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  日本人は、欧米人に比べて、死体の損壊を恐れる伝統がある。この性向が最も如実に現れるのが、脳死体からの臓器移植である。識者は、日本で臓器移植が盛んにならない理由として、しばしば“脳死”が“死”として認められていないからだと主張するが、これは事実ではあるまい。アンケートを見ると、「本人に臓器を提供する意思があるなら摘出してもかまわない」と答える人の割合が、「脳死は人の死である」とする人を上回っており、「脳死が死とは思えないから臓器移植に反対だ」という単純な理屈ではないことを示している。むしろ、臓器提供の意思を明らかにしないまま死んでいく人が圧倒的多数を占める現状の中で、死体から無理矢理臓器を取っていくことのおぞましさに反感を覚えるのだと思われる。欧米的な発想に親しんでいる私などから見ると、どうせ燃やしてしまう死体なのだと感じられるのだが、日本においては、荼毘に付す段階で五体満足のまま成仏させてやりたいとする気持ちが支配的なようだ。だからこそ、飛行機事故などでバラバラになった死体の中から、懸命に親族の肉片を探して集めるのだろう。
 こうした“死体に対するこだわり”には、ケガレを忌避する神道の発想が潜んでいるのかもしれない。神道において、死体は最もケガレた存在である。ここでケガレとは、生きた者を冥界に引き込もうとする強烈なマイナスのエネルギーである。実際、直ちに腐敗菌が繁殖する死体は、不用意に触れたものに敗血症を引き起こし、あたかも死の世界へと道連れするかのように見える。“死”のケガレを畏れる人々は、これを仏教によって清めようと考え、弔いの儀式を行うまでは死体を完全な状態に保とうと腐心する。それだけに、死体を傷つけることは、ケガレを蔓延させる結果となり、生者に対する傷害以上の罪と見なされる。ましてや、死体からの臓器移植など、最もケガレた行為ということになるのだ。(1月3日)

  飴屋法水は、テクノロジーで現代を撃つ。その手法は、軟弱な論者が、テクノロジーに関する無知と無理解に基づいて生理的嫌悪を訴えているのと、正に対照的である。現代の恐怖は、テクノロジーが人間性をさしおいて飛翔していったことにあるのではない。むしろ、テクノロジーが、人間性そのものを、かつて知らなかった地点に押し上げ変質させていった事実に、目を向けるべきである。例えば、車を運転する者の自我が、車体にまで拡張され、走行を妨げるものに本能的とも言える嫌悪を感じるようになっている事実に。飴屋法水が注目するのは、テクノロジーが人間性を蚕食するという古典的な図式で説明できる現象ではなく、逆に、人間性とテクノロジーが融合して形成される新たな現実である。その鋭敏な批判精神は、サイバーパンクの病的な発想の限界を超克する。彼が中心となったテクノクラート個展では、人型の培地にカビやバクテリアを繁殖させることにより、テクノロジーと合体した人間性が醸す恐怖を具現化して見せる。こうした姿勢は、DNAやAIDSをジャルゴンとしてしか取り扱えない多くの心優しき現代人に、現実の本性を突きつけてやまない。(テクノクラート個展“DUTCH LIFE”(レントゲン芸術研究所)を見て)(1月5日)

  後催眠がきわめて多彩な効果をもたらすことは、心理学などの文献に記されているが、映像を通じてその実態を目の当たりにすると、改めて驚かずにはいられない。
 TVで放映された状況を信じるならば、催眠術を掛けられたタレントが、マイケル・ジャクソンばりに踊り出したり、チンパンジーの真似をしたりする。しかも、こうした奇矯な行動は、催眠中に現れるだけでなく、あらかじめ掛けておいた暗示に従って、覚醒後にも引き起こされ得る。例えば、「ある音楽のフレーズを耳にすると指揮を始める」と催眠中に指示されたニュースキャスターは、実際のワイドショーの中継中にいきなり立ち上がって指揮棒を振る仕草を始めてしまった。本人の言によれば、「指揮をしなければ」という気持ちが強く沸き上がり、羞恥心や世間体への配慮など雲散霧消してしまうそうだ。このケースでは、本人に後催眠を施されたという自覚があるため、番組を成功させようとする無意識的な配慮が作用していた可能性もある。しかし、被験者に知らせないまま特定の行動──大根を生でかじらせるといった──をとらせたり、指定された単語を発話できなくさせるなど、本人の意志が後押ししているとは考えにくいケースも多々ある。このような事例は、人間の意志の自由性に関して疑義をもたらす。
 人間は、ルーティンとなっている行動に対しては、思考経路を簡略化して、ゆらぎに起因する逸脱を防いでいる。実際、毎朝会社に出勤しようとしているサラリーマンをつかまえて、「あなたはなぜ出社しようとするのか」と問い詰めても、後付けの合理化以上の解答は得られないはずである。日常行為を内省すれば明らかになるように、われわれは、決して論理的思考の上に合目的的行為を遂行しているわけではなく、大半の思考をショートカットしてルーティン・ワークをこなしているのである。催眠術による作為思考は、簡略化された思考回路を暗示によって形成した結果だと推定される。ただし、生理学的に催眠術の効果を解明することは、現時点ではほとんど不可能である。なるほど、1回限りの事象に関する長期記憶が成立することから想像されるように、学習を通じてのシナプス増強はごく短期間で達成されるものであり、催眠過程において特定の回路ができあがると考えてもおかしくないかもしれない。しかし、催眠術で与えられる命令は、ほとんどが言語による指令であるため、言語中枢での処理を受けることになり、単純な視覚像の持続とは性質を異にしている。催眠術の効果を説明するためには、言語化された指令を神経回路に組み込む機能があらかじめ与えられていると考えるのが妥当である。動物には、特定の行動を解発するリリーサに関する情報をインプリントする機能が備わっており、本能的な行動をスムーズに遂行できるようになっている。例えば、アヒルのヒヨコは、初めて目にする「動く物体」を親として認知し、その後に従って歩くようになる生得的メカニズムがある。このような刷り込み機構は、当然人間にも備わっているはずだが、行動パターンがきわめて複雑なため、アヒルのように印象的な現象にはなりにくい。後催眠の効果は、もしかしたら、この種の刷り込み機構が人間にも厳として存在することを示す有力な根拠になるかもしれない。(1月10日)

  ロバート・フラハティの偉大なドキュメンタリー映画(「極北のナヌーク」「アラン」)を見たとき、ふと頭に浮かんだのが、昨年週刊誌などで話題となったTVの“やらせ”事件である。事の詳細は知らないが、要するに、真実を重視すべきドキュメンタリー番組で、意図的な演出がなされたということだ。
 問題になったケースは2件ある。1つは、現代女性が外国人と気軽に肉体関係を持つことをキャッチしたという内容で、隠しカメラの映像として若い女性が黒人の後を付いていくシーンが放映されたが、実は、あらかじめ用意した台本通りに演技させたものだった。真相判明のきっかけが、視聴していた米国人が、黒人の話し言葉の奇妙さに気づいたからだというのが滑稽である。もう1つは、スタジオに看護婦を招いてアンケートを採るという建前の番組なのに、登場したのが女子大生などのアルバイトだったというケース。こちらはバラエティ番組ながら視聴者に看護婦の実態を誤解させかねない点が悪質とされた。いずれの番組も、“やらせ”が発覚してから直ちにうち切られている。
 こうした“やらせ”に対して何かと批判が浴びせられるのは、当然のことかもしれない。何しろ、ドキュメンタリー番組の指名は「真実を伝えること」なのだから。しかし、あまりに杓子定規に真実にこだわると、かえって訴えかける力が弱まるのも、また事実である。冒頭に挙げたフラハティの作品「アラン」では、過酷な自然環境の中に生きる人々の苦闘を伝えるため、記録映像の編集と現地人による再現ドラマを組み合わせる手法が取られていたが、こうした“やらせ”は、決して作品の価値を損ねるものではない。むしろ、ともすれば単調になりがちな記録フィルムにメリハリをつけ、現実の苛烈さを印象に刻み込む効果を上げている。ドキュメンタリーとは、ある時点でたまたまフィルムに映った出来事を並べるだけで成立するものではない。監督が特定の視座から演出することによって、はじめて他者の鑑賞に堪えるようになるのである。こうした演出を“やらせ”と厳密に区別するのは困難であるばかりでなく、ドキュメンタリー番組の質を低下させる結果を招きかねない。実際、TVドキュメンタリーの近年の成果と言われるNHKの『電子立国 日本の自叙伝』の中でも、エレクトロニクス研究の黎明期における技術者たちの悪戦苦闘ぶりが、何の断りもなく、それらしい再現シーンによって描き出されていた。映像それ自身が多くの情報を担っている場合や意図的な情報操作は別にしても、あらゆる“やらせ”を排除しようとする態度は、逆に映像の魔女狩りになりかねない。(1月24日)

  最近、イギリスでTVゲームを楽しんでいた子供がてんかんの発作を起こし、吐瀉物をのどに詰めて窒息死するという事件が起きた。大衆紙サンは、「任天堂が息子を殺した」と大見出しを掲げてセンセーショナルに報道し、またぞろ対外摩擦の火種が生じたと思われたが、実態を調べていくと、意外に根の深い問題であることが判明してきた。亡くなった子供の病名は、光刺激性のてんかん。10Hz程度の光の明滅をしばらく浴びると、脳の神経活動が乱れて発症するというもので、TVゲームのほかにも、ネオンサインやディスコのストロボが引き金になる。てんかん自体は小児期の病気として決して稀ではなく、百人に一人ほどの割合で見られるが、多くの子供は、てんかんの素因を持ちながら大きな発作を起こすことなく成長していく。ところが、数パーセントの子供は、光に対して過敏な体質を示すため、数百万人に上ると思われるTVゲーム愛好家の中の何百人かは、てんかん発作を起こす危険に曝されている訳である。しかも、特定ソフトが発作の引き金になるのではなく、各人固有の刺激パターンによっててんかんが誘発されるので、危険なソフトを規制するのは困難である。実際、人によっては、黒地に青のブロック模様を見たときだけに発作を起こすと報告されており、どの場面が危険かを事前に察知することもできない。こうなると、長時間にわたってTVゲームをプレイしたり、睡眠不足や疲労が蓄積した状態では遊ばないようにするというごくありきたりの注意しかできないだろう。(1月30日)

  ロバート・アルトマン監督の「ザ・プレイヤー」は、近年のアメリカ映画の中で比類なく面白い。もちろん、旧作の「マッシュ」や「ウェディング」と比較すると何か言いたくなるかもしれないが、ハリウッドの裏幕もののパロディと割り切って見ると、これほど笑えるものも少ない。そもそも、映画界の暗部を描くかのように見せかけた作品の冒頭を、「黒い罠」もどきの長回しで飾るという発想は、生真面目にリアリティを追求する野暮な脚本家の決めたストーリーラインを端から無視するものだ。ラスト近く、ジュリア・ロバーツをブルース・ウィリスが助けにくる活劇シーンで、大笑いしながら拍手できるセンスの持ち主なら、アルトマンのだだっ子ぶりが好ましくてならないだろう。(2月1日)

  近年のAIDS患者の急増に伴って、未成年に対してもAIDS教育の必要が叫ばれている。ここで基本になるのは、疾病の実態や感染経路に対する医学的知識の教授であり、AIDSキャリアに対する言われなき偏見の解消や、感染を防ぐための手段の周知徹底が主眼となる。ところが、こうした啓蒙活動の副産物として、高校生にコンドームの使用法を教える学校も現れ、伝統的な性意識を持つ人々のひんしゅくを買っている。ある医学者が高校生を対象とする講演会場でコンドームを配布しようとしたところ、教師に阻まれたり講演後に回収されたという。こうした事件が起きると、したり顔のジャーナリストが、旧弊な倫理観の持ち主を批判するコメントを出すことが多いが、私は、この種の問題に関しては、保守的な立場を支持したい。
 マスコミで中学・高校生の性体験がかなり派手に喧伝されてはいるが、やや過度に誇張されているフシがある。一般に性的活動が活発な人は外向的な性格の持ち主であり、自分の体験を吹聴しがちである。この結果、インタビューなどによって聞き取り調査を行うと、身近な人の体験談として平均以上の活動度を示す人のケースが繰り返し語られることになる。現場の中高生から直接取材した人の話が必ずしも信頼できない所以である。公的機関による信憑性の高い調査によると、高校在学中に性交渉を体験する人は40%前後であり、過半数の男女は未体験のまま高校生活を終えている。こうした聴衆を相手にコンドームの実物を配布してその使用法をレクチャーするのは、いささか時宜を逸している。もちろん、事前に性病予防の知識を与えるのが教育だという考え方もあるが、私は採用しない。肉体的に成熟してから結婚するまでの期間が長い現代においては、古典的な純潔教育は有用ではないだろうが、他人と粘膜を接触させる性行為が、互いの深い信頼の上にのみ許されるという事態に変わりはないはずである。
 潔癖な若者の中には、土に素手で触れない人もいるそうだが、医学的には、ケラチン層で覆われた皮膚はきわめて頑丈な生体防御装置であり、傷口がない限りバクテリアなどの進入を許さない。これに対して、粘膜はきわめて脆弱な部位であり、十全な信頼が得られないならば、ここへの接触は自己防衛の観点から拒絶すべきだろう。性行為に対する基本的な認識なしに安易にコンドームに頼るのは、あまりに即物的なやり方だと思われる。(2月14日)

  科学の哲学を構築しようとするとき、最大の難関となるのが、科学的言語によって記述される“状態”と、意識での直観によってのみ確認され得る“事実”との対応である。通常の科学的言説においては、事実は外部からデータとしてインプットされるが、その地位は、常に取り替え可能な危ういものにとどまる。科学にとってデータが確実となるのは、特定の理論クラスター内部でいくつかの可能性を検討する場合に限られる。しかも、このときの確実性は、あくまで他の候補よりも相対的に高いという条件付きのものでしかない。例えば、大気中の二酸化炭素濃度が…ppmであるとするデータは、気体の濃度測定に関する諸技術の誤差を伴うだけではなく、濃度の揺らぎが無視できるという時間的・空間的な制約の下で気体について語ることが有効であるような理論クラスターの内部において、他の値を排斥するという限りでのみ有効なのである。科学の世界での“事実”とは、単純に唯一無二のものではないことを理解しなければならない。(2月22日)

  内戦の続くボスニア・ヘルツェゴビナでは、数万人に上るイスラム女性がレイプされたと言われる。それも、無政府状態で手のつけられない兵士が乱暴を働いたのではなく、イスラム人の先頭意欲を殺ぐために戦略的になされたらしい。コーランの教えでは、男は女を守り、女は男に貞操を尽くす義務がある。したがって、女性が乱暴されると、犯された当人とともに、その夫もイスラム教徒としての義務を遂行できなかったことになり、宗教戦争を継続する意志も減退すると推測される。さらに卑劣なことに、暴力を受けた女性は数ヶ月にわたって収容所に軟禁され、堕胎もかなわない状況に置かれる。こうして、血統の面でもイスラム教の民族主義が汚されることになる。国連は、こうしたセルビア人武装勢力の行為を非人道的なものとして告発する動きを見せているが、軍事的な強制力がなく、効果はあまり期待できない。
 今回のボスニアでの事件は、いかにも凶悪なものだが、実は、戦争とレイプは不可分の関係にある。古代においては、戦闘に負けた部族の男は殺されるか奴隷として連行され、女は慰み者になるのが一般的であった。近代線では、無秩序な暴行は軍旗にはずれると戒められる場合が多かったが、それでも兵士による婦女暴行は日常茶飯事だったとされる。こうした行為は、単なる性欲の充足ではなく、戦闘中の緊張によって過度に交感神経を興奮させたことに起因するストレスを、副交感神経が支配する性行為を通じて解消しようとするものである。実際、戦闘員に見られる性欲の高まりは、精子の生産速度に比べてかなり加速されていることが知られている。軍隊では、こうした性衝動の処理を組織的に行う必要が生じる。日本軍の場合、性病の流行とスパイの介入を恐れて朝鮮人女性らを従軍慰安婦として連行したが、ボスニアのケースでは、武力によらない戦闘行為を兼ねてイスラム人への暴行がなされたのである。(3月3日)

  サミュエル・ハーネマンが創始したホメオパシー治療は、現代医学に携わる人々からは異端視されているが、なかなかに含蓄の多い医療だと考えられる。ホメオパシーの基本的な発想は、病気を抑え込もうとせず、人体の自然な治癒力を活性化しようとするものである。ホメオパシーに対してアロパシーと呼ばれる現代西洋医学は、病気をいくつかの単純な素過程に分割し、それらを個別に解消しようとする。例えば、結核の原因は結核菌にあると見なし、これを抗生物質によって死滅させようとする。あるいは、狭心症は冠状動脈の狭窄によるとして、血管拡張を起こす薬品を投与して治療を試みる。こうした対抗療法は、人為的な力業で病気をねじ伏せようとする。ところが、ホメオパシーの治療医は、全く異なる方法論を採用する。はじめに丹念な問診を行って病状を把握すると、これと同様の症状を惹起する薬剤を選択し、これを投与することによって治療を試みる。しかも、アロパシーの投薬において薬理効果が最適になるように用量を加減するのとは異なり、ホメオパシー治療では、投与する用量を可能な限り少なくする。水で繰り返し希釈するため、医学的常識では薬理効果が期待できない量の薬を服用することになる。こうした事情があるため、正統的は医師からは、ホメオパシーの治療効果は、単なるプラシボ反応にすぎないと見なされている。しかし、現代医学の枠内で考えても、この治療法は決して荒唐無稽なものではない。例えば、胃酸過多の患者を考えてみよう。アロパシー医学では、制酸剤を投与して胃酸の分泌を抑制し、一時的に症状を改善する。しかし、過剰な胃酸を分泌するように設定された身体条件に変化はないため、薬の効果が切れると再び同じ病状に苦しめられる。制酸剤による対症療法は、他の原因によってホメオスタシスの基準が適正値に戻るまで続けなければならない。しかも、長期にわたって投薬を続けると、抑え込まれている胃酸の分泌を元に戻そうというホメオスタシスが働いて、薬理効果が減殺されてしまう。これに対して、ホメオパシー治療は、一種の逆療法を通じて身体調整のセッティングを変化させる。実際、胃酸過多の人に胃酸分泌を促進させる薬を投与すると、身体の側がこれを妨げようとして自然に分泌量を減少させる可能性がある。ここで服用量を薬理効果が発現する限界以下にとどめておくと、胃酸を増やす薬剤が体内に入ったという情報のみが伝わって(ちょうど梅干しを見ただけで唾液が分泌されるように)反作用的な胃酸抑制の効果が現れると期待される。こうした治療法が実現できれば、対症療法にとどまらない原因治療が遂行できることになる。
 ホメオパシー治療は、症状を悪化させる危険性があるために、二の足を踏む向きもあるだろうが、こうした反応は活性プラシボを使って引き起こすことができるはずである。通常のプラシボが何の薬理効果も持たないのに対して、活性プラシボはある生理的影響を及ぼす薬剤で、直接的に症状を変えるものではないが、ある身体反応を惹起することによって二次的に治療効果を生み出す。現代医学では、プラシボの利用は避けられているが、現実の治療効果を考えると、プラシボを活用することも必要ではないだろうか。(3月11日)

  情報通信の分野でマルチメディアの重要性が喧伝されているが、芸術においても、複数の感覚器官に訴える作品が増えてきている。多くの人々が宗教や民族意識を共有できた古典時代とは異なり、一幅の絵画によって鑑賞者に特定の情念を抱かせることは、現実問題として不可能に近い。現代芸術を志す者は、より直接的な訴求力を持つ表現手段を模索してきたのだが、いかんせん、単一の感覚に頼っていたのでは、皮相的な感情の揺らぎをもたらすのが精一杯である。そこで登場したのが、マルチセンソリー・アートとでも呼ぶべきものである。視覚と聴覚の双方に作用するものが多いが、より大規模に、環境全体を構想する試みも見られる。こうしたアート・インスタレーションは、瞑想的な空間を志向する傾向が強く、しばしばそれらしい光と音を組み合わせただけの安直なものも見られるが、中には、クラシックな絵画芸術に匹敵する感動を呼び覚ますものもある。設置期間が限定されるため、後世に伝えるのは難しいが、20世紀芸術の新しいジャンルとして注目に値する。(3月19日)

  日本型資本主義の特色は、投資を行う主体が(個人投資家ではなく)法人としての企業であり、そのために多くの経済的便宜が図られている点にある。欧米では、企業利益を個人に環流するシステムが確立されているが、日本では、企業のあげた利益の大半が内部留保される。その結果、株の配当率や労働者への配分率はかなり低めに抑えられている。こうした状況に対して各個人が不満を持たないのは、終身雇用制によって会社への帰属意識が高められ、厚生施設の拡充のような間接的な報償で自足してしまうためだろう。一方、会社側は、内部留保した収益によって投資を行うが、当然のことながら、その対象は自己ないしその子会社になる。戦前においては、三井や三菱などの財閥が、世界情勢に応じて投資先を鉱山や重工業に振り分けていたのに対して、現代日本では、各企業が目先の利益を求めて自己投資を繰り返す。この結果、企業は必然的に多角化し、下請け関係もピラミッド的に肥大化する。こうした投資が、経済体制の柔軟性を損なっていることは見やすい。(3月21日)

  既に多くの批評家によって絶賛されている維新派のステージを見た。
 とにかく楽しい。難しい理念は必要ないのだ。音楽に合わせて体を動かすことは、文句なしに人間の原初的な快感を呼び覚ます。ストーリーは、記憶を失った老人の思い出を形象化していくという良くあるタイプのもので、何ら目新しさはないが、この類型化がかえって安心してパフォーマンスを楽しむきっかけとなる。さらに、独特の無骨さを感じさせる大道具も感興を増す。裸舞台で俳優の身体性のみを鑑賞する演劇も一興だが、巨大な構造物がステージの上を動き回る光景は、見る者に童心を取り戻させワクワクさせてくれる。これほど楽しい舞台を今まで見なかったことが悔やまれるほどだ。(維新派公演『ノスタルジア』(HARUMIドーム)を見て)(3月25日)

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©Nobuo YOSHIDA