防するための清掃や検診などのシステム──こうした条件が揃って、はじめて動物の長寿化が達成できたことは間違いない。
 しかし、それにしても、草原を疾駆していたはずのライオンが狭いスペースでごろごろ寝そべっているばかりでは、筋肉も衰え体脂肪が増加して早死にしそうなものだが、そうはならないことに、もう少しの説明が必要だろう。最も単純な考え方は、トレードオフ仮説である。自然界において環境に適応しているとは言っても、それによって生存に必要なリソースを全て充分に確保できるというわけではない。いくつかのリソースは互いにトレードオフの関係にあり、あるものを得ようとすると他を犠牲にしなければならなくなる。キリンは、首が長くなったことによって高い樹木の葉を食べられるようになったが、そのために高血圧となり、循環器系の疾患に苦しめられる。牛の仲間は草を土ごと食べて消化を助ける土壌バクテリアを体内に取り込むが、同時に、寄生虫や病原菌も飲み込んでしまう。人工的な環境では、自然に適応した身体が馴染めない要素も多いが、その一方で、自然界でのマイナス面を打ち消すようなメリットも用意されている。このため、総合すると生存率が向上する結果となるのである。(2月1日)

  ITの発展に伴い、学術論文の発表の仕方にも大きな変化が訪れようとしている。すでに多くの学術誌がオンライン出版を行っており、検索や閲覧などの便宜をはかっているが、将来的には、この方向性がいっそう進んで、紙のメディアは個人的にしか用いられなくなるだろう。論文そのものは、全て共通のアーカイブ・サーバに無審査でアップロードされ、ピアレビュー制度は消滅する。その一方で、学術誌は、優秀な論文を選別してリンクを張るアンソロジーへと進化していくだろう。具体的には、有能な編集者がアーカイブに収録された論文の中からいくつかをピックアップし、トップクラスの科学者にコメントを執筆させる。このコメントがビアレビューに代わるものとなり、多くのアンソロジーでリンクされた論文が、優れた業績として認知される。こうした方法は、査読者の無知によって画期的な論文が没にされるのを防ぐだけでなく、複数の学者が同一の論文に対してコメントできるようになるため、発表直後の段階で当該論文の水準が明らかにされ、学生など研究の善し悪しを見極める能力の乏しい人にとって有用である。また、アーカイブの条件として著作権を研究者本人に帰属させることにすれば、引用や論文集の出版が容易となる。もちろん、いくつかの問題点は残ろう。きわめて出来の悪い論文を排除できない(おそらく、アーカイブに納められた論文の99.9%がクズ論文となろう)、あるいは、レフェリーの指摘により発表前にケアレスミスが除かれないなどの点の他、原論文を改訂する自由の有無も考えなければならない。しかし、この方法は、今後20年以内に研究発表のスタンダードになると予想される。(2月7日)

  量子力学の哲学を考察する際に躓きの石となるのが、自由粒子の奇妙な振舞いである。物質内部の電子軌道に関しては、数学的に計算される波動関数と、電子分布がもたらす物理的な効果が見事に一致しており、量子力学的世界観の正当性を実感させてくれる。しかし、自由粒子の場合、波動関数が広がったかと思うと、他の物質を相互作用して波束の収縮を起こしてしまい、実際に何が生起しているのか、イメージが掴みにくい。こうしたわかりにくさが生じる理由は、“自由”という条件設定に問題があると思われる。
 束縛状態にある粒子では、外力が場の自由度による散逸をはるかに上回る強い影響を及ぼすため、散逸効果を無視してもノントリヴィアルな結論が導ける。ところが、こうした外力が存在しない場合、バックグラウンドとなる超長波長の電磁波や物質からしみ出してくるクーロン・テイルの影響を正しく評価する必要が生じる。一般に、ランダムなバックグラウンドに埋め込まれた量子系の運動は、古典的な軌道に漸近する傾向があるため、外力のない“自由粒子”は、かなりの程度まで古典的な粒子に近い振舞いをするのではないかと思われる。いずれにせよ、自由粒子の方が束縛系よりもはるかに難問だという認識を持つことが必要である。(2月24日)

  「博士」と書いて「ハカセ」と読む場合と「ハクシ」と読む場合がある。一部の辞書に「ハカセ」は「ハクシ」の転とあるが、これは誤りだろう。律令時代には「陰陽博士(おんみょうはかせ)」「天文博士(てんもんはかせ)」などの官位があり、元々は中国から由来した官名である。ちなみに、菅原道真は「文章博士(もんじょうはかせ)」である。ここから転じて、知識の豊富な人を一般的に「ハカセ」と呼ぶようになる。この用例は、『源氏物語』にも、「物さだめのはかせになりて」という形で見られる(『広辞苑』より)。現在でも、「お天気博士(はかせ)」「漢字博士(はかせ)」という言い方がある。一方、「ハクシ」という呼び名は、明治期の学制改革の際に文部省が導入した学位の1つである(明治初期には大学の教授に対して、まだ「ハカセ」という官位を与えることがあった)。長く使われた「ハカセ」ではなく、敢えて「ハクシ」としたのは、漢字の読みを統一しようとする動きに従ったものと考えられる。(3月3日)

  ラジオ番組で伊東四朗が正月のカルタ競技に苦言を呈していた。カルタとは、本来、雅な宮廷の遊びであり、詠み手が冒頭の1語を口にするや札を手で跳ね飛ばすようなやり方は、相応しくないというのだ。確かに、うら若き乙女が大声を張り上げて札を取り合う姿は、あまりあでやかとは言えない。しかし、これは宮廷のカルタ遊びに端を発するスポーツだと割り切って見た方が良いような気もする。雅な遊びが激しいスポーツに変貌した例は多くないが、テニスなどは、カルタと良く似た側面を持っている。貴族たちが楽しんでいたテニスは、軽くボールを打ち合う遊びであり、いつまでもラリーを続けるようにプレーするのが正当なやり方である。ライン際や足下など返球しにくいところに打ち込むなど、もってのほかである。また、サービスは、召使いがプレーを始めやすいように球を軽く投げ入れるというもので、サービス・エースを狙うことなど本来あり得ない。そんな優雅なゲームがいつしか豪速球を打ち合う激しいスポーツに姿を変えてしまったのだから、カルタの変貌も、さもありなんと思うべきだろう。(3月6日)

  人気ゲームをフルCGで映画化した『ファイナル・ファンタジー』を観たが、アメリカで大コケした理由が良くわかる代物だった。ゲームをプレーした場合には感情移入できるCGキャラも、画面上のストーリーを追っていくだけでは、心を動かされるべくもない。2時間近い長編映画にするという基本的発想が誤りだったようにも思える。元々デジタル映像なのだから、ブロードバンドを利用してインターネット配信した方が良かったのではないか。例えば、ゲームであるステージをクリアすると、百円で10分ほどの映像がダウンロードできる。しかも、各プレーヤの履歴に応じて、生き残ったキャラクタや所有するアイテムが異なり、成功したクエストを反映した演出が施されていれば、ディープなマニアは、ゲームするたびに新たな映像を求めてダウンロードしてくれるだろう。映画化は、あまりに安易な選択だったと言わざるを得ない。(3月10日)

  東南アジアからの安価な製品に押されて、靴業界が不振をかこっている。セーフガードを発動して国内産業を保護すべきだとの声もあるが、いかがなものか。靴に関して言えば、メーカ(ほとんどが小企業である)は、消費者のニーズに応じた商品の開発を怠ってきた。そのツケが今になって回ってきたような気がする。高温多湿な日本の風土では、本来、下駄や草履が好ましいのであって、足全体を覆う革靴は衛生上の問題が多く、特に夏場は、ひどい悪臭の元になる。にもかかわらず、臭いという声を聞き流して、欧米流の密閉靴にこだわり続けたのはなぜか。また、足指が拡がっている日本人特有の体型に合わせようとせず、先のほっそりした靴を作って多くの女性を外反母趾にしたことに、責任を感じていないのか。消費者がそれを望んだと言うかもしれないが、それは消費者教育を怠った結果であり、外車メーカが左ハンドルのままで押し通して売り上げを伸ばせなかった図式と、良く似ている。1990年頃から、漸く健康的な靴を作ろうとする動きが見えてきたが、いかにも遅きに失した感がある。(3月22日)

  各地の温泉旅館が不振に喘いでいる。バブル期には全館を借り切った大宴会がたびたび開かれたという山代温泉(石川)のホテル百万石も、今では大広間を1つつぶして家族連れを迎えるようになったが、稼働率は最盛期の半分程度とか(日経新聞)。もっとも、数年前から温泉ブームが続いており、温泉地に宿泊した人の総数は、バブル期とほとんど変わらないという。芸者を呼んでドンチャン騒ぎをする客が減った分、保養地としての温泉本来の姿を取り戻したとも言える。お大尽遊びを期待して豪華な施設を造った旅館が苦戦する一方で、心安らぐ魅力的な宿を心がけてきたところは逆に客足が伸びているようなので、現状は業界の新陳代謝が進んでいるものと見た方が良いだろう。(3月24日)

  冗談グッズのアイデア──腰に装着したベルトの背中側に小さなスモーク発生器とレーザーを取り付ける。薄暗がりでスイッチを入れると、頭のそばにボワーッと人の形が浮かび上がる。名付けて、背後霊プロジェクタ。売れるわけないか。(3月25日)

  風水は単なる迷信ではない。前近代にあっては、公衆衛生上の問題を引き起こしかねない因子があまりに多く、現代のように難点の個別撃破ができないばかりか、各因子が複雑に絡み合って、簡単に予測できない状況を生みだしていた。特に、水の流れは、汚水による伝染病の発生から、カビ・害虫などの繁殖、湿気による体調の悪化など、多くのトラブルに関係する。上下水道の完備などとても望めない状況では、風の通り道を造ることによる湿度の低減など、自然環境を巧みに取り入れた対策が必要になる。単純に水を減らせば良いというものではなく、沼沢地の近くでも日当たりが良ければ病気の発生はかなりの程度まで抑制できるということもあるので、総合的に物事を判断しなければならない。また、“気の持ちよう”も健康と密接な関係を持っているため、住民がどのような意識を持つかに間で配慮しなければならない。風水とは、複雑な相互連関を持つ住環境全般に対処するための知見であり、少なくとも前近代においては、それなりの有効性を持っていたと想像される。(4月3日)

  狂牛病問題に適切な対応をしなかったことに関して、武部農水省の責任を問う声が上がっている。これに対して、小泉首相は、辞任する必要はないと農相を庇う姿勢を見せた。
 このケースでは、私は首相を支持したい。国内における狂牛病の発生原因となった肉骨粉の輸入は、武部氏就任以前の出来事であり、主に官僚の不作為によるものである。かつての大臣は、当選6回以上の議員が就任する名誉職であり、政策立案などの専門的な作業は、官僚に任せていれば良かった。失政の責任を取って辞任することは、不満のガス抜きとして名誉職にこそ相応しい行為である。議院内閣制の本分に戻って実務者を閣僚に据えた小泉首相が、形式的な辞任を良しとしないのは当然である。(4月4日)

  オウム事件後にしばらく鳴りをひそめていたテレビのオカルト番組が、またぞろはびこり始めている。小さな染みや現像ムラに見つけてキャーキャー騒ぐ心霊写真ネタはまだ笑い飛ばせるが、人や家に悪霊が憑いているとして真剣に除霊を始められると、グロテスクであるばかりか無責任ですらある。新居に引っ越してから急に体調が悪くなったという事例では、登場した風水師が家の間取りや家具を一瞥、ナニが原因だからああしろこうしろといきなり結論を下したりする。こうした態度は、科学を学んだ者から見ると、まさに噴飯ものである。科学は、頭を絞って考えられる限りの仮説を提出し、それを地道に検討していくことを要求する。引っ越して間もなく体調を崩したというケースでは、可能性のある仮説は半ダースを下らない。建材に含有された揮発性化学物質(ホルムアルデヒドなど)による屋内の空気汚染、化学物質や細菌・原虫による水道水の汚染、新参者には免疫のない土着の流行病、自生している有毒植物のアルカロイド、付近に棲息する害虫の攻撃、高圧送電線からの電磁波や工場からの低周波、新しい環境に馴染めないための精神的ストレスなどなど。さまざまな可能性をリストアップし、有力な仮説からチェックしていくのが最も確実な問題解決の方法である。こうした努力を怠って、一気に解決を求めようとする安直な態度は、決して好ましい結果をもたらさない。(4月13日)

  睡眠中に見る夢は、覚醒中の外界認知とは異なって個人差が大きいと思われるが、はっきりと記憶できない上に言語化しにくい要素が多いため、仮説を実証する上で信頼のできるデータは少ない。私自身、自分の見る夢が多くの人に共通する類型的なものなのか、それとも相当に個性的なのか、判断しかねる点がある。以下、もしかしたら特殊かもしれない私の夢の特徴を、2点挙げておく。
(1)夢の中で、役を割り振られることが少なくない。悪霊を呼び出すロシア人少年とか、戦国時代に主君を守ろうと奮闘するくノ一の頭領とか…。全般に映画的な夢が多く、映画を見ているという設定の途中で、いつの間にか登場人物にすり替わってしまうケースもある。自分自身がカット割りされて、いきなり第三者の立場から状況を俯瞰的に眺めることも…。夢の中には、アイデンティティというものはないらしい。
(2)これも他人が同じような体験をするか知りたいところだが、夢の中で、しばしば「これは夢か現か」と悩んでしまう。UFOが炎上しながら墜落してきたり、神田川をガメラがバタフライで泳いでいるのを見て、「はて、これは現実なのか」と考え込むのはいささか滑稽ではあるが、夢の中では真剣そのものである。自分の頬を抓って痛くないから夢だと判定できることもあるが、そこまで頭が働くのはやはり覚醒寸前なのだろう、夢だとわかった瞬間に、世界は急激に 現実感 を失ってヘラヘラと崩れ去ってしまう。(4月21日)

 
昨年の同時多発テロについて、ブッシュ大統領が事前に情報を入手していながら適切な対応をとらなかったのではないかという批判が出ている。大統領報道官によれば、テロの数日前に危機を察知した安保担当官がアルカイダ攻撃の計画を策定したが、大統領の承認を得る前にテロが発生したという。ただし、これ以外にも大統領サイドが入手していた情報があると言われており、野党の追及が続けられている。
 このニュースを耳にして真っ先に浮かんだのが、ルーズベルト大統領が日本軍によるパールハーバー攻撃を知っていたという疑惑である。おそらく、他の多くの情報に混じって何%かの真実と何%かの虚偽が伝えられたに相違ないが、それ以上のことは、いまだに歴史の闇に隠されている。一部の論者は、アメリカを開戦に導くために、あえて奇襲を許したとの見方を唱えているが、大統領が数千人の自国民を犠牲にするとも思えない。危険情報を受け取りながら、そのプライオリティを低くする何らかの事情があったはずだ。この事情を明らかにするのが、歴史家の勤めである。(5月17日)

  ワールドカップに出場する日本代表が決定した。外野からさまざまな意見が出てかまびすしいが、この4年間、最も近くから選手たちを見ていたトルシエ監督の選抜だけに、素直に応援したい。今回の人選で驚かされたのが、34歳のFW・中山が入ったことである。前回大会で日本に唯一の得点をもたらしたとは言え、技術的に傑出したところはなく、プレースタイルはいかにも泥臭い。その中山を敢えて選んだのは、ベテランとして若い選手たちの精神的支柱となり、苦戦しているときにズルズルと落ち込むことがないように場を盛り立てる役割を期待されてのことだろう。技術的に優れている名波がケガのせいで落選したのは残念だが、取りあえず「夢の1勝」を目指して頑張ってもらいたい。(5月19日)

  サッカーW杯開催が迫っている。多くの市民はスポーツとして関心を抱いているが、政治家や財界人は、このイベントが景気回復のきっかけにならないかと期待しているようだ。W杯の経済効果に関してはさまざまな議論があり、明確な結論はない。直接的な効果としては、来日する外国人サポータが日本で行う消費支出があるが、金額的には知れている。サッカースタジアム建設も地元ゼネコンに仕事をもたらすものの、W杯終了後に充分に活用されなければ、メンテナンス費用だけで赤字となる不良資産に変貌する。東京オリンピックの際のように、幹線道路や新幹線などの産業インフラが整備されたわけでもなく、祭りの後は急速に景気が落ち込む懸念もある。日本が勝ち進めば気分が高揚して経済活性化につながるという意見もあるが、勝利に酔った勢いで新たな事業に投資する能天気な資本家がそれほどいるとも思われない。むしろ、W杯期間中に気もそぞろになって、労働生産性が低下するのではないか。一部の外食産業では、TV視聴が増えるために業績が落ち込むとの見方もある。私の個人的な予測では、W杯の経済効果はマイナスになるのだが…。(5月30日)

  「10分1000円」を掲げたニュータイプの理容店・QBハウスが業績を急伸させている。これまで理容店と言えば、1時間近くもイスに束縛される苦痛の場でしかなかった。スケジュールの中に散髪の予定を組み込まざるを得ず、料金も3〜4000円と高い。これに対して、QBハウスでは、洗髪やひげ剃りなどの過剰サービスを全てカットし、時間が空いたときに気軽に行ける理容店を実現した。こうしたやり方が可能になった理由は、いくつかある。第1に、以前のように髪をベトつかせる整髪料の使用が激減し、ハサミを入れやすくなったこと。第2に、髪の切りくずを吸引装置で吸い取れるようになったこと。ただし、装置自体はさして高機能でなく、これまで開発されなかったことが業界の怠慢だと言わざるを得ない。このほか、各家庭にシャワーが普及し、理容店で洗髪してほしいというニーズが減ったことも重要である。過剰サービスの削減を求める利用者の声は、(私の知る限り)20年前からあった。それを無視して斜陽産業となった理髪業界の人々は、QBハウスの成功をどう見ているのだろうか。(6月9日)

  【笈田忍のリーベシオン報告】 ひゃっほー。お久しぶりの笈田忍でーす。きょうは、わがリーベシオン研究所の情報セキュリティ部門担当シゼリア博士のお話。どこでもそうだけど、研究所のネットワークには、ハッカーの侵入やウィルス感染が当たり前のように起きているの。ここは並の国家機密よりすごい情報が蓄えられているけれど、やっぱ民間機関だから、あんまりお金をかけてファイアウォールなんか作れないってわけ。で、自前のセキュリティシステムを作り上げようとして指名されたのがシゼリア博士なんだけど、博士のやり方は、ふつうとはちょっと違っていたの。絶対に外部から侵入されないようなシステムは不可能だとばかりに、侵入されても平気なシステムにしちゃおうというの。ネットワーク内の全コンピュータに、あるエージェント・プログラムを常駐させておいて、アクセスに対する応答は全てこのエージェントが行うんだけど、すごいのは、入力されたコマンドに対して送り返すデータのほとんどがデタラメだという点。正しいデータを選り分けるには、別のエージェントとの交信が必要になるんで、外部から不正にアクセスしてきたハッカーには、情報が正しいか間違っているかわからないって仕掛け。ウィルスが侵入して何かしようとしても、まずエージェントがコマンドを受け取って別のエージェントと相談するんで、変なコマンドだとすぐにばれてしまうし。しかも、いちいちエージェントのメンテをしなくても良いように、シゼリア博士はこれを自己変異・自己増殖型のプログラムにして、システムの更新に自動で対応できるようにしたんだって。博士自慢のこのプログラム、グヌータスと名付けて、誰でも自由に使えるようにとフリーソフトとして公表しておいたんだとか。ところが、このグヌータス、自動的にバージョンアップしていくうちに、だんだんと増殖能力が強力になって、猛烈に増え始めたから大変。あたしの自前のコンピュータも、調べてみたら300個以上のグヌータスが勝手に動いていたんだから、中央コンピュータではどうなっていることやら。常駐を終了させようとしても、グヌータス同士が結託してコマンドを受け付けないようにしているし、OSも書き換えられてグヌータスの巣窟になっているらしいって。これじゃ、グヌータス自身がウィルスになったのと同じじゃない。このことを知らされて、シゼリア博士、慨嘆していわく、「グヌータス、お前もか」。(6月23日)

  若者の言葉遣いが乱れているという声は、いつの世にも聞かれる。ただし、中には妥当な用法を年配者世代が理解していないケースもある。例えば、「鳥肌が立つほど感動した」という表現。鳥肌は、おぞましいものを見たときに立つのであって、感動と結びつけるのはおかしいという意見もある。しかし、スポーツ中継などで、あまりに劇的なシーンを見ると、間違いなく鳥肌と呼ぶべきものが肌に生じており、これを直接的に表した言い回しと考えれば、不当ではない。
 鳥肌は、もともと体毛を立てて保温しようとする生理的な現象であり、体毛を喪失してその機能を失ってからは、脳幹が処理するような深い情動と結びつくことになった。おそらくは、敵に遭遇したときに体を大きく見せる効果もあったはずであり、そのことが、鳥肌と恐怖が関連づけられる契機となったと考えられる。しかし、安全性の高い現代社会では、毛を逆立てて威嚇しなければならない外敵に出会うことはなく、むしろ、映像表現の発達とともに、スポーツ中継などでのバーチャルなピンチが、きわめて身近なものになっている。そうした中で、感動とともに鳥肌が立つという事態が、現実に起きているのである。(6月26日)

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©Nobuo YOSHIDA