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  笠井潔は、現在、最も先鋭な作品世界を構築している作家である。だが、彼は、その業績に見合うだけの評価を受けていない。なぜなら、読者を選ぶ作家だからだ。彼の作品は、本格ミステリとしての基本構造を保ちながら、同時に、その構造を第三者的な批評家のまなざしで見つめる視座を明確に提示している。このことが、作品を難解なものとし、見方によってはミステリとして破綻する契機にもなっているのだが、笠井自身は、表面的にストーリーを整えようとせず、ほとんど確信犯的に筆を進めている。
 例えば、『哲学者の密室』。プロットは、現在と過去に起きた密室殺人事件の謎を、いかにも天才らしい風貌を持つ名探偵と、いささか早とちり気味のアシスタントが追求するというあまりにも古典的なものだ。しかし、この分厚い著作を読み進む読者は、そうした古典的な筋立てを覆い隠す膨大な哲学講義に幻惑されてしまう。必ずしも哲学的思考に慣れていない読者に、なぜこれほどまで踏み込んだ論述の読破を強要するのか。フッサールとハイデガー(作中名はハルバッハ)の対立を軸とした現象学と実存主義を巡る議論は、ヴァンタイン流のペダントリーとは一線を画する。それは、皮相的な教養主義を越えた深い理解に裏打ちされており、哲学史の再点検といった趣を持つ。明らかに、作者は、この部分に最も力を傾注しており、作品全体の構想の起点となっている。
 古典的なミステリでは、犯人がいかにして密室を構成したかが解かれるべき謎となる。これに対して、『哲学者の密室』では、「ミステリ作家はなぜ密室を題材とするか」を謎として掲げ、それを解く方法論として哲学を持ち出すのだ。もっとも、密室を思想の現れと読み解くその解釈は、作品内世界に身を置く限り、いささか牽強付会に感じられよう。むしろ、ハイデガーの実存哲学に内在する本質的な閉塞性を、リアリティを否定してまで密室に固執するミステリ作家の特性に重ねて見つめる眼差しは、作品を文化的コンテクストに置いて解釈する批評家のものである。作中に横溢する哲学談義は、単なるペダントリーではなく、こうした解釈を正当化するために不可欠な確認作業であり、作中の事件に対してメタの立場から「密室の謎」を解こうとする真摯な姿勢の現れである。しかも、××を密室殺人の犯人に仕立てるという歴史ミステリの掟破りを犯し、思想への断罪までをも具現化している。
 驚くべきことに、『哲学者の密室』は、純然たるミステリとしても優れている。作品の発想だけを見ると、メタミステリと呼ばれてしかるべきかもしれない。だが、笠井の筆力は、ストーリー部分も充分に読み応えのある物語に仕上げており、密室トリックも水準に達している。批評家の眼差しを秘めた本格ミステリの傑作という評価が最も適当だろう。(4月7日)

  文化放送『吉田照美のやる気マンマン』で、あまりに可笑しいやり取りがあったので、メモしておく。小学生以下の子供がなぞなぞを出す──「鯛が4匹いる建物は何?」。吉田照美「モルグ(したい置き場)!」。小俣雅子「大鵬(タイフォー)部屋!」。正解は、大使館でした。(4月8日)

  宮崎駿は、現代日本を代表するアニメ作家だが、単にファンの間で人気を博するというだけではなく、映画や文学など、他分野の人からも高く評価される希有の存在である。宮崎作品が愛されるのは、透徹した社会観を持つプロットが受け入れられたという面もあるが、何よりも、細部に至るまで綿密に計算された演出が、押しつけがましさのない素直な感動を呼び覚ますためだろう。幸いなことに、きわめて能弁な宮崎氏は、数多いインタビューや講演で、その演出技法の一端を明らかにしている。中でも、1988年に行われた『となりのトトロ』を巡るインタビューは、アニメや映画を愛する者に、演出はどうあるべきかという範型を教えてくれる(宮崎駿著『出発点1979〜1996』(徳間書店))。
 例えば、サツキがバス停で父親の帰りを待つ間に、となりに現れたトトロに傘を貸すシーン。当初の案では、トトロは、貸してもらった傘を翌朝そっと玄関先に返しておき、お礼にドングリを置いていくことになっていた。しかし、この展開には無理がある。森の精でもあるトトロが雨を厭うわけがなく、したがって、傘を貸してもらったことに感謝するはずがない。それに、物品で恩返しをするのは、いかにも賢しらにすぎる(そもそも、トトロは一言も言葉を発しておらず、言語に惑わされない大らかな存在として描かれている)。そこで、宮崎氏は、トトロにとって傘は雨音を聞くための楽器になることにした。すてきな音が聴けて嬉しくなったトトロが、自分にもこんなに良い物があるとドングリを差し出したという次第である。こうして、話の流れがスムーズになり、トトロのキャラクターに一貫性が生じる。こうしたトトロの性格設定は、最後まで貫かれており、行方不明になったメイを見つけてもらいにサツキがトトロのもとを訪れたときも、トトロ自身が探しに行くのではなく、「そこにいるじゃないか」といった感じでネコバスを提供するのだ(宮崎氏に言わせれば、ネコバスとは、バスに興味を持った化け猫が、自分で化けてしまったものらしい)。
 こうした緻密な演出をする宮崎氏にとって、母親の退院が延期されたと聞いたときのサツキをどう描くかが、大変な悩みの種となった。はじめは、気落ちした様子で夕食の準備をしているという描写を設定してみたが、あまりに作り物めいている。自分が子供の頃、どうしようもなく落ち込んでしまったときにどうしたか。もはや忘却の淵に失われた記憶を辿っていくうちに、突然思い出したことがあった。そんなとき、自分は何もしなかったと。確かに、自分にはもはや動かしがたい運命の力で望まぬ結果に立ち至ったとき、子供は、完全な虚脱状態に陥ってしまう。大人ならば、頭でああしよう、こうしたらどうかなどと考えを巡らせるが、そうした弥縫策のない子供は、行為そのものを断念する。そうした発想に基づいて、宮崎氏は、それまで健気に家事をこなしてきたサツキが、洗濯物も取り込まずにコロンと寝ている姿を描いた。無理解な親なら、「こんなときに寝られて子供は楽で良い」と思うかもしれないが、子供にとって、これは正に最も危機的な状況なのである。宮崎氏自身、「(こうした子供の状況を)かぎつけることができたってことが、非常にうれしかったんです」と述べている。
 『となりのトトロ』を制作中、宮崎氏はスタッフと、「この物語は続編ができるんじゃないか」と話し合ったそうだ。成長したメイとサツキが、トトロに再会する物語。だが、作品が完成するや、これは決して続編を作ってはならない話だと悟ったという。メイもサツキも、母親を失うかもしれないという恐怖感の中で張りつめた人生を送っている。だからこそ、彼らはトトロに会うことができたのだ。母親が退院すれば、二人は日常性の中に帰っていく。あの田舎の家(宮崎氏によれば、結核患者の療養のために建てられた別荘だが、患者が死んだので廃屋になっていたもの)も、もはや物の怪を宿す館ではない。最後のタイトルバックで、サツキもメイも大勢の友達に囲まれて、ほとんど見分けがつかず、トトロとは完全に別の世界に生きている。その方が幸せな生き方なのであり、また、そうでなければならない。(4月13日)

  かつて日本中を震撼させた連続幼女殺害事件の犯人・宮崎勤に対して、東京地裁は死刑の判決を言い渡した。4人もの幼い命を奪ったばかりか、死体を陵辱した上に切り刻み、あまつさえ家族の元に遺体の一部と犯行声明文を送りつけるという類例を見ない猟奇的な犯罪だっただけに、多くの一般市民は、この量刑を当然のものと考えているようである。確かに、事件の残虐さを思えば、これほど死刑にふさわしい犯罪も稀であるし、宮崎被告自身、犯行を全面的に認めていて冤罪の可能性もないことから、しごく真っ当な判決だとも言える。しかし、今回の判決に至るプロセスを顧みると、そこには、犯罪に対する処罰という単純な図式を当てはめることの困難さをまざまざと見せつける諸々の因子が見いだされる。
 被告が犯行を認めていることもあって、今回の裁判で弁護側が争点としたのは、犯行時の宮崎勤の精神状態である。心神耗弱状態で犯された犯罪については罰を減じるという規定が刑法にあるため、弁護側としては、死刑を免れる唯一の手段として、精神分裂病など心神耗弱に陥る要素があったと主張するしかなかった。検察側も、犯行事実の立証よりは、宮崎勤が充分に責任能力を有していたことを示そうと努めた。このため、一審の裁判中に、3つの異なる精神鑑定書が提出されるという異例の事態になったのである。この3通の鑑定書こそ、宮崎事件の特質を最も象徴的に表すものである。
 最初の鑑定は、検察側の依頼によって6人の専門家による合同作業として行われた。ここでは、宮崎との対面調査のみならず、すでに提出されていた検察調書が最大限に活用された。一般に、検察調書は、容疑者が実際に喋ったとおりではなく、検察官が論理的に整理し直して記述してあり、明確さが増す反面、容疑者の見解が歪められて記載される危険性がある。この事件の調書には、宮崎が犯行を重ねる過程が、そのときの心理内容も含めて詳細に記述されており、これを読む限りでは、自分が何をしているかを明確に意識していたことが明瞭になる。特に、自分が映らないように遺体のビデオ撮影をしたり、捜査の攪乱を狙って今田勇子名で犯行声明を送りつけるなど、逮捕を逃れるために画策しているさまが描かれ、犯罪の重大性についての自覚と処罰への怖れが伺われる。ただし、そうした内容を文言通り受け取って良いのか、疑問も残る。聞き取り中に検察官が誘導したのではないかという疑念が払拭できないからである。検察調書に依拠する精神鑑定に、全面的な信頼を置くことには、いささかためらいを感じざるを得ない。
 当然のことながら、弁護側は鑑定のやり直しを請求したが、その結果は、2つのやや異なる内容のものとなった。1つは、宮崎は犯行時に精神分裂症を発症していたが、責任能力はほぼ保たれていたというもの。もう1つは、宮崎は多重人格者で、責任能力が制限されていたというものである。精神分裂病の境界症例として多重人格症が見られることもあるので、この2通の鑑定書は必ずしも矛盾するものではないが、責任能力の多寡という(死刑か無期懲役かを決める最も重要なポイントで)意見が分かれたところに、割り切れなさが残る。
 後から出された2通の鑑定書は、いずれも長期にわたる拘禁中の宮崎に対する対面調査を主とするものなので、拘禁反応による妄想傾向を過大に評価したものと解釈することができる。新聞などで報道され話題になった「ネズミ人間」なども、検察調書にはなく、拘禁中の妄想と見なすのが妥当である。精神科医は、妄想傾向のある患者に向き合ったとき、まず精神分裂病を疑うのが常なので、そうした鑑定が出てきたとしても不思議はない。もう1つの鑑定書も、妄想はあるが分裂病が認められないため、症状を強調する記述になったのだろうが、学界でも定説のない多重人格症を責任能力低減の根拠とするのは、あまりに説得力に欠ける。裁判官がこの2つの鑑定を退けたことは、それなりの見識と言えるが、さりとて第1の鑑定書を全面的に支持できるわけではない。そもそも、責任能力とは何であるかを、根本から考え直さなければなるまい。(4月20日)

  巨人が最下位に低迷している。私自身は巨人ファンだが、この状態には、実はホッとさせられるところがある。昨年、巨人は日本一こそ逃したものの、後半の驚異的な追い上げでリーグ優勝を遂げている。一時は広島に11.5ゲーム差をつけられる絶望的な状況からの逆転だっただけに、やればできるという自信を選手たちに植え付けたに相違ない。さらに、日本シリーズでは惨敗し、来年こそはという悔しい思いを与えたはずだ。自信と悔しさ──この2つこそ、若手を伸ばす最高の肥料である。特に、清水や仁志のような有望な若手を育てる絶好の機会である。ところが、巨人のフロントは何を考えたのか、ルイス、ヒルマン、清原といったロートル選手を大量に入団させてしまった。これでは、去年のリーグ優勝はフロックであり、若手には期待できないと断言するようなものである。巨人はえぬきの選手たちが腐るのも当然だ。しかも、新入団選手の選び方が悪い。強健で何度も危機を救ったマックが退団して外野のポジションに穴が空いたのに、入団させたのは、若手が熾烈なポジション争いをしている内野ばかり。それも、3塁に守備のお粗末なルイスを持ってくるという奇怪さだ。昨年までいた落合は、外様とはいえ、球界最高のバッターとして若手のリーダーたり得た。ところが、落合と入れ替わりに入団した清原は、チームに溶け込めずに孤立し、自身のフォームも崩れて2割前後の打率で地を這っている。巨人のフロントは本当に巨人軍を愛しているのか。実は、ヤクルトあたりの工作員が潜入しているのではないかと勘ぐってしまう。(5月7日)

  大学の改革が叫ばれているが、なかなか効果が上がらない。何よりも障害になるのは、社会が大学に対してさして期待していないという点である。企業としては、社内研修を通じて新入社員を教育する方が、特定の業務を遂行する上で必要な能力を効率的に高めていけるのであって、大学におけるアカデミックな教育は、むしろ学生によけいな知識を与えてしまう「大きなお世話」なのである。アメリカでは、大学教育が役に立ったと考える卒業生が8割以上を占めるのに対して、日本で同様の回答を寄せるのは、理系でも6割に満たない──という情けないデータもある。大学側も、社会に出て直ちに「役に立つ」教育か、応用を志向せずに基礎を叩き込むかの選択を考えなければならない状況に置かれているが、教授ポストの多くを「学者バカ(あるいはバカ学者)」が占める現状では、おいそれと実践的な教育に踏み出せない。こうした行き詰まりを打開する一つの方策として提案したいのが、社会人聴講生制度の拡充である。現在でも聴講生は認められているが、あくまで個人としての参加であり、受講した成果が社会に還元されているとは言い難い。これを改めて、企業が積極的に聴講生を送り出せるような制度を形作っていくことが必要である。具体的には、週1回程度の出席で特定のコースが修得できるようにカリキュラム編成を行って、例えば、月曜日に大学に行けば金融経済論に関係するさまざまな科目が受講できる、火曜日なら労働法関連の科目がマスターできる──というようにしておく。もちろん、そのようなコースが開講されていることを関連企業にアナウンスする。こうすれば、その分野に知識のある社員を必要とする企業が、当該曜日を研修日として社員を送り出すことができる。一方、大学側も、社会に有用な専門知識を求める学生が入ってくるだけに、いい加減な対応はできず、授業内容の向上も期待できる。また、単位の授与も、企業での査定を左右する重要な責務となるだけに、慎重にならざるを得ない。あるいは、文部省のいう「単位」とは別の形で、大学独自の認定証を与えることも可能だろう。このやり方は、カリキュラム編成の制約となるため、大学としても簡単に実施できるもので花kが、大学改革の一つの選択肢として検討に値すると考える。(6月18日)

  日経新聞が、最近の「若者流グルメ」に見られる奇妙な傾向を取材している。若い世代の食生活が、年輩者から見ていささか常軌を逸しているという主張は、これまでにもたびたび聞かれたが、それらは、味覚の貧困化という観点から一括して論じることができた。ところが、今回日経が取り上げたケースは、もしかしたら味覚が新人類風に進化したのかもしれないと思わせるところがあり、単純に結論づけられない。例えば、ここ20年ほどの傾向としてはっきり現れているのが、醤油の消費量の減少と、それに反比例するがごときマヨネーズ消費の伸びである。しかも、食卓用のマヨネーズが好まれているだけではなく、マヨネーズ味のスナックやツナマヨネーズのおにぎりが売れているというのだ。月刊情報誌『ハラペーニョ』に寄せられるアイデア創作料理のレシピには、スパゲティチョコソースやワイン茶漬けなど、大人には試食もできないようなものが少なくないと言う。これまでの既成概念を打ち破る斬新な料理として前向きに評価する意見もあるが、やはり、不気味に感じるのが素直ではないかと思う。そもそも味覚とは、一部は先天的に規定されているものの、大半は、食餌と身体応答の相関を通じて培われていくものである。口内炎のときにビタミンBの豊富な緑黄色野菜を食べると回復する──そういった体験を積み重ねていった結果として、ある体調のときには特定の食べ物をおいしいと感じるような味覚が発達していくのだ。ところが、最近の若者は、病気は薬で治そうとするので、そうした味覚の発育が充分になされず、濃い味付けをおいしいと感じる子供の味覚がそのまま残ってしまったようだ。(6月22日)

  地方の活性化が叫ばれて久しいが、最近のニュースを見ると、やれ新幹線だ万博だオリンピックだと、高度成長期の見果てぬ夢をわがふるさとにも──といった「チエ抜きヒト抜きカネ頼み」の計画ばかりが目に付いてしまう。1960年代には、日本国内に生産性の高い産業があり、その利益の上前をはねる形で公共工事にカネをつぎ込んでハコものを作っていくことが可能だったが、現在のように成長産業が皆無に近い状況では、生産性の低い公共工事を行えば行うほど日本が貧しくなっていく。バブル崩壊の経験を生かして、地道に地場産業を活性化させる方向で努力してほしいのだが、人間というもの、一度楽して儲けた経験を積むと、もう他の方法は目に入らないらしい。
 そう思っているうちに、なんと、愛知県瀬戸市での2005年万博開催は本決まりになってしまった。大阪万博のときは、用地の整備や交通機関の開通が突貫工事で進められ、トータルで3兆円を超す経済波及効果があったと言われるが、それとて打ち出の小槌が生み出してくれるはずもなく、他産業の上がりを回したにすぎない。近年は、博覧会となるとイベンターが先回りして手はずを整えてしまい、一応の形は整っているものの全く新しいソフトの開発などは望むべくもないという状況である。大阪万博が、多くの新進デザイナーや建築家に躍進の機会を与えたのとは対照的だ。21世紀のライフスタイルを提案する場にでもなれば、それなりの意義もあるのかもしれないが、鬱蒼とした森林を切り開いてパビリオンを建設するという青写真を見せられると、業者任せの遊戯施設ばかり集まった金捨て場になるのではないかという危惧を抱かざるを得ない。こんな不況のさなか、日本はまた1つ、疫病神を背負い込んでしまったようだ。(6月25日)

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©Nobuo YOSHIDA