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第I章 “素朴”実在論の誤謬





 抽象的な思索に馴れていない幼児は,自分の身の回りで観察される対象 ――例えば,掌に乗せている小石――が「実際に」存在しているかどうか必 ずしも確実ではないと聞かされても,なかなか理解できないだろう。それほど までに,幼少の時から人々の身についている思考様式は,“素朴な”実在論に 偏しているのである。しかし,そうした半ば生得的なものの見方が人間にとっ ていかに馴染みのものであったとしても,そこに含意されているく実在論的世 界観>が哲学的には何を意味しているか,なかんづく「存在する」という命題 はそもそもどのように規定されているかは,決して自明でないばかりか,一般 的なコンセンサスが成立しているとも考えがたい。このため,存在について何 らかの哲学的な考察を行う場合にも,個人的な体験に根ざしている素朴なく存 在>概念が無批判なままに持ち込まれてしまって,議論を不明確なものにする 虞れが多々ある。例えば,「実在論は,所詮「ある物がある」というだけの空 虚な主張にすぎない」とする意見をしばしば耳にするが,そうロにする論者が 果して「ある」ことの意味を突き詰めて考えているのか,心もとない。日常的 な発想の下で当たり前に思えることほど,その実質を解明するためには精緻な 哲学的議論が要請されるのである。
 このような問題意識に基づいて,本章では,《“素朴な”実在論》と呼ばれ る主張がしばしば犯す誤謬について考察していく。ここで強調したいことは, ひとたび認識の俎上に載せられた対象は,もはや<外界>の素朴な模写ではな く,特定の形式に適合するように歪められているという事実である。実際,直 観的な存在認識の過程においては,<観念>を使って対象を把握するという<客 体化>の作業が行われるため,無意識のうちに対象と<観念>が混同されてし まい,もともとは<観念>固有の性質であったはずのく安定性>が存在者の側 に押し付けられがちである。特に,<空間>の中に安定な<物体>が存在し, これが<時間>とともに運動することによって諸々の現象を生じるという世界 観は,《素朴実在論》に見られる最も典型的な誤りである。こうした世界観は 先験的な認識の形式そのものに由来しており,認識論的な批判によらずにその 欠陥を指摘するのは難しいため,有能な科学者といえども,この陥穿を避ける のは容易ではない。中でも,《原子論的唯物論》と呼ばれる一連の学説は,き わめて高度に科学的な議論を展開しながら,根本的な所でこの罠にはまった典 型的な例であろう。
 なお,本章の主たる目的は,こうした誤った見解が生まれる機構を明らかに することであり,既にこの点を理解している読者は,章全体を省略してもかま わないだろう。

©Nobuo YOSHIDA