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  財務省は、塩の輸入が自由化されるのに合わせて、食用の輸入塩に35-50%という高率の関税を掛ける方針を決定したようだ。国産品に比べてトン当たり3000円ほど安い中国産食塩の輸入に備えるのが目的だが、新たな貿易摩擦の火種になりそうである。
 生活必需品である塩に対して、国家権力は、しばしば食指を動かす。現在でこそ、自由化の波に揉まれて民間企業の参入が認められているものの、つい最近まで、専売公社が塩の生産・販売を独占していた。旧専売公社が販売していた塩は、塩化ナトリウム100%のもので、マグネシウムなどのミネラル成分が欠如しているため、健康に良くない。脳卒中などの血管障害の要因として、隠れた食品公害を引き起こしていたと推測される。これも事業独占の弊害と言えるはずだが、さしたる反省もないままに既得権益を守ろうとする政府の方針は、批判されてしかるべきである。(7月15日)

  連合国による戦後処理に際しては、捕虜を虐待したとの理由で多くのB・C級戦犯が処刑された。非人道的な行為が死に値すると判断されたわけである。しかし、捕虜の虐待が非人道的だという主張は、果たして正当なのだろうか。確かに、戦闘を放棄して降伏した相手に対して危害を加えることは、人倫にもとると思えるかもしれない。欧米では、19世紀頃からこの考えが一般化し、捕虜虐待の禁止は国際協定にも盛り込まれる。だが、戦争そのものが非人道的な行為であり、直前まで互いに殺し合ってきたことを考えると、降伏した瞬間に手を下せなくなるのは奇妙である。捕虜には寝所と食物を提供しなければならず、監視のために兵員を割く必要もあるので、軍隊にとって負担が大きい。見せしめのため、あるいは、自軍の兵を恐怖で支配するために、捕虜を虐殺することは、それなりに効果的である。にもかかわらず、捕虜の虐待を禁止したのは、人道主義というよりも、むしろ戦略的な配慮からだと考えられる。大量殺戮兵器が使用される近代戦において、最も避けるべきは消耗戦であり、勝者が明らかになった時点で早めに戦闘を打ち切る方が、敵味方いずれにとっても好ましい。そこで、降伏者に対しては命を保証し終戦後は帰還させるという取り決めをすることによって、徹底抗戦を回避しようとしたわけである。捕虜の虐待を禁止するのは、兵力の無益な損耗を防ぐための戦略であって、決して人道主義に由来するものではない。とすれば、兵力で著しく劣り精神力による挽回を画策していた日本軍が、兵隊を「猫を噛む窮鼠」に仕立てるための1つの手法として敢えて捕虜虐待を行ったことを、欧米人が人道主義的な観点から非難するのは、いささか筋違いにも思われる。(8月3日)

  久しぶりに、古今亭志ん朝の「柳田格之進」をビデオで見直して、また落涙してしまった。この演目はもともと講談の出し物で、昭和の名人と謳われた志ん生が講釈師時代にネタを仕入れ、換骨奪胎して現代人の鑑賞に堪えるものに練り上げたものである。とは言っても、プロットに染みついている封建臭が鼻に附きやすく、名人といえども聞き手を感動させることはきわめて難しい。志ん朝が驚くべき境地に達していることの証だろう。
 この作品の要は、男が男を信頼することのすがすがしさである。一生の間に心から信頼できる人に一人でも出会えたら、その人生は幸福だったと言って良い。信頼に足る人物は、それほど数少ない。作中、質屋の主人が落魄した浪人・柳田格之進の碁友となり、その過程で格之進の高潔さに深い信頼を寄せるようになるが、そのきっかけをエピソードなどで紹介しないところが味わい深い。「こんな出来事があったから信頼できる」というのではなく、人格そのものに信を置いたのである。この信頼感があってこそ、番頭の心の揺らぎが、妬み嫉みのような狭小なものでないことが浮き彫りになってくる。(9月4日)

  近頃は安いファーストフード店が増えて、ワンコイン(500円)で軽く昼食を済ませられるようになった。こうなると欲が出て、こんな食べ物屋があったらと思うことも多い。私の一押しは、「メシ屋」である。基本は白いご飯。ふっくらとおいしく炊きあげた極上の一杯。 これが1合で150円程度。さらに、30〜100円で、小鉢にさまざまなトッピングが用意されており、客が自由に選ぶことができる(食べているうちに次々と欲しくなるので、代金は後払いが良い)。納豆、海苔の佃煮、大根おろし、からしめんたい、キムチ、松前漬け、イカの塩辛、永谷園のふりかけ(これは無理か!)…etc。ご飯がおいしければ、ほんの少しのおかずでいくらでも食べられる。ご飯粒がノドを通り抜けるのは一種の快感であり、3〜4杯は楽にいける。そうなると、ワンコインではとても済まなくなるのだが、客にとっても店にとっても、満足のいく食事となる。(10月11日)

  諺の誤用は年輩者のひんしゅくを買うばかりだが、敢えて誤った形で使いたいものもある。私が好きなのが、「捨てる神あれば、拾う神あり」。本来は「救う神あり」のはずだが、「捨てる−拾う」の対句になっていて、こちらの方が覚えやすい。何よりも、神様が「いい物めっけ!」とばかりに拾い上げる光景を想像すると微笑ましい。編集者に訂正されても、「拾う神」に拘りたい。(10月26日)

  妙に気になるテレビ・コマーシャルがある。ピクミンという任天堂ゲームキューブ用アクションRPGの宣伝だが、アニメ声優のような声で「きょうも運ぶ、闘う、殖える…」と歌われ、最後に「…そして食べられる」とまとめられると、思わず「ピ、ピクミン、かわいそう」と呟いてしまう。ゲーム内容は、どこかの惑星に取り残された主人公が、動く植物ピクミンを育て、モンスターの襲来に備えながら、周囲を開墾していくというサバイバルものらしい。テレビ画面で見る限り、ほのぼのとしたファンタジー系の画像が心地よく、戦闘シーンもあまり残酷ではない。それでも、自分についてくる愛すべきピクミンたちをモンスターと闘わせて身を守ることに、何か罪悪感を覚えずにはいられない。主人公のために黙々と働き、最後はあっけなく命を散らすピクミンという存在に、自分を重ねてしまうからなのだろうか。もっとも、実際にプレーした人の感想を読むと、平和時には1匹のピクミンが池に落ちただけで隊列を止めて救ってしまうのに、いざモンスターが現れると、「ピクミン、行けー!」と玉砕戦を敢行してしまうという。まるで、テロを憎んで平然と戦争を起こすアメリカ人になった気分だとか……。(10月28日)

  TVで放映された『スターシップ・トゥルーパーズ』を再見したが、何度見ても奇妙な作品だという印象を拭えない。これは、意図されたパロディなのか、それとも結果的にそうなってしまったのか。
 原作は、愛国者にしてヒッピーの教祖という、これまた訳の分からないSF作家ハインラインの『宇宙の戦士』。ストーリーは、古き良きハリウッド映画の伝統をなぞっており、高校時代から友人にしてライバルだった2組の男女が、さまざまな試練を経て成長していくというものだが、それにしては、各エピソードの描写がやけにどぎつい。軍事教練中に誤ってチームメイトを死なせてしまう場面では、若者の頭半分が見事に吹き飛ぶし、エイリアンに殺された仲間の一人は、脳ミソを吸われてミイラの形相になる。それでもヒロインはラストまで引っ詰め髪のあどけない少女の姿だし、ヒーローも典型的なアメリカ人好男子である。「総天然色」の時代を思わせる色調は、妙に懐古趣味的だ。鬼教官に鍛えられて立派な戦士になっていくというビルドゥングス・ロマンが、実はひどく醜悪な偽善にすぎないことを、パロディ表現を通じて訴えていると受け取れなくもない。だが、軍隊の非人間性を描くシーンはなく、苦戦を強いられた後の勝利が高らかに謳い上げられて終わるため、訴求力は皆無である。
 あるいは、メタレベルで戦争の愚かしさを表そうとしているのかもしれない。一般人に対する無差別テロを行ったエイリアンを殲滅するため、市民が一致団結して戦争に協力する姿は、同時多発テロによって突如愛国心に目覚めるアメリカ人の(現実に4年も先立つ)おぞましいパロディになっている。銃を抱えた歩兵が一斉に突進するという限りなく馬鹿げた戦法の描写は、意図的に軍隊を愚弄するものとも言える。敵のエイリアンを不気味な昆虫の姿にしたことも、インディアン・ジャップ・イスラム原理主義者に対するアメリカ人の伝統的な眼差しを示しているのだろうか(「良い虫は死んだ虫だけだ」という素敵なジョークまで出てくる)。しかし、それでもなお、もしかしたら監督は、大真面目にヒーロー物語を撮ろうとしているのではと感じてしまう。それほど、作品全体の構図が見えにくく、逆に、その出鱈目さが堪らなく面白い。これこそ、真のカルト作品である。
『スターシップ・トゥルーパーズ』(監督:ポール・バンホーベン、出演:キャスパー・バン・ディーンほか、1997年アメリカ作品)
(11月10日)

  同時多発テロによって2棟の世界貿易センタービルが崩壊したことは、単に5000人の命と数百億ドルの資産が失われたというに止まらない衝撃をニューヨーク市民に与えた。このツインビルが、パリにおけるエッフェル塔のように、シンボリックなモニュメントとしての役割を果たしていたからである。30年前に世界で最も高い建築物として貿易センタービルが完成したとき、私はやや落胆を禁じ得なかった。エンパイアステートビルやクライスラービルのような尖塔を持つ“摩天楼”とは異なり、味気ない近代的ビルにすぎないと感じられたからだ。しかし、その後、このビルの映像を繰り返し見ているうちに、そこに卓越したデザインが秘められていることを感得する。まず、根元から屋上に至るまで密に並んだ細い柱がまっすぐに伸びることにより、軽やかな浮遊感が生じている。とてつもなく巨大で、下から見上げると遠近法によって先細りになるので、わざわざ先端を尖らせる必要もない。何よりも、同じデザインのビルが2棟並んでいる効果は絶大である。山や木でも、そっくりなものが2つ並ぶと、人はなぜか異様なまでに魅せられてしまう。他の超高層ビル群を睥睨するごとくツインビルが並び立つ光景は、あたかも街の中心部に突如現れた異世界へのゲートのようでもある。建築家は、その効果を最大限に引き出すために、縦の線以外の余分な装飾をあえて加えなかったのだろう。人を惹きつけるこうした要素を多分に有していただけに、貿易センタービルの消滅は、人々に深い喪失感を与えるのである。(11月19日)

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©Nobuo YOSHIDA