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I−3 非決定論は可能か




 ここまでの議論では,《決定論》を基本的に認めた上で,この宇宙で生起す る現象が全時間にわたって「事実として」与えられているものの,各時刻の事 態の間に厳密な因果的関係はないと考えられることを示してきた。しかし,こ うした立論に反駁して,そもそも人間に自由な選択の能力が残されるような非 決定論の可能性を模索すべきだと主張する者もあるかもしれない。そこで,物 理的な論考を終えるに当たって,この問題について触れておきたい。  一般に,物理的な《決定論》を論じる場合は,事実と非=事実が区別される ことを前提としている。すなわち,ある事態が生起したか否かは,2項対立的 なカテゴリーによって画然と区別できるはずなのであって,仮にも中間的な「半事 実」を認めると,途端に決定論はその立脚点を失ってしまう。こうした前提は, 量子力学における観測の局面でも,測定された状態を「疑い得ない」事実と見 なす態度の中に温存されている。ところが,科学的な<理論>とは,有効な科 学的命題を生成する能力のあるモデルを意味し,理論的な考察は全ていくつか の(初期条件や物理的パラメーターなどの)条件を設定するという仮定の上で 行われているため,理論の内部で<事実性>についてあれこれ言う余地は存在 しない。したがって,事実と非=事実の区別が常に可能だという主張はかなり 素朴な直観に基づいており,必ずしも正当な根拠がある訳ではない。
 こうした事情は,I−1節で既定の<過去>と未定の<未来>を弁別する指 標として利用した<実在度>なるパラメーターの再検討を促す。このパラメー ターを導入した際にその厳密な定義を意図的に怠ったのは,議論を把握する上 で必要なコンセンサスはできていると考えたからである。実際,この種の議論 では,<事実>が唯一なもので<非=事実>とは本質的に両立できないとさえ 認めておけば,「実在とは何か」という古典的なアポリアに踏み迷うことな く,(「眼前に机が存する」というような)常識的には事実性が疑うべくもな い事態に対して実在度r=1と置けるはずである。ところが,自然の側にもと もと確固たる唯一無二の<事実>などなかったとすれば,事情は異なってくる。 ここで,いささか空想的な例として,量子力学における<多世界解釈>を取り 上げよう。波動関数がシュレディンガ−方程式に従って多数の分離された (巨視的な測定装置によって峻別される)状態に分岐していくとき,正統的な 解釈では各状態のうちのいずれかがそれぞれのノルムに比例する確率で実現す ると見なされるのに対して,<多世界解釈>は全ての状態が実在するバラレ ル・ワールドを構成すると主張するものである。この解釈は,量子力宅にアド =ホックな仮説を持ち込まないという利点があるものの,ノルムがきわめて小 さい状態として(通常の統計力学では確率があまりも小さいので無視される現 象が生起しているような)到底ありそうもない世界まで含んでしまう欠点を有 する。そこで,各状態のノルムを(実現確率ではなく)<実在度>と仮定して 実在の重みに差をつけてみたらどうだろうか。この場合,事実の唯一性は否定 されることになり,これまでの科学的常識とは相入れない発想も許されるだろ う。例えば,知的生命の意識はいくつかの世界にまたがることができるが,ノ ルムが小さい世界は希薄な自意識しか生まないためその存在が気づかれていな いのかもしれない。いや,もっと突飛なことを言えば,あらゆる自己意識の淵 源となる「始源的エゴ」が<実在度>に応じた形態をとりながらさまざまな世 界を巡っていくと考えても,直ちに否定するだけの根拠はないはずである。こ こまでくると,もはや相対論などを援用した先の事実的決定論の論証は通用し なくなり,非決定論的な状況が生まれる可能性も現れてくる。
 もちろん,ここで述べたような世界は全くの空想の産物で,科学的なモデル の態をなしているものではない。しかし,このような現実離れした発想をしな ければ,<非決定性>を論じる可能性が切り開かれないこともまた確かだろう。 現代科学が時間や空間に関して提出しているモデルはそれほどまでに強固なの である。とは言っても,現実に「始源的エゴ」がパラレル・ワールドの間をさ まよっていると本気で論じるのは,あまりに非常識だろう。こうした状況を踏 まえて,この論考では,非決定論の可能性には敢えて目をつぷることにする。 ただし,「自然は人間が考えている以上に複雑なだけでなく,人間が考え得る 以上に複雑なのだ」という至言を胸に刻みながら。

©Nobuo YOSHIDA