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  推理作家の若竹七海が面白い謎を提供している。彼女自身に体験に基づくらしい謎とは、──「書店のレジ係をしていた私の前に、月末ごとに奇妙な男が現れる。外見は何ら変哲のない中年男性だが、かなり慌てた様子でレジに直行すると、50円硬貨20枚を差し出して千円札に両替するよう頼むのである。50円硬貨という必ずしも使用頻度の高くない貨幣を、毎月なぜ20枚も持ってくるのか。しかも、他の店ではなく書店のレジに両替を依頼するのか」
 きわめて日常的なだけに解釈を案出するのが難しかったのか、鮎川哲也の下に集まる若手推理作家の俊英たちも、解答編となる原稿を執筆できなかったようだ。そこで、私なりに考えてみると…
 謎の本質は、毎月20枚もの50円硬貨をどうやって集めるかである。最も簡単な解答は、ウィークデイにいつも950円の商品を千円札で買うというものだ。例えば、会社の昼食が決まって950円のランチだとすると、月に20回50円のお釣りをもらうことになる。しかし、これではあまりに当たり前すぎるので、もう少しひねった解釈を考えよう。
 50円硬貨固有の特徴は何か。かつてこの硬貨はニッケルを主成分としており、磁石にくっつく唯一の貨幣だった。したがって、強力な磁石で賽銭泥棒を試みると、うまい具合に50円ばかり集まるはずである。磁石の能力がちょうど20枚を吸引できるものだとすれば、一応辻褄はあうだろう。ただし、残念ながら、現行の50円硬貨はニッケル含有量が少ないので、この仮説通りにはいかない。
 次に思いつく50円硬貨の特徴は、穴が開いているという点だ。アマゾン川には、穴と見ればもぐり込んでいくウナギが生息しているそうだが、そんな習性のある虫でもいれば、硬貨の穴に次々と糸を通していくことができるかもしれない。ちょうど20枚くぐると、力つきてしまう非力な虫が…
 目先を変えて、50円硬貨が集まる場所を考えたい。50円の商品を扱う自動販売機というのもわざとらしい。トレビの泉に倣って、日本でもきれいな噴水があると硬貨を投げ込む人がいるが、なぜか穴のある5円か50円が好まれる。そこで夜陰に乗じて泉の底から金をかき集めてくると、結構な量になるのではないか。このほかにも、大蔵省造幣局50円担当者がくすねていたとか、50円玉好きの偽造団のメンバーだったとか、想像の種は尽きない。
 もう一つの謎は、なぜ書店に両替に行くのかである。これも、書店のすぐそばにバス乗り場が存在する、他の店では断られてここだけが両替に応じてくれたといったありきたりの説明では詰まらない。本の背を見るとなぜか便意を催す人がいることと何か関係がないだろうか。書店の前を通ると反射的に硬貨のことが気になり出すとか…(10月3日)

  エリツィン大統領が来日し、細川首相と会談する。日本側には、領土問題について何らかの進展があるのではと期待する向きもあるが、大統領は、早くからこの問題を回避しようとする姿勢を見せており、日露双方にとって満足できる結果になるとは思えない。そもそも、わずか十日足らず前に、モスクワで反エリツィン派が不穏な動きを見せたのに対し、戦車まで出動させて半ば市街戦まがいの事態を生み出した大統領に、どれだけの指導力が備わっているというのか。いまだ外出禁止令が続くモスクワ市民の間では、かつてのヒーローを見つめる視線が次第に冷ややかになってきている。国内の反対勢力を抑えるためには、何とか日本との経済協力を実現させて有能さをアピールしなければならない。そんな時期に、これまで拡大政策を基調としてきた大ロシア主義を根本から覆すような意見を述べたとなると、確実に支持率は急低下するだろう。領土問題については、体よく言葉を濁しながら先送りすることになるはずである。(10月11日)

  合衆国下院は、SSC(超伝導超大型加速器)の建設を中止する決定を下した。テキサス州に作られる予定だったこの人類史上最大のマシンは、ヒッグズ粒子の発見を含むノーベル賞級の研究成果を確約するものだったが、100億ドルを遥かに超す途方もない建設費を必要とする金食い虫でもあった。さすがにアメリカ1国では巨額の費用をまかなえず、日本をはじめ諸外国に援助を求めており、日本政府も何とか千億円ほどの予算を捻出しようとしていた。これほどの資金が見返りの全くない純粋科学に投入されたケースは日本では皆無であり、僅かな科研費を奪い合っている研究者の不満を煽ることは必至だったが、今回の中止で内心ほくそ笑んだ人も少なくないだろう。もっとも、これをきっかけに基礎研究に振り向けられる予算の全般的な増額を画策していた人々にとっては、当てが外れた訳である。当事国のアメリカでは、日本以上に甚大な影響がある。既に建設された機械が無駄になる上に、このプロジェクトに参画を予定していた科学者の就職口がなくなるなど、大きな波紋を各方面に投げかけている。(11月4日)

  気功がどのような生理的メカニズムに依存しているかは、いまなお明らかでないが、議論を進める上で重要なポイントになるのが、気功の発現に大脳新皮質がどこまで関与しているかという点である。他者の気を受けるとき、人は、気配と呼ばれる総合的認知を利用する。例えば、手のひらに相手の気を感じるときには、視覚像とともに空気の揺らぎや体温による輻射の知覚を利用して、他者と自己との協調関係を実現する。したがって、常識的に考えれば、異種感覚を連合するために頭頂葉の機能が必須なはずである。しかし、気配を感じ取る能力は高等動物一般に備わっているとも考えられ、旧皮質での処理をベースにする本能的な機能と解釈するのも、また自然である。実際、気を利用した自律神経のコントロールは、脳幹の役割がかなり高いことを伺わせる。この方面での研究は、気を発したり受けているときの脳血流の変化を測定することによって、今後進展すると期待される。(11月9日)

  「象は鼻が長い」という文において、「象は」という句が主語なのか副詞句なのかという問題は、言語学者の間で論争の種になっている。だが、これは一種の pseud-problem ではないだろうか。日本語の文では、一般に副助詞“は”が付く句は副詞句と見なされる。「今日は良い天気だ」という文の場合、「良い天気だ」という状況提示の文を副詞句「今日は」が修飾している。「(九州では雨だが)東京は良い天気だ」も同様である。それでは、「今日は日曜だ」とか「東京は日本の首都だ」となるとどうか。これらは、“は”によって導かれる句を主語と考えざるを得ないので、表現型によって文法構造が定義できないという奇妙な結論が導かれてしまう。こうした論理の陥穽を避けるためには、そもそも副詞句や主語という概念を捨て去るべきであろう。すなわち、日本語は、語句を積み重ねる句構造によって文法を規定する言語であり、一意的に主語などを定義できるものではないのだ。冒頭の文も、「象は−{鼻が−長い}」という句構造を持っているとして解析すれば充分なのであって、何が主語であるかを指定する必要はないのである。(11月28日)

  言語における概念規定は、プラグマティクスの領域に属する。したがって、社会形態の異なる民族の間で、共約不能な言語表現が現れるのは、当然の帰結である。日本語と英語とでも、単にニュアンスが微妙に異なるというだけでなく、発想そのものの相違を示している語句がある。
 例えば、日本語の「諦める」と英語の "give up" 。前者が行動に移る前に企図そのものを放棄することを表すのに対して、後者は、努力しながらも、ある時点でやむを得ず打ち切るという意味が込められる。さらに言えば、「諦念」に相当する英単語も見あたらない。
 さらに、人物紹介の際に多用される「趣味」と同趣旨の表現も存在せず、「余暇」という特殊な時間帯を設けて個人的な楽しみに当てるという生活スタイルを、英米の人が採用していないこともわかる。ちなみに、英語の "hobby" は「竹馬」ないし「子馬」から転じた語で、ニュアンス的には「道楽」に近い。 "taste" は、味覚から転じて感覚的な好き嫌い(嗜好)を表す語で、「趣味に合う」という意味を表現するときには使えるが、「趣味」= "taste" という対応関係はない。英和辞書を引くと、この他にも "interest" が「趣味」の訳語として挙げられているが、これも語意が大きく食い違っている(ついでに言えば、「辞書を引く」という言い回しに該当する表現もなく、 "look up a word in a dictionary" と砕いて言わなければならない)。
 こうした例を挙げていくときりがなく、日常的思考法において、彼我の差がかなりあることを実感させる。ただし、こうした格差は、鎖国時代にはきわめて大きかったものの、明治期以降に急速に縮小している。この点については、文明開花の頃に新しく欧米から流入してきた諸概念に適当な訳語を案出した福沢諭吉ら先人の業績が大きい。 "society" なる語に対して「社会」という表現を当てるには、単に語学の素養だけでなく、元の概念が持っている意味連関についての理解力と、それに類似した漢語を見いだす古典の該博な知識が必要になる。ただし、 "economy" のように、日常性と学問性を同時に備えた語句については、やはり、いかんともしがたいものがある。「経世済民」という漢籍からの語句を借りて「経済」なる語を創り上げたものの、どうしても生硬さが拭えず、「経済的」という不思議なニュアンスを持つ表現を生む結果となった。(12月5日)

  誤植とは、校正のとき発見できず、初刷りの本を開いた瞬間に目に飛び込んで来るものである。(12月6日)

  エスカレータを利用するとき、歩いて上り下りする人のために片側を空けておくべきかどうかが、論争になっている。この習慣、実は欧米では既に一般化しており、日本人旅行者がうっかりエスカレータ上で立ち話などしていると、背後から傘の先で突っつかれたりするという。確かに、急ぎの用がある人のために通路を空けておくのは合理的で、大阪などのせわしない都市では通勤時間帯に自然発生的に実行されているそうである。
 ただし、この習慣を取り入れる前に、安全性の問題をチェックしておかなければならない。まず、エスカレータに振動が加わるため可動部分の劣化が加速されるのではないかという不安がある。以前、モスクワ駅構内でエスカレータの滑落事故があり、多くの死傷者を出したが、同様の事故の心配はないのだろうか。もちろん、日本のエスカレータの安全性には定評があり、動力伝達部も単純な歯車構造ではないので、滑落事故は起こりにくいが、急停止による将棋倒し事故の危険性は残る。また、エスカレータの耐用年数が短くなることも考えられる(通勤時間が若干短縮されることによる労働生産性の向上が、その損失をカバーするだろうか)。
 安全を保つ上で重要なポイントになるのが、人間の側の心がけである。エスカレータは、通常の階段よりも段差が大きく、上り下りに不便な構造になっている。建築基準法においても、階段としての使用が認められておらず、これを多くの人が歩くことには危険が伴うことを認識しなければならない。特に下りの場合は、曲げている方の足に体重が掛かるため、段差が大きいときわめて不安定な姿勢をとらざるを得ない。このような状態でエスカレータが急停止すると、前に投げ出されることは免れがたい。また、地下鉄などでは、電車が入線してきたときに多くの人が慌ただしくエスカレータを駆け下りてくるが、最後の段から固定された床に足を踏み出す際にどうしてもつんのめりがちになるため、そこで将棋倒しになることもある。男性はまだしも、タイトスカートにパンプスを着用した女性ともなると、身体の自由が利かず、危険なことこの上ない。こうした危険性があることを各人が自覚し、下りのときには手すりの上で手を滑らせるとか、両手に荷物を持っているときは敢えて歩かないといった自己防衛策を採ることが、エスカレータを利用する上での基本的なマナーとなる。(12月9日)

  奇妙なことに、笑顔は万国共通である。ノンバーバル・コミュニケーションは、多くの場合、民族ごとに異なっており、ある身振りが、地域によって挨拶にもなれば下品なサインになったりもする。ところが、表情は一般的に民族格差が小さく、怒った顔や悲しそうな顔は、異国の民でもかなりの程度まで識別できる。中でも笑顔は、どの民族でもほとんど同じで、唇の端を横に引っ張り、頬の筋肉を上に持ち上げ瞼の縁にしわを寄せる。声を出して笑う仕草には民族性が現れており、ハハハと大声を上げる民族もいれば、口元に手を当てて小さく笑う民族もいる。だが、顔が自然に示す喜びの表情には、あまり差がない。おそらく、ここには歴史的な理由があるのだろう。人類創成期において、他の部族が友好的かどうかを判断することは、生きる上できわめて重要である。このため、文化に依存しない友好表現が求められ、長期にわたる部族間交流を通じて、笑顔という形で遺伝的に定着したのではないか。
 最近の研究によると、眼の周りの筋肉を使った笑みを表すときに、脳の特定の部位が興奮することが判明している。“眼が笑う”ことの重要性には、生理的根拠があるようだ。(12月12日)

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©Nobuo YOSHIDA