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  沖縄でサミットが開催されるが、これを機に、世界中にこの平和な島の現状を知ってほしい。沖縄は、中国と日本の双方に近く、両者の文化的影響を受けながら、世界的にも独自の発展を遂げた地域である。きわめて平和的な民族で、ほとんど戦争を起こしたためしがない。しかし、居住地内に蟄居しているわけではなく、東アジア交易の拠点として反映する。秀吉に対して恭順の意を示し、徳川幕府にも表向きは従っていたものの、必ずしも政治的支配下に置かれていたのではない。むしろ、江戸時代には島津藩による密貿易をバックアップしている。明治政府は、以前にも増して沖縄に対する支配力を強化していくが、それでも独自文化は廃れることなく、本土よりも台湾に近い自由な気風を維持した。それだけに、代理戦争としての様相を呈した第2次世界大戦末期の沖縄戦は、あまりにも悲劇的であり、その異常なまでの悲惨さは、多くのアメリカ兵を狂気に陥れた。この沖縄にクリントン米大統領が訪れることは意義深い。もっとも、彼は、沖縄が持つ歴史の重みを感じ取ることができるだろうか。(7月21日)

  若者のモノ離れが進んでいる。トヨタをはじめ7社が参加して開発した若者向けブランドWiLLの商品も、苦戦を強いられている。今年発表した乗用車WiLL Viも、カボチャをかたどったという丸っこいデザインが評判を呼びながら、売れ行き台数は予想の7割以下だった。家計調査によると、消費性向は、60歳以上に比べて35歳以下では10ポイントほど低い。1960-64年生まれの“新人類”世代は、89年のバブル期には、消費性向が他の世代を越えて高かったものの、90年代に入って急速にモノを買わなくなっている。“団塊ジュニア”世代(70-74年生まれ)は、はじめから消費性向が低い。若者には、モノを消費するよりも、携帯電話で友人とコミュニケーションを図る方が好きな人が多く、流行に振り回されずに、自分がくつろげる狭い空間を作り上げて満足している。音楽に関しても、ヒット作のCDは取りあえず買うという人が減り、売れ行き数百枚程度のインディーズのアルバムを買いたがる。こうした性向が消費低迷を長引かせているというのだが、必ずしも憂うべきことではないようにも思われる。(7月23日)

  「21世紀・夢の技術展」(東京ビッグサイト)でホンダの「ヒューマノイドロボットP3」を目にすることができ、人間の技術はここまで来たのかと感慨を禁じ得ない。2足歩行ロボットはSFなどでは盛んに活躍しているが、現実には、制御に手間がかかる割に実用的価値が乏しく、開発が遅れていた。特に、バッテリを内蔵した自律型2足歩行ロボットは、どうしても重量が増し重心が高くなるので、20世紀中の実現は不可能だと思われた。ところが、ホンダは、私の予想を超える完成度で、これを実現してしまったのである。商売上は(技術力に関する宣伝効果を除いて)ほとんどメリットのないロボット開発を許可した経営陣と、その期待に応えた技術陣に、敬意を表したい。
 P3の動きで興味をそそられたのは、まるで生きている人間のように、膝のバネを使い腰を振って歩くことである。こうした膝や腰の動きは、地面の凹凸や振動にリアルタイムで対応するため技術的に必要になるものだが、それがいかにも“人間的”に見えることは興味深い。(8月3日)

  日本の正式国名は、“ニホン”か“ニッポン”かという問題がある。上代日本では、ハ行の音は唇をくっつけて“プァ”のように発音していたので、「ニホン」という仮名表記で“ニプォン”と読んでいたはずであり、発音の歴史的変化に伴って、いつしか“ニホン”になったと考えられる。日本国と称し始めた当時の読みを重視するなら、“ニッポン”が適切なのかもしれない。
 もっとも、政府も国民も、どちらが正式かを決めるのに、あまり乗り気でないようだ。興味深いことに、自国の正式国名に対する無関心は、何も日本に限ったことではない。政府が正式に定めた「××共和国(Republic of ..)」といった長い名称が、国民に馴染みでないケースは少なくない。ある意味では、これは当然のことでもある。その国に定住している市民からすると、国家についての理念を必要とする機会はほとんどなく、外国に対して自国を相対化する際に、はじめて自国名を意識することになる。国家が安定し、国民が自足している場合は、自分が何国民であるかを考える必然性はないのである。(8月11日)

  商店街や駅でスピーカから音楽を垂れ流しにしていることがあるが、大方は耳障りなだけである。ヒット曲はしばしばビートを効かせすぎており、ライブ会場でアーチストとの一体感を味わうには都合がよいものの、公共空間に流される音楽としては不適である。クラシックならば無難だと考える人もいるが、多くの楽曲は時間的な構造を持っており、ふと気がついたときに耳に心地よいという音楽ではない。ブライアン・イーノらの環境音楽こそオープンな空間で継続的に流されるのに相応しい作品なのだが、いかにもロイヤルティが高くつきそうである。すでに著作権が切れている作品で使えそうなものを探してみると、フォーレの晩年の室内楽が思い浮かぶ。古典派の楽曲は、旋律線があまりにはっきりしており、新聞を読んでいるときなどに耳にすると、意識が旋律に引っ張られて紙面に集中できなくなってしまう。それに対して、フォーレの室内楽は、和音の複雑な変化をメインにしているので、何気なく聞き流していくうちに快さが醸されてくる。(8月22日)

  シドニーオリンピックの開催が間近に迫ってきたが、またぞろマスコミが無責任な皮算用を始めて、事情に疎い人を混乱させている。メダルの個数を競うこと自体、あまり意味のある行為ではないが、やはりオリンピックともなると、どうしても日本の獲得メダル数を気にしてしまうのが人情である。世界のスポーツマスコミは、現在の日本勢の実力を正当に評価しており、金メダルは4-5個と予想している。これに対して、日本のTVやスポーツ新聞は、さしたる根拠もなしに、過大な数字をはじき出している。中には、「金が十数個取れる」とか「サッカーでも金が期待できる」など、ほとんど嘘八百としか言いようのない見通しを述べているところもある。確かに、やや過大に期待を煽った方が、前評判も高まり視聴率や販売部数も伸びるのだろうが、いざ選手たちが実力通りの成績を取ると、やれ惨敗だのオリンピックをなめていただのと酷評が投げつけられる。これでは、がんばった選手たちが報われない。日本で金メダルが特に期待されているのが女子マラソンと柔道だが、どちらもエースが故障から回復し切れていないという情報があり、期待しすぎない方が良いだろう。女子マラソンに関しては、「金銀銅独占も夢ではない」という壮大なホラを吹く輩まで現れているが、高橋ですら7〜8人いる金メダル候補の3〜4番手であり、3人で1つでもメダルが獲れたら御の字である。野球は、古田を欠いたことで実力的にキューバ・アメリカ・韓国に次ぐレベルであり、サッカーに至っては、予選突破の確率が50%というところか。私の予想では、日本の金メダルは2個であり、これより多く獲れれば大いに楽しめるというわけだ。(9月6日)

  科学と宗教は調和させられねばならない。もしできなければ、それは科学の敗北である。宗教にとっても敗北かもしれないが、科学にとって事態はより深刻であると言わざるを得ない。なぜなら、科学はそれ自体が目的ではなく、あくまで人間の道具にすぎないからである。最高の価値体系と調和できない道具は、使う意味がない。科学は、神の問題に対するスタンスを決定すべきである。科学は神と無関係だと言ったとしても、それは最終的な主張となり得ない。宗教が想定している神は、科学の領域にやすやすと侵入できるからである。科学が傲慢になりきれない以上は、正面切って神について語るべきであろう。それが宗教と調和することのない語りに終始した場合、科学はその根元的な支持基盤を失うことになる。(9月9日)

  NHKで5回にわたって放映されたドラマ『喪服のランデブー』は、近来の傑作である。ウールリッチのやや甘ったるい原作を、野沢尚が現代日本を正面から見据える引き締まった脚本に仕上げ、それを、名作『居酒屋ゆうれい』の渡邊孝好が抑制の利いたしっとりしたドラマに仕上げた。特に、寺田農演じる警察署長が盲目の私生児を守ろうとして守りきれなかった姿に、胸を突かれる思いがした。(9月12日)

  いまや百貨店は構造不況業種となり、各店とも生き残りに必死である。かつては交通機関が未発達だったため、1店舗でさまざまな物品をまとめて購入できる百貨店は、実に重宝だった。しかし、現在では、自家用車や地下鉄を使って、品揃え豊富な専門店を巡ることが可能なので、“百貨”店である必要性は希薄になっている。多くの店舗は、駅前の好立地を確保しているので、以前のように、洋服から家具、食品、おもちゃに至るまで何もかも揃えようとせず、その地域で望まれる商品に特化していくのが好ましい。ここでは、倒産したそごうの有楽町店や、マリオンビルの西武と阪急の進むべき道を考えてみよう。いずれも駅から歩いて1分以内という最高の立地条件ながら、周囲にはオフィスが多く、フロア面積も狭いため、なかなか業績が上げられずにいる。私は、百貨店という業態を諦めて、OLやビジネスマンにターゲットを絞った新しいショップを立ち上げることを提案したい。有楽町そごうは、オフィス製品や文房具を中心にすると、百貨店時代より数段客足が伸びるだろう。文房具専門店としては伊東屋が有名だが、オフィス街からやや距離があって不便なので、そごうの位置に品揃え充分の店舗があれば、多くの人に喜ばれるはずである。また、有楽町マリオンは、からくり時計や映画館のある華やかな建物なので、文化的な商品、例えば、アート系書物、インテリア、低額美術品などが相応しいだろう。バブル期に高額美術品を仕入れた店はどこも大失敗しているが、寝室に飾るだけで心和む数万円のリトグラフや複製絵画ならば、現在でも多くの需要があるはずだ。似たり寄ったりの2つの百貨店が併存する状況を改め、一方を丸ごと大型書店にし、他方に若い女性が喜ぶ各種グッズを集めて対照の妙を見せるのも面白そうだ。(9月15日)

  近年、ストーカ被害の報告が増加している。相手に受け容れられない恋愛感情を抱き、理不尽な仕打ちを繰り返すことは、“横恋慕”という呼び名で昔から存在していた。しかし、かつては地域社会における厳しい相互監視が一定の抑止効果を持っていたのに対して、最近では、都市生活における匿名性の高まりと通信メディアの多様化がストーカに多くの手段を提供するようになっており、その脅威はこれまでになく高まっている。感情のコントロールができない人が刃傷沙汰に及ぶこともあり、しばしば殺人事件にまで発展する。こうした状況を受けてストーカ対策法が成立しており、これまで民事不介入を決め込んでいた警察に力を貸してもらう道も開けたと言える。もっとも、この法律は、ストーカの処罰だけを規定しているので、根本的な解決にはならないかもしれない。人間が横恋慕するのは何らかのきっかけがあるからであり、そこに遡って心理的カウンセリングを施さなければ、有罪にされたストーカは恨みを増すばかりである。(10月14日)

  長谷川利行という画家に思いをいたすとき、芸術の悪魔性に心乱されずにはいられない。芸術に身を投じ破滅していった人は、古今稀ではない。大半は、偏狂人として世間から指弾され、侮蔑にさらされながら極貧の中で生を終えて、日の目を見ないまま忘れ去られていく。ごく一部の者だけが、少数の理解者によって支えられ、作品も散逸せずに残ることになる。長谷川利行の場合、こんにちでこそ昭和初期を代表する画家と目されているものの、生前の評価は芳しくなかった。彼は、酒に溺れながら、友人やカフェの女給、さらには馴染みの店や近所の街並みを描き続け、独学ながらも赤や黒の原色を生かした天才的な作品を発表する。晩年には、友人の画商の求めに応じて、驚くべき速筆でどこかはかなげな絵を多作し、個展を年に何度も開く。だが、長年の不摂生がたたって胃を病み、49歳の若さで行き倒れて急死する。死に場所となった病院では、看取る者とてなく、所持していた画帳や小品は、規則によって焼却されたという。(「長谷川利行展」(東京ステーションギャラリー)を見て)(10月18日)

  日本赤軍最高幹部の重信房子が大阪で逮捕された。すでに歴史の彼方に消えたと思われた人物が、突然びっくり箱から飛び出してきたようで、何とも不思議な違和感を覚える。かつて美貌の過激派として知られていた重信も今や55歳になっており、昔日の面影はどこにもなく、市井のオバサンといった風貌である。これを時間の残酷さと言うべきか。革命の理想を見失って破壊と殺人に明け暮れた武闘派の末路としては、いささか滑稽でもある。
 日本赤軍という名がマスコミを賑わせるようになったのは、60年代の熱気が次第に冷めていき、もはや共産主義が国民の目標であり得ないことがはっきりした時期である。テロリストの多くは、将来のビジョンを胸に秘めた理想家というよりは、高邁な目標があると自分に納得させることによって良心を麻痺させた人々である。したがって、明確な目標を喪失したとき、彼らは、盲目的になることによって自分の良心から目を逸らし続けざるを得ず、闇雲に活動を継続していく中で、いつしか方向性が定まらなくなる。こうして、時流に乗り遅れたテロリストは、必然的に破滅する。その姿は、日本赤軍の闘士たちにはっきりと見て取ることができる。(11月11日)

  モラルとは高度な知的作業の上に形成されるものである。「無知なモラリスト」とは形容矛盾であって、現実には存在し得ない。仮にそう見える人間がいたならば、それは単に(意識的か否かを別にして)モラリストを装っているだけであり、何らかの判断が要求される局面に立たされると、たちまち馬脚を露わにする。
 人がモラルの有無を試されるのは、ある行為が、他者のQOLを減殺することが予想される場合である。最も単純なのは、特定の行為によって人が肉体的ないし精神的に傷つくケースであり、それを知りながら強行すれば、不道徳の誹りを免れがたい。もっとも、現実において他者への影響は間接的で分かりにくいため、社会の側が典型的な状況を想定して標準となる行為パターンを設定してくれている。こうしたモデル的行為は、性行動から身だしなみに至るまで多数あるが、しばしば行為そのものが自己目的化してしまし、これを繰り返しているだけでモラリストと錯覚されることもある。だが、これらはあくまで社会が提示する例題であり、自覚的な社会人に要求されるのは、モデル的行為の類型が指示する価値基準の見極めである。ある行為が道徳的だ評価されるのは、そこから派生するさまざまな連関の中で何が重要だと見なされたからなのか。この点を理解することができれば、異なる局面において自分が取るべき行動も自ずと明らかになる。風俗的な行動規範は、社会情勢の変動に応じて切り替えていってもかまわない。婚前交渉はいまやモラルに反しない。それが家督相続の体制を揺るがし、相続権者間の諍いを生み出す心配がなくなったからである。しかし、他者への中傷は、たとえネット化された社会で容易に行えるようになったとしても、いまだにインモラルである。この違いは、知的能力を駆使して初めて理解されるものである。(11月22日)

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©Nobuo YOSHIDA