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  民法を改正して夫婦別姓を認めるべきだという声が強い。長年慣れ親しんできた姓に対する思い入れの深さを考えれば、結婚に際してその変更を強制するのは、人格権の侵害に当たる。社会的に相当な地位にある人の場合、急に姓が変わることによる不都合も多々あるだろう。しかし、その一方で、同じ姓の下で家族が暮らすことのメリットも、また否定しがたい。私は、基本的には別姓賛成派ではあるが、この主張を強くプッシュしようとは思わない。わざわざ制度的に別姓を認めなくても、初めから入籍しないという手があるからだ。そもそも結婚とは、新たな家族単位の成立を社会的に認めるための制度であり、政治が容喙すべきものではない。結婚による家族の形成を社会が歓迎する証左として、配偶者控除などの法的制度が整備されてはいるものの、経済上の優遇措置を定めたこれらの制度は、多くの場合、夫が外で働き妻が家庭を守るという明治時代にできあがった旧態依然たるシステム(江戸時代には女性はもっと働いていたことを思い起こされたい)を前提としており、妻が夫と同程度の収入を得ている現代的な家庭では、その恩恵に与れないことが多い。とすれば、結婚したからと言って否応なく入籍して法的庇護を求める必要はなく、社会的に結婚を宣言するだけで充分ではなかろうか。戸籍制度は、元来、民衆を管理するための行政上のシステムであり、社会的な結婚制度の威を借りて、かろうじて維持されているにすぎない。自覚を持った市民は、こうした行政府を助けるだけの制度を、いつまでも甘受すべきではないだろう。(7月5日)

  夏になると上着が手放せない──冗談ではなく、これが東京の現実である。冷房の適温に関してはいくつかの考え方があるが、外気温との差が4〜5℃程度が適切ではないかと思われる。それ以上になると、急激な温度差に身体が適応できず、自律神経の失調を招来しやすい。人間の場合、もともと熱帯地方で進化したこともあって、30℃以下なら別に冷房しなくても平常通りの生活を難なく営める。オフィスや電車内のような締め切った環境では、人体から発せられる熱が室内に籠もりやすく、これにOA機器による発熱が加わるときわめて鬱陶しいが、それでも、温度設定を28℃にしておけば、サーモスタットの機能で充分に快適な温度が維持されるはずである。ところが、現実には、寒さを感じさせるほど強く冷房を働かせている所が少なくない。電車などの公的空間からレストランなどのサービス空間に至るまで、24℃前後の強すぎる冷房が幅を利かせている。中には、商業的戦略から設定温度を低くしているケースもあろう。喫茶店やファーストフード店の場合、充分すぎるほど温度を下げておいた方が、炎天下を歩いてきた人の呼び水になり、しかも、寒すぎて長居できないので、客の回転が良くなる。だが、映画館やデパートのように、ある程度は客を停留させておかなければならない場所まで強冷状態にしているのは、何故なのか。営業で外回りをしているサラリーマンのように、熱中症を防ぐために強い冷房を身体が欲している人もいるが、彼らのためには専用の強冷ルームを用意してやれば良い。幼児や老人など社会的発言力が弱い人々が人為的な寒波の犠牲になるのは、悲しいことである。(7月17日)

  アトランタ・オリンピックについて一言。TVでは、日本競泳陣の不振に対して嘆き節が繰り返されている。下馬評では、女子五輪史上最強チームとされ、数個のメダルが獲れると言われていたが、リーダー格の千葉すずが敗れてからは、精神的な脆さが現れてしまったようだ。バタフライや平泳ぎなどで決勝に進出するのがやっとで、メダルには全く手が届かない。終わってみれば、金どころか12年ぶりに競泳のメダル零個という“惨敗”だった──というのがマスコミの口調だが、果たしてその通りだろうか。実力以上に囃し立てて前人気を煽り、視聴率や販売部数を伸ばそうという魂胆はなかったのか。海外のスポーツマスコミによれば、日本の金メダル候補として田村亮子一人の名を挙げ、フロックを含めても金メダルは4〜5個だろうと予測している。競泳でメダル確実な選手は、はっきり言って一人もいなかったのである。確かに、バタフライの選手の中には、今期世界最高タイムを出している者もいた。だが、オリンピックのような大きな競技会がある場合、有力選手は、開催時期に体調がベストになるように調整してくるのであって、その直前に好成績を上げても決して自慢にならない。世界記録保持者ならともかく、日本記録をもってしても各国有力選手のベスト記録を遥かに下回るという現状では、もともとメダル獲得の可能性はそれほど高くなかったのである。さらに加えて言えば、12人(組)の入賞者を出したのは立派な成績であり、褒めるべきでこそあれ貶める要素などいささかもないのだ。帰国する選手たちを、拍手をもって迎えたいものである。(7月26日)

  NASAが火星の岩石から生命活動の痕跡を見いだしたと発表して大騒ぎになっている。
 地球以外に生命が存在することがはっきりした場合、その科学的・哲学的・宗教的意義は深甚である。地球上の生命体は、膜構造によって守られた高分子機能要素の働きによって、自己の体制維持と種の保存を実現している。しかも、使われる高分子は、全生物種にほぼ共通したタンパク質と核酸であり、SFにでてくるような鉱物生命が可能かどうかは、地球上にいる限り、ほとんど判定不能である。無機物から生命に至るルートがどれほどあるのか、タンパク質や核酸は生命に必須の素材なのか、生命発生の確率はどの程度か──こうした問題を議論するのに、これまではあまりに判断材料が乏しかった。ところが、地球以外の生命体のサンプルが1個でもあると、話は全く違ってくる。まず、生命発生の確率に関して、かなりはっきりしたことが言えるようになる。地球生物しかサンプルがない場合、たとえ、ある恒星系に生命が発生する確率が何兆分の1、いや、何京分の1であろうとも、そのわずかな確率によって発生した生命がわれわれであると解釈することが可能だった。しかし、地球の隣の星にも生命があったとすると、発生確率がそれほど小さいはずがない。太陽型恒星の周りを回る地球型惑星には、かなりの割合で生命が存在した/すると予想される。その中には、大型生物にまで進化を遂げたものが少なからずあるはずである。そうなると、この銀河系は生命に満ちあふれていることになるのだが…(8月7日)

  雨宮慶太が面白い。メインの仕事は子供向けの特撮ドラマだが、随所に彼独自の造形美が配され、見る者を魅了する。流派で言えば、ウィリアム・ギブソンの系列に連なるサイバーパンクに属するのだろう。肉体の生々しさと機械の無機質感を奇妙に合体させた偉業のクリーチャを画面で自在に操る点で、雨宮は塚本晋也と双璧をなす。だが、後者の関心が人間の実存そのものに向けられているのに対して、前者が目指すのは、画面の上で閉じた美的世界を具現することにあるようだ。このことは、クリーチャのみならず、さまざまなエフェクトの用い方からも伺える。例えば、場面転換において、雨宮は稚気溢れるアニメーションを活用する。また、生命の終焉のような深い意味を持つ情景を描写するときにも、風に舞う羽や空から降る花びらなど、別の作家なら赤面するような直喩的表現を嬉々として使う。こうした表現法は、造形世界を、それ自身が内に持つロジックによって構築しようという強い意志の現れと解される。(文芸坐オールナイト・雨宮慶太スペシャルを見て)(8月25日)

  大脳新皮質とは、予測を行う器官である。生物は、栄養摂取や生殖などの合目的的行動を発言するための遺伝的なプログラムを備えている。だが、個体の寿命が長期化し、季節変化を含むさまざまな状況の移り変わりに対応しなければならなくなると、これだけでは満足な結果が得られない。例えば、食物が周囲に豊富にあるとき、これを一気に食い尽くした方が良いか、一部を隠して少しずつ食べるべきか、あるいは、メイティングの相手が眼前にいるとき、直ちに交尾した方が良いか、それよりも中距離に見えている外敵から逃れるのを優先させるべきか──こうした状況に対して適切な判断を下すためには、膨大な情報を整理し、ある選択肢を選んだときに何が起こるかを予測する能力が必要になる。この能力を実践する器官として進化したのが、大脳新皮質と呼ばれる部分である。この器官に意識が生じるのは、リアルタイムでの処理過程が量的に過大になったことによる副次的効果であり、進化の必然とは言い難い。(9月9日)

  沖縄の痛みを人々に伝えたい。戦後の日本人は、沖縄にあまりに重い軛を掛けたまま、経済復興の享楽の中にそのことを忘れてしまったようだ。長らくアメリカの占領下にあったとはいえ、この健忘症は何とも不実ではないか。日本人に是非とも伝えたい。明るく豊かに見える沖縄の地を這う無念の声を。
 そもそも沖縄は、琉球王朝として日本からも中国からも距離を置いた独自の文化を形成していた。生産性の高い土地を有する沖縄の住民は、あえて外国へ進出を図る必要はなく、その関心は、豊かでゆとりある生活環境の実現に向けられた。南方系の作物に魚介類と豚肉を加えた料理は、当代最高の健康食として、栄養学的に高く評価されている。高音階を駆け巡る旋律が美しい歌謡や、共同体との一体感を醸す舞踊も、すさんだ現代人の心を癒してくれる。高音の気候に順応した建築、中国と日本の良い部分を取り入れた民芸品も、心に優しい。何よりも強調しなければならないのは、その徹底した平和主義である。沖縄には、数百年にわたって戦闘用の武器が全くなかった。単に外敵が侵入しなかったというだけではなく、住民の心が豊かで他者に胸襟を開いているからこそできることなのだ。この歴史的事実を、われわれは心に深く刻みつけるべきである。そして、このように平和で豊かな地域が日本の一部であることを、誇りに思わなければならない。アメリカにおけるハワイやアラスカ以上に、沖縄が日本に占める位置は重大である。
 にもかかわらず、日本人は、この平和を愛する人々の地を戦場にしてしまった。太平洋戦争末期における沖縄は、米軍が日本の国内で演じた唯一の白兵戦であり、その悲惨さは、広島・長崎の原爆や東京大空襲に匹敵する。単に住民が戦争に巻き込まれただけでなく、日本の軍人とともに突撃させられたり、自決を余儀なくされたりした。これほどの悲劇を体験した上に、沖縄は米国の占領下に置かれ、戦後は東南アジアに睨みを利かせる軍事基地としての役割を果たした。何よりも平和を愛する人々の土地で、この蛮行がなされている間、自分が何をしていたかを、日本人は自問してほしい。(9月12日)

  私は宮本武蔵が嫌いだ。あの巌流島の決闘。約束の時間を違えるなど、武士にあるまじき行為である。遅延にいらついた佐々木小次郎のことを難じる者もいるが、正々堂々の真剣勝負を願っていた剣豪が、櫂を手にした武蔵の姿を目にして覇気を喪失するのは、むしろ当然である。私が小次郎だったら、こう言っただろう。「武蔵よ、大切な試合に遅参するとは情けない。おまえは不戦敗だ」と。えっ……、そんな小次郎の方が情けないだって?(9月9日)

  ふと興味に駆られて、「ラジオライフ」なる雑誌を購入してみたが、これが滅法面白い。業務無線などを傍受する方法が、事細かに説明されているが、と言って法律を踏みにじる意図はさらさらなく、むしろ公共物であるはずの電波をもっと身近なものにしようとする姿勢に貫かれている。中でも気を引いたのが、コンサート会場から漏れてくる電波。近頃は、ワイヤレスマイクを使うケースが大半なので、どうしても会場の外に微弱な電波がこぼれてしまう。これを適当な受信機で傍受すれば、バックバンドの演奏などとミックスされてしまう会場内部よりも、生々しい地の声が聞けるという。もちろん、これを録音して頒布すれば著作権法に抵触するが、自分で楽しむ分には何の差し障りもない。蒲焼き屋から流れてくる匂いを往来で嗅ぐようなものである。ちなみに、携帯電話の傍受も違法ではないが、通話している人は電波を使用している実感がないので、モラルには反する。また、業務無線の場合、傍受によって知った内容を他人に知らせるのは、電波法の違反になる。(10月18日)

  ク・ナウカの野外劇で、一生に何度もないような体験をした。湯島聖堂の中庭でいよいよ芝居が始まるというとき、ポツリポツリと雨粒が…。舞台で龍神様に願掛けした人物に「それで時ならぬ雨が」と台詞が掛けられると、それを合図にしたかのように本降りになる。太鼓とフラッシュの効果には雷鳴と稲光が応え、ラストでは文字通り車軸を流す豪雨に。俳優も観客もずぶ濡れになる凄まじいステージになったが、逆に真に得をした気分でもあった。(ク・ナウカ公演『天守物語』を見て)(10月19日)

  門外漢は、しばしば座禅を悟りに至るための手段と錯覚する。雑事にかまけず世俗を忘れられる座禅を通じて、世界の真実相と対峙する──こうした見解は、単純でわかりやすいだけに、素人を惑わす。また、臨済宗のように、公案を課して座禅の際に宗教的な思弁を巡らせることを良しとする宗派は、座禅こそ修行の最も重要なステップだと見なすことになりがちである。しかし、これはきわめて危険な考え方である。確かに、じっと座っていると、時折、全ての雑念が洗い流され、心が澄み渡り、自己と宇宙が一体化するような境地に達することがある。だが、これは所謂“魔境”であり、悟りとは程遠い。大脳生理学的には、動的な活動がないまま過緊張状態が続いたため、神経ペプチドが分泌されて心身を弛緩させようとした結果である。この種の偽りの悟りに惑わされると、宗教は、法悦の境地を求める邪道に堕す。禅宗での修行の場は、日常生活全てであって、決して脳内麻薬がもたらすような法悦感溢れるものではない。座禅は、日常における生活規範の体得の場であり、言わば心身のゼンマイを巻く行為である。座禅を通じて体得した精神統一の方法を応用しながら、食事のときも排泄のときも勉強のときも就寝のときも、世界のあり方に心を配り、自己とは何かを感得するように実践する──これが禅宗の目指すところである。こうして得られる悟りは、決して陶酔感を伴うものではなく、むしろ、世界が透明に見えてくるような玲瓏感を生み出す。しかも、それが到達点ではない。世界を見ながら何を行うかが、次なる課題となるからだ。(10月27日)

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©Nobuo YOSHIDA