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  文化財としての建築物をいかに保存すべきか。特に、戦後市街地に建てられた物件に関しては、利用効率の問題があるため、名建築だからといって、おいそれと保存する訳にはいかない。しかも、戦後十数年の間は充分な建築資材が得られなかったこともあって、この時期に竣工した建物の中には急速に老朽化が進んでいるものも多く、利用者の便宜を考えると、取り壊しもやむを得ない場合がある。とは言っても、磯崎新のデビュー作である大分県医師会館や、モダニズム建築の粋と言われた丹下健三の旧都庁舎まで取り壊されたとなると、手をこまねいて見ているだけでは済まされないだろう。確かに、建物を残すのは、維持管理費や収益性を考えると、スクラップ・アンド・ビルドよりも金の掛かることが多く、所有者の善意に頼っていては事態は改善しない。これから築40〜50年の建物の取り壊し計画が相次いで提出されるはずだが、文化的に重要性のある建築物に関しては、何らかのファンドによって保存してほしいものである。(4月1日)

  既に旧聞に属するが、北朝鮮から日本領海内に進入した工作船に対する自衛隊の行動について、私見を述べておきたい。漁船を装った2隻を発見したのは海上保安庁の巡視船で、漁網などが見られないことから不審船として追跡を開始、振り切られたため自衛隊の出動を仰いだ。自衛隊はヘリコプターと船舶で追跡し、威嚇射撃を行ったが、不審船は公海に逃走したという。
 この事件において、不審船の逃走は、予定通りの結末と考えるのが妥当だろう。拉致事件などの捜査から、北朝鮮の工作船がしばしば日本海に侵入していることは、周知の事実だったので、自衛隊としても、工作船を発見したときのマニュアルは当然作成していたはずである。これまで災害救助の実績を積み重ね、海外派兵も大過なく実現させたことから、自衛隊内部にも、自分たちの存在基盤は固められたとの認識が生まれていたと想像される。さらに、テポドン騒動を通じて、北朝鮮に対する国民の不安感が高まっており、ここで自衛隊の実力を示すことは、国民にアピールする絶好の機会となる。そうした発想から、実弾射撃というこれまでになく強硬な手段を執ることに反対は少なかったろう。ただし、無理に工作船を捕まえようとすると、相手からの反撃を受け、人命にかかわる事態にもなりかねない。そうなると、かえって国民の間に恐怖感を醸すことも予想される。それよりは、工作船を逃亡させた方が、北朝鮮に対する軍事力の必要性を印象づけ、自衛隊への信頼感も高まり、予算も増強されることになるだろう。このような考えに基づいて、不審船を発見したときの対処マニュアルが策定され、その通りに深追いせずに逃がしたと推定される。(4月14日)

  Science誌に "The March of Paradigms" という面白い記事が掲載されていた。学術論文のデータベースを検索したところ、ここ10年ほどの間に、タイトルまたはアブストラクトに "new paradigm" という語句を含んだ論文が急増しているというのだ。例えば、ISIデータベースによれば、そうした論文は1991年に30篇だったのに、98年には124篇になっている。しかも、現在が科学の革命期で、次々に革新的なアイデアが提出されているかというと、そうでもないらしい。 "new paradigm" を標榜している論文の90%は通常の論文よりも引用率が低く、学界への影響力は乏しい。もちろん、これらの論文がきわめて革新的で、同時代の学者には理解されていないと解釈することもできる。しかし、Science誌が、いくつかの "new paradigm" 論文をランダムにピックアップして著名な学者に評価してもらったところ、いずれも、さして新しいアイデアとは言えないとの回答を得たという。そもそも、クーンが用いた意味での "new paradigm" なるものは、1世紀に数個程度しか現れないと思われる。特に、現在のように多くの学者が学説の細部を少しずつ練り直すことによって科学研究が成り立っている状況では、それまで誰も思いつかなかった革新的なアイデアを提出することなど、ほどんと不可能だと言って良い。 "new paradigm" という語が好まれるのは、斬新な発想を求めている科学者たちの気を引くための一種のキャッチコピーとしてであり、実質的には、誇大広告同然の代物のようだ。(4月22日)

  TVチャンピオンの「大食い選手権」が面白い。“大食い”という単なる穀潰しと思われかねない体質を一種の才能としてフィーチャーしたのは、なかなかのアイデアである。他の番組で追随する動きも見られるが、やはり番組づくりのノウハウでは、TVチャンピオンに一日の長があるようだ。実は、“大食い競争”は江戸時代の町人の間で流行し、それこそ食べ過ぎで死者が出るほどヒートアップしていた。しかし、幕府の不興を買って次第に下火となり、明治以降の軍国主義化の中で完全に潰えてしまった。最近になってエンターテイメントとして復活したのは、単に飽食の時代のあだ花というのではなく、生活に結びついた娯楽を見直そうとするゆとりの現れではないかと思われる。
 「大食い選手権」で愉快なのは、しばしば小柄な女性が信じられないほどドカ食いすることである。考えてみれば、食べたものを吸収してしまう太り気味の人よりも、片っ端から分解して排出してしまう人の方が大食い体質になりやすいのは当然で、“痩せの大食い”とは、ナチュラルな現象なのである。それにしても、小柄美人が、隣の大男がゲンナリするほどにムシャムシャ食べるのを見ていると、実に小気味良い。最近では、「大食い選手権」となると常に録画するほど、楽しみにしている。(4月29日)

  国会には、毎夏に時計の針を1時間早めるサマータイム制を21世紀初頭から導入しようと画策している超党派グループがあるようだが、この動きは何としても阻止したい。私がサマータイム制反対を唱える最大の根拠は、現代社会における時計の役割が、お上の一存で左右できるものではなくなっているという事実である。今や時計は、ゼンマイによって時を刻み、盤面に時刻を表示するだけではない。コンピュータや制御機器の中に組み込まれ、システムの一部を構成している。家庭内だけでも、パソコンや電話だけではなく、ビデオデッキから炊飯器・給湯器に至るまで、内蔵時計によってタイマー機能を働かせている機器が多数存在する。ヨーロッパのいくつかの国のように、以前からサマータイムを採用している場合は、システム設計の段階であらかじめその点が考慮されているが、季節による標準時刻の変更が想定されていない日本でサマータイムを導入するとなると、改めてシステム全体を見直さねばならない。高速鉄道や巨大プラントなどでは、事故を防ぐために慎重なシステム変更を行わねばならず、SEに2000年問題に匹敵する難題を押しつけることになる。少なくとも、巨大な経済損失を生むことは確実であり、下手をすると、大規模な社会混乱を引き起こしかねない。この点を正しく認識して、サマータイム案を撤回するのが妥当だろう。(5月6日)

  和歌山砒素入りカレー事件で大きな論点となっているのが、林被告の動機である。彼女は、それ以前にも、生命保険をかけた夫や知人を毒殺しようとして、砒素を混入した食事をたびたび供したが、いずれも失敗に終わったという。ところが、カレー事件では、保険も掛けていないのにカレーの大鍋に砒素を混入して近隣住民の無差別殺戮を実行したと言われている。いったい何の目的でそんなことをしたのか。マスコミ報道では、この点が謎とされてきた。
 これに対する私の解釈は、きわめてシンプルである。カレー事件において彼女はもともと殺意を持っておらず、単なる意趣返しとして、少量の毒を混ぜて具合を悪くしようと仕組んだのだ。ところが、分量を決めるときに錯覚があった。以前の殺人未遂の際、かなりの量の毒を盛ったのに、被害者は入院程度で済んだ。ならば、同程度かそれ以下の量を大鍋に入れただけならば、まさか死者は出ないだろうと考えたのではないか。しかし、人間は、致死量を遥かに超える大量の毒を摂取すると、すぐに嘔吐して体外に排出してしまう。少ない分量の方が、確実に体内に吸収されて死に至らせることになる。保険金殺人を企てたケースは毒が多すぎたために未遂に終わり、カレー事件では、殺意がなかったにもかかわらず毒が適量だったために、類のない無差別殺人になってしまったのではないだろうか。
 もっとも、この程度のことなら、当然、検察側も気づいているはずである。しかし、この解釈を持ち出すと、傷害致死罪として軽い刑にしかならないため、「明確ではない殺意」があったとして最後まで殺人罪で押すしかないのだろう。(5月9日)

  子供の虚言癖にどのように対処すべきかは、一概に結論が出せない難しい問題である。幼稚園児が「きのうアフリカまで行って来た」とニコニコ顔で語るのは、空想を楽しんでいるだけなので目くじらを立てることはあるまい。ただし、その背後には、充分に親にかまってもらえないなど心の寂しさが潜んでいることがあり、場合によっては、親に対してカウンセリングを試みる必要がある。自分の行為に関して叱責されそうなときに「やっていない」と嘘をつくのも、通常の子供にありがちなことで、嘘を見破っても頭ごなしに叱りつけるのではなく、大人は子供が想像する以上にいろいろなことを知っており、生半可な言い訳をしても甲斐ないことを実感させるのが良いだろう。その一方で、他人に罪をなすりつけたり、わざと困らせたりする嘘は、子供とはいえ明白な悪意に依るものであり、厳しく叱らねばならない。子供に対しては、表面に現れた行為よりも動機を見通す目が常に重要であり、親としても、それなりの修行が必要となる。(5月13日)

  昨日の深夜、NHK教育で放映(再放送)された『モリー先生最後の対話』は、人間の尊厳をわれわれ凡愚の徒に教えてくれる優れた番組だった。社会学者のモリー・シュウォルツ氏は、難病の筋萎縮性側索硬化症に侵され、医者から余命数年と宣告される。しかし、絶望することも自暴自棄になることもなく、死に直面するという新たな人生体験を、若い人たちと語り合おうと決意する。こうして、かつての教え子たちを相手にした週1回の授業で、最後の瞬間まで尊厳とユーモアをもって人に接し、「生きる意味」についての自分の考えを淡々と語り聞かしていく。
 教え子の一人が、間もなく死ぬことは不幸ではないかと問いかけたのに対し て、モリー先生は答える。「死とは、悲しいことの1つにすぎない。不幸とは違う。世の中には、不幸な人が沢山いる」
 「なぜでしょう?」
 「1つには、われわれの文化が、人に満ち足りた気持ちを与えないということがある。文化が役に立たないのなら、自分の文化を創ることだ。多くの人は、それができない」
 肉体が衰え、自力で食事を取れなくなり、車椅子生活を余儀なくされるようになってからも、彼は、冗談を言ったりおどけたジェスチャーをしたりして、周りを笑わせていた。「どんな状況に陥っても、人生を楽しむことはできる。人間である以上は」…これが、モリー先生最後の教えだった。
 死に至る過程もかけがえのない体験であり、貴重な人生の1ページである──最後の瞬間まで、実感をもってそう思えるような生き方をしたいものだ。(5月15日)

  不況の深刻化とともに、ホームレスの数も増えている。統計的には、日本のホームレスのホームレスは1万人強とアメリカの10分の1に過ぎず、圧倒的な彼我の差があるように見える。しかし、ニューヨークやパリでホームレスが目立つのは、彼らが繁華街で積極的に動き回っているためで、絶対数ではむしろ日本の方が上だと主張する者もいて、実態は必ずしも明らかにされていない。また、欧米の統計が、簡易宿泊所の居住者、知人宅で暮らす居候、さらに、成人しても親元で暮らす若者の一部をホームレスにカウントしていることを考えると、日本におけるホームレスの実数は、統計の数倍に評価しなければならないのかもしれない。さらに、福祉の進んでいる国では、彼らに積極的に住居と職場を提供しており、家がないことに始まる悪循環を断ち切ろうという国家的努力が窺える。こうした点を省みると、日本は、無業者に対していかに酷薄な国であるかがわかる。(5月25日)

  小野不由美『屍鬼』は、不気味な傑作である。日本のムラ社会に異物が侵入したとき何が起きるかという問いかけは、これまで先鋭な小説家によって繰り返し発せられてきたが、小野は、その異物として“××”を設定することによって、自由なシミュレーションが可能な豊穣なる小説世界を構成できた。舞台となる外場という村は、いまだ土葬の風習が残り、千人あまりの住民は固い地縁で結ばれている。村の名家として尊敬されるのは、地主と医師、それに寺の住職だが、後二者は若い世代に代替わりして旧弊なムラ意識が希薄になっている。物語は、地主だった兼正家の当主が死に、その屋敷跡に外部から不思議な住人が移り住むところから始まる。この住人が実は××であると判明するのは、物語が半分ほど進んでからだが、むしろ、それまでのムラ社会の内部を描く部分の方が面白いと言えるほど、日本のムラ社会を見据える小野の眼差しは鋭い。ストーリー自体は、『ポーの一族』を日本に移植して人間の側から眺めたものになっているが、××以上に、人間の悲しい性(さが)が浮かび上がってくる。(6月2日)

  ソニーが発売した犬型ロボットAIBOは、25万円という価格にもかかわらず、限定3000台がわずか20分で売り切れたという。「あたかも動物のように感情をもって動き回る犬型ロボットが、半導体技術の急速な進歩でようやく実現できるようになった」──この宣伝惹句を見たとき、胸が詰まる思いがした中年男性は少なくないだろう。かつて少年たちの心をときめかせたアメリカのハードSF(ハインラインなど)や手塚治虫のマンガの中だけで語られた夢物語が、何と21世紀を待たずに現実のものになろうとしているのだ。AIBOは、首・足・尻尾・口が自律的に動くロボットで、18万画素のCCDカメラを使った視覚センサと、ステレオ・マイクロフォンを利用した聴覚センサを有し、外界の情報を元に動く。頭を撫でられると甘えたポーズをし、転ぶと足をバタつかせる。そのようにプログラムされていると言ってしまえばそれまでだが、まるで心を持っているようで見る者がつい感情移入をしてしまう。さらに、パフォーマキットも付属しており、ユーザが好みで動作パターンを入力し、あるコマンドでそれを実行させることも可能であり、自分好みの電子ペットとして育てられるようになっている。
 おそらく、今回発売されたものは一種のパイロット版で、これからユーザの感想や要望を元に設計を根本から見直し、生産ラインを整えた上で、数年後に廉価版を大量生産することだろう(その頃、この初号機はプレミアが付いて高値で売買されているはずだ)。今後の課題は、学習能力をどこまで高められるかである。もっとも、あまり高度なものを作ってしまうと、自分が育てたロボット犬のメモリが吹き飛んで白紙の状態に戻ったとき、“飼い主”がペットロス症候群に襲われないかという心配もあるが…(6月9日)

  最近大笑いした話。地球外の知的生命に人類の存在をアピールしようとする活動は、NASAを中心にいろいろと試みられているが、この5月にも、ウクライナの電波送信所から60光年彼方の太陽に似た恒星に向けて、40万ビットに上るメッセージが送信された。エイリアンにもわかるような記号を使って、太陽系の構成や地球の生物、数学や物理の知見などを解説したものだ──とここまでは気宇壮大な話だが、何とこのメッセージにエラーがあったとか。円の面積の公式(S=πr**2)を誤った記号列で表してしまったらしい。雑誌に掲載されたリプリントを見て気がついたオランダのゲーム・プログラマが計画責任者に連絡したが、送信直前でもう止めることができず、そのまま宇宙に向けて送られてしまったとのこと。間違いを発見したゲーム・プログラマいわく、" I'm afraid we might be judged as a sloppy species by the League of Galactic Civilizations." (Scienceより)(6月26日)

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©Nobuo YOSHIDA