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  NHKで放送された天才ザル・カンジの生態は、まさに驚くべきものである。チンパンジーに近いボノボと呼ばれる類人猿については、近年まであまり研究されておらず、その骨格や知能が原人並のレベルに達していると判明したのは、ここ数年のことである。直立に近い2足歩行をし、手を器用に操る巧みさも驚異的だが、それ以上に興奮させられたのは、人間の3〜4歳児に匹敵すると思われる言語能力の高さである。動物の中にも、概念やシグナルを利用するものがあり、類人猿ともなれば、特定の“表現”によって概念を表すことができる。ただし、この場合の“表現”は、あくまで既定の対象を指示するにとどまり、それ以上の頭語構造は持たないとされてきた。例えば、チンパンジーは、トラなどの外敵に遭遇したとき「ウー(トラだ!)」と叫んで危険を他の個体に知らせることはできても、同じ「ウー(トラ)」なる語を用いて「ウー・キー(トラは去った)」という文を構成するのは不可能だと言われる。このような文を作るためには、まずシンタックスとセマンティクスを分離して、意味とは独立の文法を実現しなければならない。こうした文法のうち、最も原初的なものには、(1)格の分化と述部の独立化;(2)統語論的な役割のみを果たす機能語(特に、否定詞(not))の派生;(3)統語論的な変形操作の導入──などがある。このうち、(1)と(2)に関しては、高度に訓練されたチンパンジーと人間とのコミュニケーションで観察されると言う報告もある。ところが、TVを見る限り、カンジは、この2つの特徴を有する言語を操るのみならず、(3)の実例である受動変形を行うだけの知的能力を備えている。すなわち、妹ザルに対してなされた「カンジの毛づくろいをしなさい」という文を横で聞いて、妹に自分の毛づくろいをするように手を取って導いたのである。こうした理解力は、これまでの常識を逸脱するものであり、類人猿の知能に関して、新たな光を投げかけてくれる。(NHKスペシャル『天才ザル・カンジ』を見て)(3月2日)

  ヴィクトル・エリセ監督の『マルメロの陽光』は、崇高な傑作である。この世界に招かれるのは、ごく少数の者だけだが、こうした“選ばれし者”は、至福の2時間を過ごすことができる。人間は、時間の中を通り過ぎていく。だが、時が流れても、確かに変わらぬものが存在する。マルメロの果実にきらめく陽光は、ほんの一瞬の美を垣間見せてくれるだけなのに、なぜか永遠の命を秘めていると感じられてならない。エリセは、寡黙な映像によって、その秘密をわれわれに示しているかのようだ。(4月12日)

  全米を震撼させたロサンゼルス暴動が勃発してからほぼ1年が経つが、そのきっかけとなったロドニー・キング氏殴打事件に対する新たな評決が下された。前回、ロス地裁で出された評決では、被告の警官4人のうち3人が無罪、1人が保留となったが、この“甘い”評決が黒人への人種差別の現れだとしてロス在住の黒人が激昂し、暴動へと発展した。ただし、ロサンゼルスはもともと失業率が高く、経済的に下層の市民による凶悪犯罪が多発していたので、評決自体は単なるトリガーにすぎず、差別反対を合言葉にしながら日頃のうっぷんを晴らしたという見方も多い。特に、暴動の鉾先が、同じ有色人種でありながら白人社会にうまく溶け込んでいる韓国系アメリカ人に向けられたことに、事態の複雑さを読みとることができる。ともあれ、キング氏殴打事件の被告に陪審員がどのような評決を下すのか、世界中が固唾を飲んで注目していたことは間違いない。
 この事件で興味深いのは、黒人の酔漢に4人の白人警官が暴行を加えたという経過そのものよりも、その現場を撮影したビデオがマスコミを通じて一般市民に多大な影響を与えた点である。日常茶飯事的なこのケースが、史上最悪とも言われる暴動の引き金になったのも、「大勢の白人にいじめられる黒人」なるステレオタイプ化されたイメージが大衆に対して強いメッセージとして作用したためであろう。その点で、ビデオを放映したTV局の姿勢も問われなければならないが、それ以上に重要なのは、このビデオが必ずしも事実そのものを知らせる役割を果たさなかったことである。映像を子細に検討すればわかることだが、キング氏に対して殴る蹴るの無法な暴行を加えていたのは、パウエルという巡査1人だけであり、取り押さえにかかっている他の2人は、足や肩を警棒で叩くなど、暴漢を連行するときのマニュアルに忠実に従っている(ただし、1度だけ蹴りを入れているが)。リーダー格の巡査部長は、脇に立ってこの状況を見ているだけである。一方、当のキング氏は、殴られてもあまり応えないかのごとく何度も起き直っており、麻薬を服用していたという証言に合致する振舞いを示している。つまり、4人の警官がかさにかかって弱い黒人に暴行を加えたとする見方は、社会的な通念に由来する誤解にすぎないのだ。多くの人が、現場の実写映像を見ながら、なおもこの誤解にとらわれたという事実は、人間の目の不確かさを改めて教えてくれる。
 さいわい、今回の評決は、明らかな暴行を加えたパウエル巡査と部下の暴行を見過ごした巡査部長に有罪を、他の2人に無罪を宣告するという妥当な内容であった。巨大な誤解が渦巻く中で、理性的な審判を下した陪審員に拍手を送りたい。(4月18日)

  黒澤明監督の新作『まあだだよ』は、芸術的評価を抜きに、その中に浸っていたくなるような秀作である。われわれは、この偉大な映画作家の作品をリアルタイムで鑑賞できることだけでも感謝しなければならないのだが、すでに80歳を越える日本映画界最高齢の監督の手から、かくも清々しい映像が作り出されたという事実に対して、ほとんど畏敬の念を禁じ得ない。それにしても、時間は残酷である。『乱』の完成のために再結集した黒澤組から、何人もの人が他界してクレジットから姿を消している。演出補佐を務めた本多猪四郎は、本作の完成を待っていたかのように鬼籍に入った。心ある映画ファンは、皆、ラストのタイトルバックに描かれる幻想的な雲の映像を見ながら涙したことだろう。(4月19日)

  かつて論理学は、哲学を支える基礎学問として絶大な信頼をかちえていた。古典的な論理学は、素命題に真偽値を割り当てたとき、論理演算を通じて構成される複合命題の真偽値がどうなるかを明らかにする。例えば、ある命題が真ならば、その対偶命題も常に真になるというように。しかし、こうした論理演算は、その作用を厳密に画定するため、種類がきわめて限られてしまい、日常的な言語表現の多様さに追随できなくなる。こうした欠点を解消する目的で、真/偽以外にも真偽関数の値を与える多値論理、あるいは、真偽値を(0,1)間の実数に拡大するファジー論理が考案された。また、可能性や信念を表す様相論理を考察する研究者もいる。しかし、こうした試みは、単純性をよしとしてきた論理学をいたずらに複雑にするだけで、大して益はない。かろうじてファジー論理だけが、特定の記号列に数値をアサインするという方式に拡張して、制御理論に応用することができる。
 有り体に言えば、論理学は19世紀にその使命を終え、20世紀哲学においては、情報科学がその地位を受け継いでいる。こんにちでは、論理チップの設計以外に論理学が応用できる領域はないだろう。(4月20日)

  講談社から刊行されている「アフタヌーン」は奇妙なマンガ雑誌である。同社のドル箱である「モーニング」に対して、より高い年齢層をターゲットとするややハイブロウな男性誌を目指したようだが、他の雑誌を吸収しながら巨大化し、実に1000ページを越す分厚い体裁になった。収録作品は40本以上となり、はっきり言って玉石混淆だが、きわめてハイレベルの作品もある。際だって優れているものとして、岩明均の『寄生獣』が挙げられるほか、花輪和一の『天水』、岡直裕の『なにわ慕情』なども大人の鑑賞に堪えられる佳作である。しかし、こうした“出来の良い”作品以上に興味深いのが、傑作なのか駄作なのかにわかに判定しがたいながら、何かマグマ的な不思議なエネルギーを感じさせる作品群である。絵柄が日本のマンガとは異質な中国製伝奇劇『深く美しきアジア』や不良少女の生態があまりにリアルすぎて薄気味悪い『鍍乱綺羅威挫阿』(すごいタイトル!)など、これまでのマンガの範疇を逸脱しかねない怪作である。私も、ときにヘキエキしながらこれらの作品に目を通している。もしかしたら、時代を10年ほど先取りした傑作の萌芽なのかもしれない。(4月25日)

  小説「ボマルツォ公の回想」は、最初にページを繙いてから読了するまで、実に9年の歳月を要した。決して詰まらなくて読み進められなかったわけではない。むしろ、体調の良い日を選んで、数ページずつ味読していったために、これほどの時間が掛かったのである。作品世界の拡がりも、速読を許さない巨大なスケールを示していた。著者ムヒカ=ライネスは、抜群の才能を持ったストーリーテラーである。ルネサンス期の光と影を時にリアルに、また時に抽象的な表現で描き出していく。その迫力は、いつしか活字を前にしていることを忘れてしまうほどだ。しかも、時間を超越しあらゆる時代に偏在する語り手ボマルツォの個性は、単なる作者の代弁者ではなく、血肉を持った存在として読む者を圧倒する。その力業は、まさに世紀の傑作と呼ぶに相応しい。(5月3日)

  西洋文明を日本が受け入れて百数十年、とうに消化吸収してしまったと思われる昨今だが、いまだに欧米の正統的な振舞いから見ると、いかにも滑稽な日本的ローカルルールがまかり通っているものがある。その好例が、日本流ノックの奇妙さだ。日本人が洋室に入ろうとするとき、扉を2回叩くのが通例になっているが、これはきわめて日本的なしきたりであって、欧米では滅多に見られない。映画などで描かれているように、一般的な欧米人は、4回ほど小刻みに素早くノックする。ノックの本来の役割が来訪を知らせるシグナルであることを考えれば、これはまことに自然な行為である。2回のノックでは、うっかり何かがぶつかったときの音と識別するのが難しいからだ。日本人が参考にしたのは、おそらく貴族の館などにおいて執事が行う儀礼ばったノックであろう。しかし、この荘重なノックが十全な役割を果たすためには、喧しい騒音を追放した静寂と、低音が豊かに反響する広い空間が必要である。日本家屋のように、木や布が多用されて音を吸収してしまう室内では、2回のノックだけで来意を伝えるのは、いささかの困難を伴う。(5月25日)

  政治家の汚職やテロリズムなど陰湿な事件が多い中で、久しぶりに笑えるニュースが報じられた。皇太子との結婚が10日後に迫った小和田雅子さんが、嫁入り道具として金沢の業者に1棹150万円程度の桐の洋服ダンスと整理ダンスを注文したところ、どういう手違いか金箔張りのタンスが3棹届けられたという。小和田家側は、質素を好む皇室にそぐわないとの理由で受け取りを拒否しているが、業者は困惑顔だとか。聞くところによると、この業者はタンスに金箔を張る技術を5年間研究し続け、漸く完成したところでタイミング良く小和田家からの注文を受けたので、相当張り切って制作したという。もちろん、一方的に金箔張りにしたわけではなく、一応は小和田家にお伺いを立てたのだが、人を介したために意志の疎通がうまくいかず、受領してもらえると思いこんでいたらしい。しかし、小和田家としても1棹1000万円もするというタンスをおいそれと受け取ることもできず、業者の方が引き取らざるを得ない状況のようだ。(5月31日)

  茶道の極意は、些事に永遠を見いだすことにある。形式に囚われた堕落した現代の家元は、利休に面と向かって茶を飲むことなど恥ずかしくてできないだろう。茶道が盛んになったのは戦国時代であり、それも、あくまで武将のたしなみとして行われていた。近年では若い女性の作法としてうわべだけが真似されているようだが、当時にあっては、生死をかけた営みだったのである。戦国武将ともなれば、君命で明日にも死地に赴かなければならなくなる。下手をすると、この世に未練を残したまま命を失うかもしれない。だが、そうした未練は、正当な世界認識の中で形成されたものだろうか。人の上に立つことを高く評価する価値観は、自然そのものの持つ途方もない奥深さを過小に見積もるものである。一輪の花にも世界を震撼させる美がある。この美を堪能できれば、たとえ明日死ぬことになっても、充実した人生だったと言えるのではないか。茶道とは、こうした価値観の下に、茶を飲むという文字通りの茶事=些事のうちに宇宙の法則を感じ取るための方法論である。利休が設計した茶室は、わずか3畳ほどの広さだが、心静かに観照すれば、そこに宇宙的拡がりが見えてくる。誰が焼いたともわからぬ粗末な茶碗にも、陶器制作に一生を賭けている作陶家の人生が映し出されてくる。利休が茶道具を異常な高値で購入したのは、そこに黄金などお呼びもつかぬ高貴さがあるからだ。秀吉は、黄金の茶室を造って利休的世界観を否定しようとしたが、かえって己の卑賤さをさらけ出してしまった。そのことを隠すために、彼は利休を殺さずにはいられなかったのである。死が実生活からあまりに遠ざかってしまった現代に、利休を受け継ぐ者がいないのは、ある意味で当然のことかもしれない。(6月3日)

  私は常に「科学哲学は可能か」という問いに頭を悩ませている。哲学とは、アリストテレスの謂うところの第1科学であり、個別科学が依って立つ思考の基本原理を集積したものでなければならない。さらに、「科学」哲学と限定することによって、そこで議論の対象となる個別科学が、科学的方法論に則ったモデル的理論科学であると主張する。こうした科学哲学のマニフェストは、私の著書に明確に掲げられ、思索の過程で常に回帰する足場となっていた。
 しかし、考えてみれば、科学的方法論を明確にした段階で、哲学の役割は完遂されたのではなかろうか。すべての個別科学に共通するのは、あくまで、モデルを援用し対抗学説の発展消長によって理論の正当化を図るという学問の“器”だけであり、そこに盛られる“食べ物”は、ディシプリンごとにはっきりと異なっている。学際的な交流が可能になるのは、何らかの具体的オブジェクトを共有するジャンルに限られ、それ以外の分野に属する学者が議論しても、実のある結果が生まれるとは期待できない。例えば、カオス現象という共通項を元にして、純粋数学と計算機科学と流体物理学が手を結ぶということはあり得るが、分子生物学者と地質学者が対話しても、一般的な好奇心以上の興味を相手の学問に示すとは想像しにくい。近年における最も広範な学際交流は、認知科学という名の下に行われた大同団結だが、これも「人間の思考をモデルとする情報処理」という明確なオブジェクトがあるからこそ可能なものだった。こうした共通の対象がないまま、一般的な第1科学について考えることは、そもそも学問的に全く無意味なのかもしれない。
 とは言え、もう始めてしまったライフワークである。どのように批判されようと、私は一生ドンキホーテとして風車小屋に突撃していく覚悟ができている。(6月15日)

  『許されざる者』は、イーストウッドが遂にこの境地に至ったかと感嘆させられる傑作である。“最後の西部劇”と自認するだけに、保安官やカウボーイ、気高い娼婦に賞金稼ぎのガンマンと、役の駒は見事なまでに揃っているのだが、同時に、西部劇の常識にきっぱり別れを告げる作品ともなっている。実際、ジョン・フォードやハワード・ホークスの作劇法では見まがいようもない善と悪の対立図式が、この作品では徹底的に否定されている。いたぶられる弱者と思われた女性が一転して陰惨な復讐鬼に変身するかと思えば、颯爽と登場したガンマンがあっさりとのされてしまう。そもそも、イーストウッドとハックマンのどちらが“正しい”のか。映画の基本図式をかくも否定しながら、それでいてラストの対決は、他に結末はあり得ないと思わせるほどのカタルシスを与える。これは、まさにドラマツルギーの革命とも言えるものだ。(6月17日)

  すみません、私はこれまで何度も見て見ぬ振りをするという罪を犯してきました。ここに、そのうちの2つを懺悔します。
【懺悔その1】とある宵の口、地下鉄丸の内線で雑誌を読んでいる私の隣に、若い女性が腰を下ろしました。ロングヘアのOL風のいでたちで、年の頃は20才をそう過ぎていないと思われます。勤めの疲れからか、席に着くと1分もしないうちにこっくりこっくりし始めました。バッグの上に置かれた手は驚くほど白く、血管が透けて見えています。つい見とれていると、その麗しい手に1匹の蚊が舞い降りて来るではありませんか。うっかり追い払ったりすると変に誤解されかねないと躊躇する私の目の前で、蚊はあたりを憚ることなく悠然と血を吸い始めました。以前から蚊が血を吸うところを実際に観察してみたいと思っていたこともあって、ついそのまま見続ける中、蚊はこれ以上にはなれないと思えるほど膨れ上がり、やがて重たげに飛び去っていきました。後には紅い斑点が…。
【懺悔その2】私は、生まれてこの方1度だけ、女性の後をつけてみたいと思ったことがあります。水道橋駅前で見かけたその女性は、スーツに身をかためて大股で颯爽と歩くバリバリのキャリアウーマンといった姿でしたが、なんとスカートのホックがはずれてチャックが大きく開いていました。彼女自身、何か変だと感じていたのか、時々腰の辺りに手をやるものの、事態の深刻さには一向に気づきません。次第にスカートがずり下がっていく美しい女性がその後どうなったかは、途中で行き先が分かれたために確認できませんでした。(6月20日)

  IQ(知能指数)は、一般の人に誤解されやすい概念であり、しばしば偏見や差別を生むきっかけになっている。こうした誤解を解くことは心理学者の責務だと思われるが、学問的には過去のものとなったこのテーマを掘り起こして非生産的な論争に巻き込まれることを畏れてか、なかなか取り上げる学者が現れない。
 IQを理解する上で重要なのが、これが所謂“頭の良さ”とは密接な相関を持っていないという点である。知能とはきわめて多面的な概念で、一元的な尺度で評価することはできない。図形のパターン認知1つを取ってみても、課題の設定の仕方で得点は大幅に変化する。ましてや、言語能力のような高次の知的営為ともなると、論理的読解力や情景把握などの課題ごとに、得手不得手の個人差が生じてくる。それだけに、単一の数値で個人の能力を評価することは、明らかに不可能である。にもかかわらず、ビネーによって1元的な能力評価の尺度が導入されたのは、これを、特殊学級に編入する生徒を選別するための道具として使おうという実用上の目的があったからである。実際、「長文の読解力は劣るが数学の計算能力は高く、芸術的情緒が豊かな一方で書取テストには落第点を取る」ような子供を普通学級に入れるかどうか、悩みだしたらキリがない。しかし、例えば、IQ80のラインで選別することに決めれば、教育現場のトラブルを抑え込みやすくなるだろう。しかも、子供を長期にわたって観察する必要がなく、業者による簡単なテストで線引きできるのだから、面倒を避けたがる管理者にとっては願ったり叶ったりである。もちろん、こうした目的で案出されたIQが、人間の知能を評価する基本的な尺度になるはずがない。
 IQ問題の第2のポイントは、この数値が環境によって大きく変動し、統計的な信憑性が乏しいことである。しばしば幼児向けの学習塾の謳い文句で「知能指数がグンと上がる」といったものが見受けられるが、IQ検査と似たペーパーテストを繰り返すことによってIQが30程度上昇することは、ごくふつうに見られる現象である。この手のペーパーテストは、早期教育を行う幼稚園や私立小学校で一般的に採用されているので、こうした学校に入学する率が高い階層のIQは平均より高い値になる。アメリカでユダヤ人や中国人のIQが高く、黒人やヒスパニックで低いというデータが報告され、社会的な論争になったこともあるが、この現象は、主に後天的な教育に起因するもので、民族の優劣に結びつくものではない。また、中国人の場合は、図形的パターンの組み合わせである漢字によって意味を指示する習慣があるため、パターン認識の能力が幼児期に高められていたとしても不思議はない。(6月25日)

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©Nobuo YOSHIDA