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  新世紀の幕開けを機に、今後100年間に何が起きるかを学識者が予測している。私も、いくつか思いつくことを上げてみよう。
  1. 環境破壊は深刻さを増し、気候変動による食糧不足が現実化する。2030年頃には、アフリカを中心に総数で千万単位の死者を出す飢饉が発生する。ただし、高緯度地方での開墾が進み、2050年以降、飢饉の発生頻度は減少する。
  2. 熱帯林の伐採には2020年頃に歯止めが掛かるが、失われた膨大な遺伝子資源は取り戻せない。ブラジル・インドネシア・フィリピンなどは、森林の喪失による痛手から立ち直れず、貧窮状態を抜け出せない。
  3. 世界各地で民族紛争が多発し、数次にわたる限定核戦争が勃発する。幸い、使用される核兵器の規模は小さく、死者数は数百万人に留まる。しかし、土壌の放射能汚染は深刻で、多くの人々が放射能難民となる。
  4. 中国は、2030年までに日本などを抜いて世界第2の経済大国となるが、国内に多くの不安定要因を抱えたまま、世界の覇者としての地位を確立できない。2080年頃には、中印2大国の対立が世界を震撼させるも、第3次世界大戦は回避される。
  5. 資源の枯渇とともに自家用車は廃れ、鉄道と自転車が主たる輸送機関となる。通信ネットワークの整備によって高速鉄道の必要性は減少し、東京−大阪間で2時間を切る新・新幹線計画は破棄される。
  6. 耐性菌の蔓延により感染症の恐怖が再び拡大し、中緯度先進国でも結核・マラリアが猛威を振るう。ガンに対しては、副作用の少ない抗ガン剤を腫瘍細胞に直接作用させる方法が開発されて死亡率が大幅に低下するものの、根本的治療法は見いだされない。痴呆症や自己免疫疾患はなくならず、遺伝子治療は期待はずれに終わる。
  7. バイオテクノロジーは急速に進展し、21世紀前半中に、世界で生産される農作物の過半は遺伝子を組み換えられたものとなる。しかし、脆弱な作物が一斉に枯死する事件も起き、高価な自然作物に対する需要も根強い。遺伝子操作された動物は医療分野で一般的になるほか、畜産業でも利用される。一時的には見せ物用の異形の動物も登場するが、世論の厳しい批判に晒されて、すぐに姿を消す。クローン人間の作成も行われるものの、数百人程度の少数に留まる。
  8. 情報技術の急速な発展は、深刻なデジタルデバイドをもたらす。南アメリカやアフリカでは、IT整備の遅れが国際競争の上で足枷となり、貿易不振による不況を助長する。その一方で、北欧・北米・オセアニアでは、ITの恩恵により、物資の消費を伴わない経済成長が実現される。情報の偏りは、かえって国際紛争の火種になる。
  9. 宇宙開発は、コストパフォーマンスの低さが災いして、あまり進まない。月面には無人観測基地が設営され、数年に1度の割でパイロットが降り立つが、積極的な月面開発は行われない。木製の内側の衛星には、それぞれ数次にわたる無人探査が試みられるだけで、有人飛行は実現されずに終わる。
  10. 21世紀末には文明の崩壊が囁かれるようになる。世界中で教育水準の低下が見られ、アメリカや日本で超高層ビルのスラム化が深刻な社会問題となる。こうした傾向は、23世紀に起きる人類終焉の序曲となる。
(1月8日)

  現代日本は、物質的欲望が充足され、人々の関心がより精神的なものに向かった結果、文化の個性化・多様化が進んだという意見がある。一方、テレビやインターネットなどのマスメディアの影響力が強まり、画一性が強まったとの見方も多い。実際には、どちらなのだろうか。私は、1%の分画化という考えを提唱したい。かつては、情報の流通範囲が限られていたため、地域格差が大きく、それぞれのエリアはきわめて同質的な集団になりがちであった。これは、“農村地域”のような居住空間だけでなく、学校や職場などにも当てはまることで、そこにいる人たちは、各人の役割分担に応じて定められた風体を身につけていた。しかし、情報革命がこうしたエリアの壁を撤廃し、人々は、より個人の嗜好に叶った文化を吸収するようになる。地縁よりも趣味に応じた連帯を重視し、このつながりを持つ集団の中で、情報は驚くべきスピードで伝達されていく。この結果、空間密度の希薄な広域的同質集団が形成される。これが、文化の多様化と画一化が同時に進行する所以である。空間的に広がったさまざまな同質集団は、地域人口で見ると1%そこそこを占めるにすぎない。しかし、1億以上の人口を有する日本にあっては、これは100万人規模の同好会となり、たちまちにしてミリオンヒットを生み出す母体となる。ひところマスコミを賑わせたヤマンバ姿の女子高生も、100万人以上いる全女子高生の1%程度にすぎないと思われるが、それでも、横の連携が密で常に似たようなファッションを身にまとっているため、強力な文化発信源となり得た。同質集団内部では、群に溶け込んで安らげることもあって、集団の成員は地域社会から浮いていても疎外感を覚えない。良し悪しは別にして、こうした集団が、ネオジャパン文化の担い手となっているのだ。(1月17日)

  押井守の『アヴァロン』は、観る者の予想を裏切りながら果てしなく疾走する驚異の作品である。RPGの世界を映画に持ち込んだ例は、これまでにも『コナン・ザ・グレート』をはじめ多々あったが、『うる星やつら』以来、常に用意された作品世界を超克していく押井が、そんな安易な制作態度を取るはずがない。かくして、我々の眼前に現れたのは、超リアルなRPGにのめり込むゲーマーの虚実も定かでない体験である。この作品を観る誰もが指摘するであろうことは、ストーリー上で現実として措定されている世界の異様なアナクロニズムである。まるで独裁政権の暗闇に取り残されたかのような、活気のなく淀んだ光景は、そのまま非現実的な閉塞感を漂わせたRPGの舞台と重なり合う。このため、観ているうちに、映画という虚構の中で仮定されている虚実の境目が、次第に曖昧になってくる。少し鋭敏な観客は、ここで作品の仕掛けが読めたと思い、ラストで「実は全てが虚構だった」と種明かしされると予想する。しかし、この先読みこそが、まさに作者(伊藤和典/押井守)が用意した最大のトリックである。突如、色彩豊かなフィールドに舞台が移行して「やはり」と思った観客は、最後に見事な背負い投げを食らうことになる。(2月8日)

  国立博物館で開催されている『土器の造形』展は、日本人のルーツを改めて考えさせる好企画だ。会場には、縄文・弥生の土器が300点あまり並べられているが、目を惹くのは、何と言っても、異様な迫力を持った縄文中期の装飾土器群である。波状口縁と呼ばれる波打った造形を示す“作品”は、5000年以上前の縄文早期から見られるが、時が経つにつれて次第に波が盛り上がり、複雑な飾りや文様が施されるようになってくる。渦巻模様なら世界共通のデザインだが、ここでは、渦は短く断ち切られ、かわって非対称の突起物が、これでもかとばかりに積み重ねられている。中でも、環状の取っ手らしきものは、ほとんど実用的な機能がないにもかかわらず、最も目立つ位置に高々と飾り付けられている。土器のあちらこちらに円形の穴をあける意匠も、不可解ながら強く印象づけられる。こうした衣装を施された土器の頂点に立つのが、一群の火炎土器群である。新潟県の数ヶ所の遺跡から発見されているこの“作品”は、祭祀的あるいは政治的理由によって制作され、各村落の中心に据えられたのだろうが、異形と言っても良いその姿は、我々とは全く異質のデモーニッシュな原日本人の姿をあらわにしている。(特別展『土器の造形』(国立博物館)を見て)(3月6日)

  日本経済は、危機的様相を呈している。株価は1万2000円を割り込み、16年前の水準に戻ってしまった。政府ははじめてデフレ基調にあることを認めたものの、有効な対策を打ち出せないでいる。それどころか、下落した株を税金で買い上げるという相も変わらぬ小手先の方策を模索しており、このままでは愚かな政治家に国家を潰されかねない。
 現在の経済危機を招いた元凶が、一向に処理の進まぬ不良債権であることは論を待たない。ここで考えなければならないのは、“不良”と評価されることの意味である。中には、無人の原野に建ててしまった豪華ホテルのように、全く使い道がなく、維持するにも破壊するにも莫大な資金のかかる真の“不良”資産もある。この種の不良資産には、旅客需要もないのに建設した空港、積み荷の量に比べて大がかりすぎる港湾施設など、ずさんな計画に基づく公共工事に由来するものが多い。ただし、これらは、100兆円を超えると推測される不良債権全体のごく一部にすぎない。大部分は、バランスシートの上では“不良”とされるものの、資本財の価値は充分に認められる。例えば、大規模開発を目指して購入したものの、需要が冷え込んで計画実現が困難になったまま塩漬けにされている土地は、所有者にとって膨大な含み損になっているという意味で“不良”だが、別の用途に利用可能だという点では、立派な資産なのである。これらの資産を適切に運用することが、景気を浮揚させるための必要不可欠の措置であり、その促進に向けた政策を実行することこそ、今の政府に求められる。(3月18日)

  数年前から100円ショップが人気を集めている。バブル崩壊以降、ディスカウント・ショップが順調に売り上げを伸ばしており、20000円以下のスーツ、1000円前後の日用着、200円台のランチなど、10年前には考えられなかった安価な商品が見受けられる。その中でも、100円ショップは、ワンコインでさまざまな日用品が選べるだけに、単に便利であるだけでなく、ショッピングの楽しさを味わわせてくれる。ここで難しいのが品揃えである。原価計算して100円で販売できる商品を並べただけでは、客は集まらない。たとえ来店しても、必要な商品だけを購入していくため、特定のものしか売れず、同様の品揃えをする大手スーパーと競っても勝ち目はない。100円ショップが成功するためには、「こんなものも100円で買えるのか」という驚きを客に与えなければならない。さらに、来店するたびに新たな発見があるように商品開発を続けることも必要である。こうした努力が背後にあってこその成功なのだ。(3月27日)

  薬害AIDS事件で業務上過失致死に問われていた安部被告に、東京地裁は無罪判決を言い渡した。事件を引き起こした張本人として安部氏を断罪してきた一部マスコミは、意外な判決という論調の報道をしていたが、医学的な観点からすると、必ずしも不当なものではない。私自身は、無罪になる蓋然性は30-40%と思っていたので、さもありなんという感想である。薬害AIDS事件は、通常の“薬害”とは異なって医薬品の副作用による被害ではなく、汚染された原料のリスク評価を誤ったことに起因する。有害な副作用は、治験の段階で洗い出すべきものであり、その危険性が周知されなかった場合は、製薬会社に過失があったと認められる。しかし、今回のケースでは、米疾病管理センターが血液製剤ののウィルス汚染に対して警鐘を鳴らしていたものの、そのリスクを判定するには高度な医学的知識が必要だということもあり、単なる能力の欠如か指弾されるべき過失かを判別するのは難しい。
 将来に向けて類似した事態の再発を防ぐには、個人を断罪することよりも、むしろ免責を認めて関係者から証言を引き出し、なぜリスク評価に誤りを生じたかを検証すべきだろう。薬害AIDSの場合、関係者は、血友病をコントロールするために不可欠の医薬品として、一部から危険性が指摘されてはいるが使い慣れて薬効もはっきりしている製品と、指摘された汚染は回避できるものの薬効が変化している可能性のある製品の、いずれかを選択するという立場に置かれていた。彼らが何を基準に判断を下したのかを明らかにすることは、今後の薬事行政に大いに参考になる。特に、意図的/非意図的な情報操作がなかったか、危険情報の停留がどこで生じたかは、リスク管理の一般論においても重要な知見となる。(3月30日)

  若者に人気のアイドル歌手・鈴木あみが、引退の危機に瀕している。どうやら事務所の移籍話がこじれて、芸能界から干される憂き目にあっているらしい。彼女は、もともとテレビ東京のオーディション番組に応募し、何万人もの中からチャンスを勝ち取ったシンデレラ・ガールである。短期間のうちに次々とシングルを発売し、かなりの売れ行きを示していた。こうした“夢のような成功”を収めた者の周囲で、おこぼれにありつこうと醜い争いが繰り広げられることは、珍しくない。特に鈴木あみの場合、オーディションによって“作られた”タレントであり、一連の芸能ビジネスにおいて、タレント自身の貢献度はそれほど高くない。事務所側には、CD制作からコンサートまで全てお膳立てしてやっているという思いが強く、収益のかなりの部分を懐に入れてもかまわないと考えているようだ。一方、あみ本人には、多くの対抗馬を負かして現在の地位を手に入れただけに、タレントとしてやや過剰な自負心があると推測される。こうして双方の思惑が対立し、下手をすると金の卵を産むニワトリを殺しかねない情勢である。(3月31日)

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©Nobuo YOSHIDA