【「徒然日記」目次に戻る】



  19世紀末に、ドイツの生物学者ヘッケルは、「個体発生は系統発生を繰り返す」と主張、学界に大きな影響を与えた。生物が生存競争による淘汰を通じて進化することは、すでに承認されていたが、こうした変化がどのような原因で生じるかは、ほとんど解明されていなかった。それだけに、進化における形態変化が個体の形態形成にそのままの形で反映されているという報告は、進化の動力因を考える上で、重要なデータになると思われた。ヘッケルが提出したのは、トカゲやニワトリ、ウサギ、ヒトなどの胎児が、いずれも発生初期に似たような形態を取っていることを示す観察図であり、そこには、相対的に巨大な頭部と眼、小さな前足の原型、丸まった尻尾など、多くの共通項が認められる。相互に類似した発生過程は、形態形成を実現する何らかの要因が、それぞれの動物でほぼ等しく作用することを示す証拠と見なされた。比較的近年まで高校生物の教科書にも採用されていたこの議論に疑念の眼差しが向けられるようになったのは、顕微鏡の技術が向上し、さまざまな動物の胎児を写した鮮明な写真が得られるようになってからである。それによると、ヘッケルが観察したのと同じ時期の胎児は、かなり異なっている。トカゲは尻尾が長く頭部が小さい。ニワトリの前足や眼も、ヒトやウサギのものとはあまり似ていない。少なくとも、ヘッケルが描いた観察図ほどには。どうやらヘッケルは、当時の解像力の乏しい顕微鏡を懸命に覗いているうちに、現実には存在しない光景を見てしまったらしい。自分の学説に対する自信は、しばしば科学の客観性をも脅かすようだ。(10月23日)

  ベトナム戦争当時の国防長官だったマクナマラが回顧録を著している。多くの功なり名遂げた政治家の自伝とは異なって、なぜ、世界最大の軍事大国が国力数十分の一のベトナムに敗れたかを、具体的な証言や客観的な資料を元に、現場にいた者だけが語り得る生々しい感想を交えながら論述しており、その迫力は類書の比ではない。特に興味深かったのは、ケネディとジョンソンという二人の大統領についての評価である。これまで、ケネディはベトナム戦線を拡大した張本人として指弾されることも多かったが、この回顧録では、情報不足の中でいくつかの可能性を模索している段階で凶弾に倒れたとされている。一方、ジョンソン大統領の場合、政策決定に必要な情報を公にしないまま担当者の考えを聞いて回るという性格のため、その真意を測りかねる場面も少なくなかったようだが、基本的には、北爆を通じて北ベトナムを短期間で屈服させることができると信じていたらしい。ベトナム戦争の悲劇は、情報不足や読み誤りが大きな要因になっていたというのが、マクナマラの主張である。特に、ベトナムで起きていたのが民族自立のための解放運動であるにもかかわらず、共産主義の拡大プロセスと誤解したことが重大な結果をもたらした。中国とソ連はすでに国境問題で仲違いをして一枚岩ではなく、また、パキスタンとの国境紛争に敗れた中国は、国内改革の運動へと内向化する傾向にあった。ところが、米高官はいずれも、中国のバックアップを受けた北ベトナムが軍事力を利用して南に侵略を計っており、ここで妥協することは、第二次大戦前にナチズムの侵略を容認したチェンバレンの愚を犯すことだと信じていた。この戦争に勝つためには数十万の米陸軍の投入が必要だという現場からの報告は、悲観主義として無視されたという。
 総じて自己弁護ととれる記述も少なくないが、他の資料と突き合わせながら読み解くと、アメリカ政府がいかなる意図を持って戦争を遂行したかが、かなり明らかになる。かつてベトナム反戦を口にした世代にとって必読の書であることは間違いない。(11月14日)

  村上春樹の『アンダーグラウンド』は、TVや新聞では伺い知れない現代日本の深淵を垣間見せてくれる傑作である。いささか突飛な言い方かもしれないが、この本は、是非海外で翻訳出版して欲しい。日本人が何を考えどのように生きているか、これほど如実に語りかける書物は、他にはない。オウム真理教の信徒が、教祖・麻原の指示に従って、霞ヶ関駅を通過する地下鉄車両5両にサリンを撒いたのは、1995年3月20日の朝である。海外では、狂信的なカルト集団が無差別テロを試みるケースが稀ではないが、日本のような比較的安全な無宗教国家でこうした事件が起きるとは、全くと言って良いほど予想外だった。しかも、満員の地下鉄で大量の毒ガスを散布するという無謀さ、中毒症状が現れてきているのに多くの乗客が無言で耐えていたという異様さは、現代日本以外ではほとんどあり得ないのではないか。村上春樹は、この「異常事態」の中で、人々が何を感じどのように行動したかを、緻密なインタビューを通じて明らかにしようとする。
 本書を通じて最も印象的なのは、「日常」というものの規範性の強さである。こうした事件を対岸の火事のように遠望するわれわれは、現場に居合わせた人の行動に不可解さを感じるかもしれない。ある人は、激しい頭痛におそわれ縮瞳を体験しながらも、這うようにして会社に出勤しようとする。また、ある人は、地下鉄のホームに倒れている3人の男女を目にしながら、「今日は貧血の人が多いな」と思っただけで立ち止まりもしない。これを都会の非情などと賢しらには言うまい。人間は、基本的に日常性の規範の中で判断し行動方針を決定する。日常性から完全に逸脱した事態を目にしても、それが何を意味するかを理解できないまま、日常への復帰を図ろうとする。そうした人間の特性が、本書に至る所に伺える。
 この事件の場合、はじめのうちは日常性からのズレがホンの僅かで、それが徐々に深刻な事態に拡大していくというプロセスを辿ったため、人々の注意を喚起しにくかったことも否めない。いつもは満員であるはずの車両がなぜか一部だけガラガラで、床には新聞紙の包みから漏れ出た水のようなものが拡がっている。車内では、なぜか咳をする人が多い。駅に到着すると、ふだんは(出口がホームの逆の端にあるため)あまり降車客がいないのに、その日に限って十数人が降りていく。ホームでオウムのような奇声を発して倒れる女性がいる。外に出ると、雲一つない好天なのに辺りが異常に暗い。こうした「ほんの5mm」ほど日常からずれた体験を重ねていくうちに、いつしかアンバランス・ゾーンに落ち込んでいく──というとTVドラマのようで不謹慎だが、そうした不可解な現実を体験した人々がいるのだ。
 市民がテロへの危機意識を持っていたり、不正に対する連帯感が強い国では、こうはならなかったろうと思われる出来事もいろいろある。アメリカならば、変な匂い──「甘い匂い」「良い匂いでない」「除光液のような」「言葉では説明できない」など、証言を集めてもイメージが湧かない──が充満し、大勢が一斉に咳をし始めると、ワイワイと大騒ぎになって原因を見つけようとするだろうが、無口な日本人は黙ってやり過ごそうとするばかりである。特に多量のサリンが撒かれた日比谷線の車内では、窓を開けようと声を掛け合う姿も見られたというが、丸の内線や千代田線では、黙って降車するだけだったという。
 事態がきわめて深刻になるにつれて、緊迫感はいや増しに高まる。『アンダーグラウンド』は、その間の状況を生々しく伝える。築地に到着した日比谷線の車掌は、「病人が一人倒れましたので…、いや…二人倒れた。あ、三人だ」と切羽詰まったアナウンスをしているし、小伝馬町の駅員は、中毒でフラフラになり助け出されようとしながらも、「いや、私はここに残らなければならない」と言ったという。救急車が到着しない中、被害者が互いに協力して通行車両を止め、重症者の搬送に当たらせたというエピソードも、日本の都会人が決して他人に無関心ではないことを示している。(12月1日)

  地球温暖化を巡って京都で国際会議が開かれているが、これに絡んでちょっと良い話を聞いた。大規模な会議の開催期間こそ稼ぎ時だとばかりにタクシーが会場周辺に集まるのだが、今回ばかりは客が乗ってこないという。会場に300台収容の駐車場を用意したものの、せいぜい50台ほどしか止まっていない。逆に盛況なのが、参加者にフリーパスが供与された地下鉄だとか。さすがは環境会議である。(12月10日)

【「徒然日記」目次に戻る】



©Nobuo YOSHIDA