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  かつて、「歴史は科学か」という論争が、M.ウェーバーを中心に展開されたことがある。この種の問題は、アカデミズムを隠れ蓑にして、価値のない研究論文を発表しながら大学に職を得る日本の無能な学者たちには余り興味がないかもしれないが、学問の基盤を問い直す重要な契機となるだけに、看過すべきではない。
 そもそも、歴史が科学かという問いかけは、学問が何をなし得るかという問題と密接に結びついている。学問の基本は、その有効性にある。すなわち、何の「役にも立たない」知識の体系は、それがいかに論理的に整然としていようとも、学問としての資格はない。ただし、何をもって「役に立つ」と認定するかが難問である。私は、以前からの主張に基づいて、「役に立つ」とは、その適用領域が定義された予言を生成する能力を持っていることと考える。これは、理論をブラック・ボックスとして取り扱う立場とも言える。必要なデータを入力すれば、学者の個人差がほとんどない科学的命題を生み出せる“モデル”こそが、理論の本体なのだ。もちろん、こうして生み出された命題がなんの役に立つかは、必ずしも一意的ではなく、社会にとって有益な場合もあれば、単に、学問の他の領域の発展を促すだけのこともある。しかし、一般的に、何らかの効果を及ぼすような命題を生成できるモデルを内包する値の体系を学問(あるいは少なくとも科学的学問)と呼ぶことにしたい。
 この観点からすれば、一般に歴史学は、(科学的)学問とは言い難い。なぜなら、歴史学の基本は、数多くの資料を整理して体系化する作業であり、これによって何らかの予言を生成することは、目的としていないからである。M.ウェーバーが、歴史学を科学として取り扱う可能性を模索した背景には、官僚主義機構に裏打ちされた資本主義経済体制を現出させるに至った近代社会というものが、どのような立脚点の上に成立しているかを明らかにしたいという知的欲求があったと考えられる。具体的には、宗教が資本主義社会の成立を促したかどうかを考察するとき、プロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神と類似していることに基づいて、これを資本主義発達の要因だと「説明する」だけで議論を終えようとはしない。さらに、古代ユダヤ教や道教など、他の宗教が生み出す社会体制についてのデータを積み上げ、社会体制を与える関数の引数として宗教を考える方向に進んでいったのである。
 こうした試みは、明らかに、現に与えられたデータを説明する従来の社会学の範疇を逸脱して、科学的な学問としての社会学を指向するものである。しかし、こうしたウェーバーの試みが成功したかという点には、必ずしも首肯できない。何となれば、社会には不定要素が余りに多いため、ある要素を抜き出してその影響を評価することは、本質的に困難だからである。たとえば、プロテスタントを信仰する人々が資本主義を興し、道教を信じる人々がそうしなかったとしても、それぞれの宗教が資本主義を生み出した要因の1つと認めるのは難しい。より根本的な要因が、資本主義とプロテスタンティズムを同時に発生されたのかもしれないし、また(事例が余りに少ないことから)両者の共存が全くの偶然である可能性も払拭できないのである。従って、ウェーバーの議論のままでは、歴史学は科学とは言えない。しかし、その方針の延長線上に科学的歴史学を創る道は未だ閉ざされていないのである。(7月23日)

  昨日、『死刑囚の再出発〜島田事件のその後〜』(TBS、ディレクター:吉永春子)というドキュメンタリーを見た。島田事件で、一度死刑判決を受けた赤堀氏が、獄中から無実を訴え続け、ついに指針請求が入れらあれ無実を勝ち得たという事件があったが、この番組では、その後の赤堀氏を追跡して社会復帰の難しさを描き出している。ここでは、島田事件そのものについては問わないが、死刑制度にまつわる多くの危機を明らかにしている。
 私は、個人的に死刑制度に反対だが、その理由は、以下の通りである。そもそも、犯罪に対する罰とは、3つの機能を担うものである。第1に、犯罪者に罪悪の意識をもたらし、一般人に犯罪を嫌忌する態度を醸成する懲罰としての機能。第2に、社会に害をなす可能性のある犯罪者を隔離する機能。そして、第3に、犯罪者を社会復帰させるべく構成する機能である。この3要件をすべて満たすのが懲役刑、第1と第2の機能を満たすのが禁固刑、第1の要件のみ満たすのが罰金・科料である。死刑は、第1の機能の半分と第2の機能を実現する。
 この3要件のいずれを重視するかは、時代によって大きく異なるが、現代においては、第3の要件が最も重要だと考えられる。なぜなら、多くの社会心理学者が説くように、犯罪性向は生物学的素因に乏しく、ほとんどが家庭および社会環境の所産であり、犯罪の減少を図るためには、犯罪者という社会の歪みが端的に現れた部分から改善していくのが当然だからである。もちろん、社会にそれだけの余裕がなければ、緊急避難的措置として、患部(=犯罪者)を取り除くこともやむを得ないだろう。しかし、現代日本のように社会が経済的に豊かになった状況の下では、犯罪者の更正にある程度の公共投資を行うべきである。ところが、死刑は、この道を閉ざしてしまう刑罰である。論者の中には、更正不能で、その存在が社会にとって害毒となる犯罪者の死刑は仕方ないと考える者もあるかもしれない。しかし、どの精神医学者に聞いても、ある人物が更正可能かどうかは判定できるものではないと答えるだろう。犯罪の原因が後天的なものである以上、これが矯正できないと断定するのは困難である。こんにちにおいては、肉体労働を行う作業者は貴重なので、労働力供給を兼ねた刑務所は、それほど経済的な負担とならないだろう。
 死刑は、国家による殺人であり、単に残酷というよりは、人間の生存権を認めた憲法に根本的に違背するものである。なるほど、現実にh、女子高生コンクリート詰め殺人など、死刑が当然と思われる極悪犯罪は少なくない。しかし、この極悪犯を更正させることこそ、社会にとって必要なゆとりではないだろうか。(7月30日)

  宮崎駿の『魔女の宅急便』は、まるで石清水のような秀作である。これまでの宮崎作品に比べると、派手なアクションが少なくなり、作者の理想像と思われる高潔なヒロイン(ナウシカやシータのような)が姿を消した分だけ、見終わった後に感じる高揚感は減ったかもしれないが、その代わりに、日常生活における人間の優しさをしみじみと感じさせてくれる。おそらく、一度見ただけでは、その味わい深さが充分に堪能できないのではと思われるほど、抑制の利いた自然体での語り口が心地よい。
 もちろん、この作品の最大の見所は、ヒロイン・キキの飛行シーンであり、その点では、日常よりも夢の世界に近いファンタジーとなっている。アニメーションで奥行き方向の運動を描き出すのは、技術的にも資金的にも多大な負担を要するが、この作品では、手を抜かずに丹念に描かれているため、飛行する姿だけでも心が疼くような感動を呼び起こしてくれる(こういう場面をみると、飛行のイメージが性交の代償であるというフロイトの説が、いかに人間性の理解にかけた愚説であるかが良くわかる。性交が飛行の代償なのだ)。従って、うっかりすると、非日常的なファンタジーとして、この作品を捉えてしまう危険が生じる。しかし、この映画の真骨頂は、むしろ、われわれが日常直面するような事態の描き方にあると言って良い。
 例えば、ヒロインのキキは、自分が魔女であるという矜持をもって大都市を訪れるが、そこでは、彼女が期待したような歓迎を受けられず、むしろ平凡な一少女として都市のメカニズムに組み込まれそうになる。このため、キキは挫折感を味わい、自分の才能に疑問を抱くが、些細なことから自分の価値を再び見いだすようになる−−こうした思春期特有の少女の心の動きを、ファンタジーに託して巧みに表現しているだけに、人々は素直にキキの中に自分を投影することができるのだ。
 特筆しなければならないのは、キキという少女の持つリアリティである。アニメの方が実写よりリアルだというのは奇妙に聞こえるかもしれないが、人間の視覚システムが持つ特徴抽出機能を無視してべったりした2次元像に還元してしまう実写フィルムよりは、演出家が興味ある対象を強調して描き出せるアニメの方が、人間の直感となじみやすいのだろう。中でも出色なシーンは、宅急便の客がなくて退屈を持て余しているキキが、足を開いた少々行儀悪い姿勢でカウンターにグダーと腰を下ろしている場面である。ここには、意欲が空回りして無為に陥った人間の倦怠が、視覚的に適切に表現されており、実写以上にリアルなものになっている。こうした優れた細部描写があるからこそ、『魔女の宅急便』は単なる夢物語ではない豊かなロマンを内に持つことになったのである。
 この作品は、宮崎監督のフィルモグラフィの中では、『となりのトトロ』に続いて少女心理を主題に据えた日常劇の系列に位置するが、これまでの4作品と比較すると、カタルシスの性質という点で一線を画するものである。すなわち、『カリオストロの城』から『となりのトトロ』までの作品では、いずれもラスト近くに巨大な困難が主人公の前に立ちはだかり、主人公がこれを超現実的な形で乗り越える(『風の谷のナウシカ』の復活や『天空の城ラピュタ』の滅びの言葉のように)点に我々は深い感動を覚えてきた。ところが、『魔女の宅急便』では、飛行船にぶら下がった少年の救出は、キキの魔法の範囲で直接成し遂げられるのである。実は、この救出は、単なる「派手なコーダ」なのであって、キキにとっての真の解決は、それ以前のログハウスのシーンで達成されていたのである。だからこそ、救出の単純性が、ナウシカやラピュタの宗教的エンディングに劣らない感銘を与えてくれるのだろう。(8月6日)

  毎年この時期になると、NHK広島は、原爆関連の優れた番組を制作し放映する。投下後半世紀近く過ぎたこんにちなお、原爆へのさまざまなアプローチを続けるこの執念は、賞賛すべきこだわりと言えよう。
 NHK制作の原爆番組の特色は、被爆による悲惨さをなぞる手法をあえてとらず、より客観的なデータを与えることを目的としている点にある。その最高の例は、核戦争がもたらす非議を地球規模のレベルで科学的に分析して映像化した『核戦争後の地球』であろう。原水爆が悲惨なものであることを、広島・長崎の災厄によって示したとしても、近代的シェルターによってある程度の人々を救出するのは可能だとする主張を論駁するのは難しかった。『核戦争後の地球』は、そうした核兵器擁護に通じる主張を、科学的に打ち砕くだけの威力を持った番組であった。このほかにも、爆心地近くで被爆した銀行職員の中で柱の陰にいて助かった者をレポートして、巨大兵器が持つ無差別性を明らかにした作品や、広島・長崎でこれまで被爆者が浴びたと想定されていた放射線量が過大評価されていたことから、放射線による人体損傷の割合を推定する相関値に大幅な修正が必要なことを報告する作品など、印象的なものが多い。もちろん、中には、現存する被爆体験者に、どこでどのように被爆したかを広島の現場で語らせるという、直接情緒に訴えるという番組もあったが、NHKの原爆番組は、概して、核兵器の実態を客観的に明らかにすることを目標としている。
 こうした「客観主義」は、ドキュメンタリー制作者の優れた見識を示すものと言ってよい。というのは、原爆のような悲惨な被害を伴う事態については、その悲惨さを事実に即して語るのが最良のドキュメンタリーだと誤解しやすいからである。爆心地でいかに多くの人が悲惨な最期を遂げたか、また、いわゆる原爆病によって原爆投下後数十年を経て、なおも苦しむ人がどれだけいるかを描き出すことが、反核運動の機運を盛り上げる最良の方策と思われるかもしれない。しかし、このような方法で人々に植え付ける観念は、原爆に対する恐怖心のみであり、どのようにして核兵器を廃絶するかについての英知ではない。
 そもそも、映像作家にとって悲惨な事件とは、表現欲求を駆り立てられる好ましい素材であり、そのことが、ともすれば批判精神を鈍らせてしまう。戦争や公害の中で苦しめられる人間の素顔を、これでもかこれでもかと描くだけで、何か強烈なメッセージを与えた錯覚してしまうのである。この傾向は、民放がニュースショーの枠内で放映する小特集において、特に顕著である。また、第2次世界大戦の反省として、欧米のTV局がドキュメンタリーないしドラマを制作する場合は、往々にしてナチスを悪玉にし、ナチスがいかに人倫を無視した蛮行を繰り返したかを多角的に描くことに終始するが、これも、ドキュメンタリーの方法として必ずしも好ましいものではない(もっとも、欧米に客観的データに基づく優れた番組が少なくないことは、NHKの海外ドキュメンタリーが示している)。例えば、ナチスの非人間的な行為は、多くの人々の脳裏に焼き付けられているが、最近始められた中絶胎児を人体実験の材料として使用していることへの批判として「まるでナチスのようだ」という言い方がされる。ところが、この議論は、その行為の現象面に目を留めただけの皮相なものであり、ナチスの目的遂行意識や情報操作と科学的研究の大きな相違を無視している。悲惨な事件ほど、客観的データが必要とされるゆえんである。(8月13日)

  埼玉の連続幼女殺害事件は、宮崎勤の自供によって解決に向かいつつある。戦争直後の混乱期を別にすれば、今回のような残虐な事件は稀であり、特に、性的な目的で幼女をいたぶるという行為は、アメリカで多発している幼児対象のアブノーマルな性犯罪が、日本でも起こり始めたことを示すものかもしれない。
 こうした残虐な犯罪が起きる背後にある社会情勢とは、どのようなものだろうか。グローバルに見れば、機械文明の進行による人間性の疎外といった事情もあるかもしれないが、より局所的には、情報環境の変化が大きな影響を及ぼしていると思われる。具体的に言えば、生き物のような複雑な対象に直接触れる機会が減り、TVやコンピュータを介したステロ化された情報が生活を満たしている。現代の子供たちは、ナマの自然に接することなく、ファミコンなどの中で擬似的な世界体験を行うが、複雑精妙にして常に人間の予想を超えた振舞いをする自然に比べて、仮想現実の世界はあまりに単調で、ほとんど善悪や美醜といった二分法的な価値観に従っている。このため、価値に関する判断基準がきわめて単純なものになり、この枠内に収まらないものは、判断の対象から除外される傾向にある。雑誌広告のキャッチコピーに、「花を愛するならミミズも愛してください」というものがあったが、おそらく現代人は、花の美しさをステロ化して感じ取ることはできても、コンクリートで自然から隔離された生活の中で生態系における共生関係が実感できていないため、ミミズを愛することは不可能だろう。
 情報のステロ化は、外界を単純な機能関係に還元する世界観を促す。恋愛に関しても、好きか好きでないかの二値的判断が優先され、愛しつつ憎むというアンビヴァレントな感情は抑圧される。この結果、ハムレット的な苦悩を経て世界に対する寛容さに達するという悟達のプロセスを体験することなく、社会が自分の思うようにならないことへのいらだちが募るばかりとなる。もちろん、恋の鞘当てが織りなす人生の陰影を味わう余裕など、生まれるべくもない。
 こうした環境の下で育った青少年は、社会的に孤立し、ビデオやコンピュータなど単純な情報を提供する機器と向かい合いがちになるだろう。このことは、現代社会に何をもたらすかを、真剣に考察すべき段階に達している。もちろん、事態は単純ではない。封建制度の下では、君主は家臣たちを一種の道具としてステロ化して認知していただろうし、戦争が起これば、敵国人との深い交情が成立する余地は乏しくなる。つまり、情報のステロ化は、特定の面を見れば、必ずしも過去に類例がないわけではないのだ。おそらく、現在の事態は、決して楽観できるものではないものの、社会的なカタストロフィを招来するほどには至っていないだろう。複雑精妙な生の実感が喪失される一方で、抽象的ながらも世界的視野に基づく認識が生まれる可能性を信じても良いのではないか。(8月20日)

  人間の性欲を解発する機構について考察したい。
 性欲は、動物的本能として各人に備わっているが、何に性欲を感じるかまで遺伝的に規定されているとは考えにくい。類人猿は、性器付近の汗腺から分泌される生理物質によって性欲を催されることが知られているが、人間もこれと類似した物質を分泌していることから、嗅覚情報が性欲のリリーサーとなる可能性が論じられたこともある。しかし、大学の心理学教室で行われた実験−−多数の人物写真を被験者に見せながら、気づかれないようにこの生理物質を嗅がせ、これがどの人物に魅力を感じるかに影響を及ぼすか否かを調べる−−によれば、生理物質の化学的性質が性欲を積極的に催させるという証拠はない。それでは、生理物質以外の何かが人類の性欲を高めるのだろうか。
 ここで、刷り込みの機構を思い出していただきたい。刷り込みとは、ある行動のパターンが遺伝的にプログラミングされているが、行動の具体的内容については、後天的な経験によってインプットされる余地があるような機構で、卵から孵った小ガモが何についていくかを決定するメカニズムとして知られている。人間の場合も、恐怖症のように、行動のパターン−−外部への地殻が研ぎ澄まされる一方で、思考が特定の方向に偏倚し、手足のふるえやすくみが生じる−−は決まっていても、何がこれを惹起するかについては、経験が定めるというものがある。おそらく、性欲も、これと類似の機構に支配されているのだろう。すなわち、性的な興奮−−副交感神経の刺激に始まり、性器の勃起などの生理現象に、思考対象の固定化が進むというような心理的現象が随伴する−−のパターンは定まっているが、何がこれを引き起こすかは、経験に委ねられているのである。恐怖症の対象が、きわめて複雑な知的思考の所産であっても良い(ガン恐怖症のように)のと同様に、性的興奮のリリーサーが知的に構成されていることは十分にあり得る。これは、現実の社会においても、男性が性的魅力を感じるセクシャルな女性のイメージが、かなり複雑な要素を持っていることからも伺える。
 人が何に対して性的興味を抱くかは、おそらく周囲の人間を通して学習していくのだろう。女性の美醜の判断は、社会ごとに大きく異なっているが、1つの社会ではきわめて同質的である。古代の社会においては、多産が好ましいと考えられているため、一般に、腰回りの大きい安産タイプの女性が美しいとされている。だが、産業文明が発展した社会では、何が美醜の基準になっているか判然としないケースが多い。農業国では、やはり多産が必要なために肥満気味の女性が好まれるとか、都市部では人口過多による生殖忌避から性的に成熟しているように見えない少女タイプが好まれるとか、後追い的な説明は不可能ではない。しかし、どのような社会でいかなる女性が美しいとされるかは、一般に恣意的と考えるべきである。おそらく、当の社会内部で、もともと浮動的だった女性に対する好みが、何らかの偶然に基づいて一定の段階に固着したとき、この傾向が子供の脳裏に刷り込まれて、基本的な女性観を形成していくのだろう。この場合、美人か否かという基準の驚くべき同質性は、刷り込みのメカニズムが比較的単純であることを示唆している。各人は、自分がなぜある女性を美しいと感じるかほとんど理解できないまま、恋愛感情を覚えるのである。
 上のような解釈は、女性の着衣の状態に対する男性の反応について、理解の手がかりを与えてくれる。現代社会においては、女性の裸体は男性に性的興奮をもたらすとされている。しかし、これが本能的な反応だとする根拠は皆無であり、むしろ、特定の文化圏に固有の慣習だと解釈した方がわかりやすい。すなわち、文明社会の多くが高緯度地方に位置しているため、着衣の状態が自然であり、男性の前で女性が衣服をとるのは性的なアピールであると解釈できる。それゆえ、このアピールを行っていると思われる女性に対して、男性はエロティシズムを感じるのである。実際、ミニスカートの女性が太股をあらわにしているときよりも、浴衣の裾が乱れて美座が見え隠れしたときの方が、遥かにエロティックな印象を与えるのである。(8月31日)

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©Nobuo YOSHIDA