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  昨年末から、思うところあって道元の『正法眼蔵』を読み始めた。高校時代に「現成公案」の巻を苦労して読み、自分なりに道元の思想を理解しようと努めたこともあるが、当時の知見では及ぶべくもない深遠な哲学世界に改めて触れ、今更ながら驚嘆を禁じ得ない。今回、特に興味を引かれたのは、時間を論じた「有時」と自然の実在性を考察する「山水経」の2巻である。道元の基本姿勢は、概念操作によって客体を狭小化することを避け、自然法則の本質の体得を目指すというものである。それゆえ、時間や事象に関しても、特定の概念による一見明解な説明に対して徹底的な批判を加えていく。ただし、こうした弁証法的な態度においても、テーゼやアンチテーゼのみならず、ジンテーゼすら忌避する方針を忘れない。いわく「時は飛来するとのみ解会(げえ)すべからず。飛去は時の能とのみは学すべからず。時もし飛去に一任せば間隙ありぬべし。有時の道を経聞せざるは、すぎぬるとのみ学するによりてなり。要をとりていはば、尽界にあらゆる尽有はつらなりながら時時なり」 時間を経過するものと考えてはならないと主張するのは容易だが、それに続けて、「経過するのは時間だけではなく、全ての存在が時間的発展形式を持っている」と切り返すのは、高度な弁証法の実現である。しかも、「有時(うじ)」と呼ばれる実在性を帯びた時間について語りながら、いっさいの実在が「連続的でありつつ瞬間的である」として、統一的な概念を持って話をまとめようとしない。こうした知識に拘束されない発想が、『正法眼蔵』の魅力であると同時に難解さの原因になっている。しかし、じっくり読み込めば読み込むほど、豊かな見識が明確な世界観に裏付けられていることも、また判然とするのである。それだけに、『正法眼蔵』の深遠さは一筋縄ではいかないのである。(1月10日)

  パソコン用シミュレーションゲーム『アトラス』をコンプリートした。昨年から3週間あまり、ゲーム中の時間の流れで47時間にわたるプレイだったが、いささか拙速のやり方ではなかったかと思う。これまで私が購入したパソコンゲームの大半がロールプレイングゲームであり、ダンジョンや広大な領地を探索しながらモンスターと戦ったり財宝を発見したりする過程で経験値が上昇するという形式を取っている。これはこれなりに楽しいものであり、アクションゲームの要素を取り入れた『ダンジョン・マスター』などは時間を忘れて遊び続けてしまったが、何分にも、次々と現れるモンスターを殺していくことが目標となるので、かなり気疲れすることは否めない。それに対して、シミュレーションゲームは、特定の戦略の下に与えられた目的を実現しようと頭を使うことになるので、RPGと違ってある種の建設的な喜びを得られるというメリットがある。今回コンプリートした『アトラス』では、リスボン在住の商人となって、未開の地域に提督を派遣し、帰還したときの報告に基づいて世界地図を制作していくのだが、思うように陸地が発見できない期間が続いたかと思うと、高価な特産品が目白押しの地域が見つかったりして、なかなかに熱中させられる。
 この種のゲームで最もつまらないのは、ゲーム作者の思考パターンを推測しなければ先に進めなくなるケースで、初期のアドベンチャーゲームにしばしば見られたが、幸いなことに『アトラス』にはそうした弊があまり見あたらない(もっとも、財宝を発見するために特定の手順を踏まなくてはならないことに気づくのに少々時間が掛かったが)。ゲームに着手した当初は、中途で投げ出さざるを得なくなるのではとの懸念もあったが、一応最後までやり遂げられたのも、シナリオがよく練られていたからだろう。
 シミュレーションゲームは、必ずしも現実を模擬しているわけではなく、固有の法則が支配する仮構の世界を作り上げているにすぎない。にもかかわらず、プレイする人間の側からすると、心を動かされるリアルな要素に満ちあふれており、長時間遊んだ後など、現実そのものの方がリアリティが希薄に感じられるから不思議である。(1月13日)

  批評家が映画を論じるときにしばしば讃辞として用いる「映画的」なる語は何を意味しているのだろうか。
 映画とは、視覚的な像を時間の流れに沿って組み合わせる芸術であるため、ショットの積み重ねが最も基本的な要素であることは間違いない。エイゼンシュタインは、異なる内実を伴った映像の衝突に映画の真髄があると考え、これをモンタージュ理論として展開した。確かに、『戦艦ポチョムキン』や『アレクサンドル・ネフスキー』における実践例を見ると、その主張があながち空論とも思われない迫力が感じられる。しかし、技術的な進歩もあって、現在の映画は、遥かに多くの「映画的な」要素を蔵している。例えば、スローモーションやストップモーションは、単に1秒当たりの情報量を変化させるだけでなく、特定の運動にエモーションを集中させる効果がある。その最良の例は、おそらく市川監督の『東京オリンピック』であり、フィルム速度を変化させるだけで、現場で競技を見るよりも感動的なシーンを現出することに成功した。さらに重要なのが、いわゆる視点の変化である。ごく初期には、カメラを据え付けたまま舞台で演じられる芝居などをじっと撮り続けるというのが一般的な映画作品だった。しかし、あるときカメラを持って対象との距離を自由に変化させられることに気がつくや、映画は時間と空間を思いのままに操る芸術となったのである。この種の技法で良く知られているのがクローズアップだが、「映画的」なる形容を冠するには、いささか陳腐なものになった感は否めない。こんにちの映画で本質的な役割を果たしているのは、パンや横移動による視点の変化と対象の運動との相対関係が生み出す情動である。ヴィスコンティの『ルードヴィヒ』では、登場人物のアクションをパンで吸収することによって、静的な歴史叙述を実現していたが、これは、まさに映画の最も「映画的な」姿と言えるだろう。(1月17日)

  月曜の未明、東京では震度5のかなり大きな地震が発生し、熟睡していた多くの都民を飛び起きさせた。数分後に放送されたNHKの地震速報は、午前4時過ぎという時刻にもかかわらず、18%を越える視聴率を記録し、息せき切って放送室に駆け込んできたことが画面からも窺える佐藤アナウンサーの“迫真の”姿に好意の電話が寄せられるというおまけまで付いた。日本は地震国と言われながら、都市部における大地震の備えは意外に乏しい。その理由は、マグニチュード7を上回る巨大地震の確率が数十年に1度という低い値であるため、次の大地震が発生するまでの間に恐怖の記憶が薄らいでしまうことにある。実際、新潟大地震の際には、その数年前に完成したばかりの昭和新大橋が落橋した一方で、遥か以前に建造された昭和大橋が無傷で保たれていたが、これは、後者が関東大震災の被害を念頭に置いていたのに対して、前者がさして危機感のないままに設計されたためだと考えられる。特に問題になるのは、高度成長期に急造された中低層ビルである。60年代後半には建設ブームが起きたため、現場で働く労働者が不足し、一部に手抜き工事が行われた事実が指摘されている。高層ビルの建設には有能な人材が割かれたが、2〜5階程度の建物の場合、監督が充分行き届かず、耐震性に疑問のあるものも少なくない。これらの中低層擬留は基礎のくい打ちが浅いところでとどまっているため、長周期の地震波や液状化に対してきわめて無防備である。さらに、外部に突き出している看板類やクーラーなどの施設も落下の危険が大きい。こうした点を考えると、現在の都市部では、大地震の際に少なからぬ被害が発生することが予想される。(2月3日)

  サブリミナル効果を利用したCDが発売されて、話題になっている。例えば、バレンタインデー用のアイデア商品として登場したCDには、「私を愛して」というメッセージが2万Hz程度の高周波で数千回繰り返されて録音されており、意識できる聴覚情報としては聞こえないが、サブリミナルの領域に訴えかけるとされている。もっとも、高周波で伝えられる言語的なメッセージでは、通常のフォルマント分析が実行できないので、果たして“ことば”として理解できるかどうか、甚だ疑わしい。この商品は、むしろ一種のシャレと解釈すべきだろう。しかし、一般的にサブリミナル広告が強い訴求力を持っていることは、いくつかの実験から確認されており、今後応用が広がっていくと予想される。それだけに、“洗脳”に通じる危険性がないか、充分に検討する必要がある。
 意識野とは、脳のさまざまな領域と情報を交換する部位であるため、常に反省的な情報処理が可能である。これに対して、無意識裡に行われる処理過程は、より機械的なものなので、そこに強迫観念が刷り込まれると、これを拭い去ることは困難になる。しかも、当該観念を意図的に意識の俎上に載せることが難しいため、サイコセラピーなどによっても除去できずに、いつまでも心の奥底に潜み続けかねない。サブリミナル効果を利用した広告が、こうした強迫観念を生む危険性は、決して無視できない。現在、この種の広告が実際に行われているかどうかに関しては諸説があって、必ずしも明確な結論が得られているわけではないが、クライアント自身が無意識的に込めてしまった思いのいくつかは、それとなく感じることができる。例えば、タバコの広告で女性が暴行を受けているような連想を生むものがあったが、これは、タバコの持つ男性的なイメージを強調しようとして結果的に暴力的なシーンになってしまったと解釈して差し支えあるまい。しかし、これ以上の意図的な操作が広告のジャンルで行われているとすると、単に購入意欲の増大という商売上の目的のみならず、ナショナリズムの発揚や産業主義体制への馴致をも実行できる可能性があるだけに、慄然とせざるを得ない。(2月10日)

  親子の仲を親密なものと誤解する手合いが後を絶たないが、親と子は、所詮騙し騙されながら家族であり続けるという腐れ縁で結びついているだけである。躾は親が見本を示さなければならないとされているが、世の中にそうそう人格者がいるとも思えない。これが理想の人間だとばかりに、子供の前で演じてみせるのがせいぜいだ。もちろん、子の方もそうした点は心得ており、見事に騙された振りをしながらマナーを身につけるのである。ところが、昨今の家族のあり方は、親子の騙し合いを不可能にするほど形骸化してきている。何よりも、父親が働いている姿を子供に見せられないことが嘆かわしい。かつての職人など、適当に手を抜くコツをわきまえていながら、その一方で職人気質を示すという演じ分けをしていたはずだが、現代の父親は、肝心の仕事中は子供から切り離されており、疲れ切って帰宅したところで漸く対面できるだけだ。これでは、虚実皮膜の演技などできるはずもない。母親に至っては、家事労働から解放されて、生身の体で子供に相対しなければならなくなったため、社会的な教育システムに従わざるを得なくなっている。こうした中で、子供は騙しのテクニックを知らずに育っていくのである。(3月3日)

  先日、在日アメリカ人が外国人向けの漢字辞典を刊行したというニュースが報じられた。この辞典の眼目は、わかりやすい部首別索引にあるそうだが、なるほど、読みのわからない漢字を調べるのは日本人でも苦労するので、こうした辞典が作られるのはありがたい。例えば、“穿”なる感じをワープロで呼び出そうとしたとき、“ウかんむり”の項をいくら調べても該当する文字がないので考えあぐねていたところ、何のことはない、下の“ハ”まで含めた“穴かんむり”で検索しなければならなかったのである。
 ちなみに、手元の漢和辞典を繙いてみると、なぜこの漢字がこの部首に分類されているのか、判じ物のようなケースも少なくない。クイズ風に列挙していこう。  理解に苦しむのが、“愛”の分類である。手元の漢和辞典では、“心部”の9画となっているが、腑に落ちない。確かに“心”は文字の中に含まれているが、字の形式を定めているのは冠の部分なので“受”と同じ分類か、あるいは“爪部”が妥当ではないだろうか。もっとも、“爪部”を見ると、かなり便宜的に集められた漢字が並んでおり、“争(爭)”や“爵”が入っている一方で、“采”は“釆(のごめ)部”の1画にまわされている。また、“舜”は“舛(まいあし)部”に分類されている。
 まったく、日本人のためにも、わかりやすい漢和辞典を切望する次第である。(3月9日)

  墨田区で歩道橋の撤去を巡って警察と区が対立している。問題となっているのは、1968年に交通量の増加に応じて設置された歩道橋だが、その後に信号付きの横断歩道が造られたこともあって、現在では、1日数千人の横断者のうち、これを利用するのは1%ほど。しかも、そのほとんどが保母さんに連れられた保育園児だったという。すでに建設後四半世紀近くを閲しているため、塗装も剥げて地域の美観を損ねていると批判も多い。また、歩道が狭くなる上に、脇にある駐車場の出入りの障害にもなっており、無用の長物どころか害悪の方が目立っている。こうした事情を考慮して、区は来年度の撤去費用1千万円の予算を計上した。ところが、これに対して、警察が交通安全上の問題があるとしてクレームを付け、両者の対立が続いているという。
 多くの識者が指摘しているように、1本の道路をまたぐように造られた歩道橋は、きわめて日本的な設備である。欧米では、ロータリーなどの頭上で建物同士をつなぐペデストリアン・デッキはあっても、道路を横断する歩行者に階段の上り下りを強要する歩道橋は見あたらない。一方、日本に追随するように発展してきた韓国などのアジア諸国には相当数の歩道橋が存在するという。この無粋な建造物を、電柱や看板とともに、日本の都市景観を害する3悪の1つに数える人もいる。
 そもそも、日本で歩道橋の設置が盛んになったのは、60年代の高度成長期である。この時期には、経済発展が第一義的に考えられており、輸送力のアップが緊急の課題だった。このため、いちいち自動車の流れを止めて歩行者を渡らせる横断歩道を造るよりも、人間の側に負担をかけてでも輸送力を維持できる歩道橋の方が好ましいものに思えたのであろう。もちろん、当時騒がれた“交通戦争”を緩和する手段としても、自動車と人間が交差しない歩道橋に軍配があがった訳である。
 しかし、こうした発想は、基本的に人間を疎外するものである。階段の昇降は、ラグビーの試合に匹敵する激しい運動であり、特に足腰の弱った老人には過酷である。今後の高齢化社会を考えると、人間の活動を妨げる障害物に当たることは間違いない。それよりは、ペダル操作のみで停止や発進のできる自動車の方が歩行者に道を譲るべきであろう。無論、その結果として若干の輸送力の低下が生じるが、これは、生活しやすい街並みの創造に伴う活力の増加によって相殺されると期待される。また、歩行者と車の接点が増えるので、当然、ドライバーには安全確認の義務がより重く課せられることになる。こうした点を考えると、安全教育の場の創設を含めて、総合的な交通問題への取り組みが必要となってこよう。(3月12日)

  東京では霊園用の土地が払底し、よほどの大金を用意していなければ、おちおち死んでもいられない状況だ。一度墓を建てたら末代まで供養しなければならない祖先礼拝のお国柄だから、時代が下るにつれて墓所が不足するのが道理だとはいえ、1基あたり数百万円ともなると、もはや生きた人間の生活を圧迫せずにはおかない。死者のことまで考えずに作った新興都市ならいざ知らず、400年の歴史を持つ都がこの有様では、情けなくなる。最近では、お墓のアパートともいうべき省スペース型墓所が作られたりしているが、世間体を気にする典型的日本人には、必ずしも好評ではないようだ。
 日本人は、脳死体からの臓器移植に積極的ではないが、それは、生死の判定に対する不信感よりも、死体を損壊することへの嫌悪が先に立っていると思われる。実際、かつて小人症の治療薬となる成長ホルモンを死体の脳下垂体から採取していた頃、明らかに死んでいる体から取り出すことすらままならず、その大半をアメリカからの輸入に頼っていた事実がある。ことほどさように、日本人は死体を大切にする民族であり、その起源は、おそらく古くからの土着信仰に見いだされるだろう。
 とすれば、私などは日本人離れしていること甚だしい。何しろ、死体に対する執着は全くと言っていいほどなく、死んだら医学の発展のためにあらゆる部分を献体してしまおうと思っているくらいだから。腕や足はインターンの解剖練習用に、内臓はアルコール漬け標本に利用し、残った骨は骨格標本として理科室にでも飾っておいてほしい。そうすれば、生きているときよりも社会に役立てるわけだ。
 もっとも、そんなことを公言していたら、両親は自分の死後が不安になったらしい。先日、かなり立派な墓を購入したという。それも九州に。写真で見ると、「吉田家之墓」と大書された墓石を中心にかなりのスペースがあり、現在の日本では、まあ上の部に属する墓である。それにしても九州とは。両親の出身地とは言え、肉親が全て東京周辺に住んでいる身からすると、いかにも遠隔地である。どうも、多摩あたりだろうと九州だろうと、あの息子なら、墓参りに来ないという点では同じだということで、敢えて購入したらしい。まことによくわかっている。ただし、当の父も、自分の両親の墓に足を運んだのは、納骨の際の1度ずつだそうだから、よく似た親子ではある。
 仏ほっとけ、神かまうな。合掌。(3月16日)

  各民族が使用している言語は、生活世界における諸要素の配置を反映したものであるため、相互の翻訳に困難が伴う。この点の理解がなければ、ビジネスを含む多くの局面でコミュニケーションに何らかの支障が生じることは、想像に難くない。
 特に、近年マスコミなどでしばしば用いられる“国際化”なる語には気をつけた方が良い。“国際的”="international"と考えて、この語を"internationalize"と訳す人がいるが、英語で"internationalize"とは“国際標準に合わせる”とか“国際的な統治の下に置く”という意味があり、日本語とは相当ニュアンスが異なる。英語教育の普及や海外留学の増加に伴って、日本も海外に目を向けた人が育っていると主張するつもりで、"Japan will be internationalized."と発言すると、とんでもない誤解を招くことになる。そもそも、日本人が考えている“国際化”とは、これまで孤立しがちだった日本がいかに協調的に外国とつきあうかを念頭に置いているもので、国際間の争いが絶えなかったヨーロッパにおける覇権の調停とは質的に異なる。このほか、“現地化”という語も、文字通りに翻訳すると“現地住民を管理職に起用する”と解釈されやすい。
 一方、欧米人がよく用いるにもかかわらず、該当する日本語が存在しないケースも稀ではない。例えば、英語の"interactive"は、どんな日本語に置き換えてみてもしっくりしない。無理に“相互作用的”と訳すのも、何だか堅苦しい感を与える。こうした状況は、実は、日本と欧米の人間関係の相違に根ざすものである。母親が子供に童話を語り聞かせる場合でも、日本ならば既存のストーリーをそのまま子供に話すだけだが、欧米では、子供が「それからどうなったの」とか「ここで王子様に出会えたんじゃない」などと積極的に発言し、時には、それに応じて新たにストーリーを展開していくという。こうした生活習慣の違いが背後にあるため、言語の翻訳には大きな困難が伴うことになる。(3月20日)

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©Nobuo YOSHIDA