1980年以降の「現代的な」宇宙論において、一般相対論の基礎方程式(アインシュタイン方程式)に現れる宇宙項(cosmological term)は、きわめて重要な役割を果たしている。1981年に発表され、標準モデルの地位を獲得しているグースらのインフレーション宇宙論1)では、宇宙のごく初期に宇宙項の影響で空間が指数関数的に膨張する時期があり、この過程が現在の物質密度や空間曲率などをほぼ決定すると仮定されている。また、1998年には、複数のグループによって宇宙の膨張速度が次第に加速されていることを示唆する観測データが報告されたが2)、これが事実だとすると、膨張宇宙の大局的な振舞いは、膨張速度を遅らせる天体同士の重力よりも、宇宙項に起因すると思われる反重力の効果に支配されていることになる。
しかし、それ以前の宇宙論の歴史を顧みると、宇宙項の扱いには興味深い浮沈がある。
宇宙項は、1916年にアインシュタインが発表した一般相対論のオリジナルな方程式3)には含まれておらず、宇宙全体の静的な構造を考察する1917年の論文4)で初めて導入された。1917年論文でアインシュタインが提出したモデルは、後に、天体間の引力として作用する重力と宇宙項による反重力効果としての斥力が厳密に釣り合って、宇宙が膨張も収縮もせずに定常状態になったものであることが判明する。ところが、こうした釣り合いは不安定であり、わずかの摂動で膨張か収縮に転じてしまう。1917年から1930年に掛けて、引力と斥力が釣り合わずに宇宙が動的に変化するモデル(いずれも宇宙項を含む)が、ド・ジッター5)、フリードマン6)、ルメートル7)、エディントン8)らによって検討された。
理論的なモデルと観測データとの比較は、1929年にハッブルが「銀河系外星雲の見かけの後退速度は太陽からの距離に比例する」ことを示唆するデータ9)を提出してから活発化する。エディントンは、ハッブルが得たデータが相対論的な動的宇宙のモデルと合致することを示し、星や銀河が「膨らみつつある風船の表面に乗っている」という印象的なイメージを案出した10)。さらに、1932年にハッブルとフマーソンによって後退速度と距離の比例関係が1億光年彼方の星雲まで正確に成り立っていることが示されると11)、宇宙項の効果が強く現れるモデルとの不一致が明らかになり、次第に宇宙項のないモデル(基本的には、フリードマンのモデルで宇宙項の係数を零と置いたもの)が好まれるようになる。
長らく少数の専門家によるマイナーな学問にとどまっていた相対論的な宇宙論が、本格的な科学研究の対象となるのは、観測と理論の両面で進捗が見られた1960年頃からだが、この時点ですでに多くの研究者は、宇宙項をシンプルな一般相対論の方程式に対する「余計な付け足し」と見なしていた。例えば、膨張宇宙論と観測データを比較した1961年のサンデージの総説12)の場合、38ページに及ぶ論文の中で、宇宙項を含むモデルは最後の半ページでわずかに触れられているにすぎない。また、1972年に出版され、宇宙論の標準的な教科書として多くの学生・研究者に愛読されたワインバーグの著作13)では、1つのセクションを除いてほぼ全編で宇宙項のないケースが扱われている。
宇宙項の存在しないモデルが主流になった理由は2つある。
宇宙項への理論的な関心が再び高まるのは、1979年にノーベル賞受賞講演でワインバーグが、素粒子論と一般相対論を結びつけると宇宙項が存在する方が自然であり、なぜ宇宙項が小さい値になるかを研究すべきだと示唆してからである15)。
アインシュタイン自身は、1920年代を通じて動的なモデルを受け入れようとせず、フリードマンやルメートルの研究に批判的だったが、盟友エディントンが膨張宇宙モデルをもとにハッブルのデータを解釈した頃から考えを改め、1931年には宇宙項を撤回16)、これ以降、重力波や統一場理論の研究を行う際にも、宇宙項のない方程式を出発点にするようになる。この転向の理由は、観測データが宇宙項のないモデルと合致していたからというよりも、宇宙項を付け加える必然性がなくなったためである。1917年の論文では、宇宙の静的モデルを構築するに当たって、場の方程式を成立させるために宇宙項が要請されていた。しかし、“最初の一撃”で与えられた勢いによって引力を振り切って膨張し続けるという動的モデルを採用するならば、宇宙項はなくてもかまわない。とすれば、シンプルで対称的な宇宙項のない方程式の方が、数学的な美しさを重んじるアインシュタインにとって好ましいのは当然である。後にアインシュタインは、宇宙項を導入したことを「最大のヘマ(biggest blunder)」と述懐したと伝えられる。
ここで気になるのが、1917年にアインシュタインは、そもそもいかなる動機に基づいて宇宙項を導入したかという点である。多くの科学史家は、これを「静的モデルを得るため」と解釈している。典型的な科学史の記述は、次のようなものである17):
In his first attempts to apply the equations of general relativity to the entire universe, Einstein realized that without a repulsive force, gravity will collapse any static distribution of galaxies... Einstein introduced a repulsive force term into the equations to support the (assumed static) universe against its own weight.
こうした解釈は、ハッブルの発見を通じて科学者の抱く宇宙像が静的モデルから動的モデルへとコペルニクス的転回を遂げたという“歴史ドラマ”を強調するためには都合が良いが、必ずしも実証的な論拠があるわけではない。むしろ、1917年論文の内容を詳細に検討すると、宇宙項導入の理由は、より消極的なものだと考えざるを得ない。すなわち、彼は宇宙が動的に変化することを嫌って積極的に宇宙項を導入したのではなく、想定した宇宙の大域的構造が解になるように、しぶしぶ方程式を書き換えたと推測される。
この小論では、アインシュタインの発想法を如実に示す興味深い事例として、彼が宇宙項に到達するまでの具体的な思索経路を明らかにしたい。
アインシュタインは、「物理学の法則はいかなる座標系においても成り立つべきである」という相対性の要請に基づいて一般相対論を構想し、1915年に重力場の基礎方程式(アインシュタイン方程式)を得る。この方程式は、次のような簡単な形で表される18):
Rμν = -κ(Tμν - 1/2gμνT) …(1)
ただし、μ,νは1から4までの値を取り、1〜3はそれぞれx,y,z成分を、4は時間成分を表す(一般相対論の方程式は、多くの場合このように4行4列の行列式の形になる)。Rμνは重力場(=計量場)gμνとその微分を組み合わせて作られるリッチ・テンソルと呼ばれる量で、時空の歪みを表現する。また、Tμνは物質のエネルギー運動量テンソルを表し、質点系では物質の分布と運動によって決定される(T=trTμν)。κは定係数である。この式は、物質の存在が時空の歪みという形で重力を生み出すことを意味する。
ここで、アインシュタインを悩ませる1つの問題が生じる。方程式自体は座標変換に対してその形を変えない(共変性を持つ)が、現実のシステムに適用するときには、複数存在する解集合の中から共変性の破れた1つの解を選ばなければならない。天体の周りの弱い重力場を考察する場合は、天体が静止している座標系において、十分に遠方で時空がユークリッド空間・斉一時間に漸近するような解を選ぶのが妥当だとされる19)。これは、境界条件として、gμνが無限遠で
…(2)
という特別な形になることを要求する20)。しかし、アインシュタインは、この境界条件が現実の世界で常に成り立つとは考えなかった。
アインシュタインが境界条件(2)を拒否した理由はいくつかあるが、最大のものは、これが一般相対性の要請に反する点である。上の条件が成り立つのは、時空を歪ませる物質が空間の有限な領域に押し込められており、その周りに、何も存在しない空虚な空間が無限に拡がっている場合である。ここで、他の物質から十分に離れた地点に孤立して存在する質点を考えると、この質点は上のユークリッド空間に対して等速度運動を行い、加速度運動をさせるためには外から力を加えなければならない(慣性の法則)。しかし、物体同士の相対的な位置関係ではなく、空虚な空間に対して慣性を持つということは、この空間に固定された座標系を特別視することにつながり、現実には相対性の原理が満たされなくなる21)。
上の境界条件が認められなかったもう1つの理由は、重力相互作用だけで有限な領域に物質を押し込んだ状態が不安定だと考えられたからである。ニュートンの重力理論によれば、質点による重力ポテンシャルは無限遠で一定の値に漸近するため、重力相互作用を通じてたまたま大きな運動エネルギーを獲得した質点が無限遠に遠ざかるのを妨げることはできない。(2)の境界条件を採用すると重力の作用は近似的にニュートン理論と一致するため、一般相対論の枠内でも同様な現象が生じ、重力で結ばれた天体のシステムも次第にバラバラになっていくとアインシュタインは主張した22)。
アインシュタインの問題意識は、空虚な無限空間を拒否するという点において、コペルニクス以来の天文学者のそれと共通する。無限大の宇宙が日周回転をするというあり得ない状況を避けるため、恒星天(その上に恒星が載っている天球)で区切られる有界な空間を仮定していたアリストテレス−プトレマイオスの理論とは異なり、地動説に則ったコペルニクス的な宇宙像では、宇宙空間は静止していると考えられるので、地球を含む天体システムの周囲に無限の拡がりがあってもかまわない。だが、ケプラーやガリレイから20世紀初頭に至る天文学者の多くは、適切な理論も有効なデータも欠いていたものの、主として哲学的な観点から、果てしない空虚の一隅に有限な世界が孤立して存在するという描像に批判的だった23)。一般相対論の境界条件という形で物質から遠く離れた空間の状態を考察していたアインシュタインは、天文学者とは異なるルートを辿って、無限の空虚を巡るアポリアに接近していたのである。こうして、彼の興味は必然的に宇宙論に向かうことになる。
アインシュタインが一般相対論を宇宙全体に適用する方法を模索していた1917年前後の時点で、観測的天文学は、1920年代の発見ラッシュを予兆するかのように、多くの謎を抱えながらもそれらを解決する糸口を見いだしつつあった。
最大の謎は、宇宙における銀河系の地位である。太陽系が銀河系(天の川銀河)と呼ばれる円盤状の天体の集まりに属していることは18世紀のハーシェルの研究以来明らかになっていたが、銀河系があらゆる天体を包摂する唯一の構造体なのか(大銀河系説)、それとも無数に存在する島宇宙の1つにすぎないのか(島宇宙説)という点については、天文学者の間で見解が分かれていた。この問題は、19世紀の望遠鏡ではぼんやりとした染みのようにしか見えなかった「星雲」と呼ばれる天体の解釈とも絡んでくる。大銀河系説では全ての星雲が銀河系に含まれるガス雲ないし恒星集団だとされるが、島宇宙説では、星雲には銀河系内星雲と銀河系外星雲の2種類があり、アンドロメダ星雲などは後者に属すると考えられた。20世紀初頭までには渦巻き構造を示す星雲が巨大な恒星集団だという見方が強まり、さらに、1914年に始まる星雲のスペクトル分析の研究成果を踏まえて1910年代後半には島宇宙説が優勢になってくるが、論争に最終的な決着が付けられるのは、ハッブルがアンドロメダ星雲までの距離を、大銀河系の直径として想定されていた40万光年より遥かに大きい93万光年と発表した1925年である24)。
観測的天文学のもう1つの大きな話題は、渦巻星雲の相対運動である。1910年代前半から、スライファーら何人かの天文学者が太陽に対する星雲の運動を調べ、かなり大きな視線速度(秒速数百km)を検出していた。しかし、この時点では、星雲運動の系統的な振舞いは発見されていない。距離と速度の相関関係が研究テーマになるのは1920年代に入ってからであり、1929年のハッブルの論文25)で漸く1つの結論が出されることになる。
1917年の時点で、アインシュタインは、ド・ジッターら何人かの天文学者と交流を持っていたものの、島宇宙や星雲運動に関する最先端データを十分に知っていた訳ではない。1917年論文の中で、宇宙における物質の分布や運動について考察するとき、銀河系内の星(der Stern)しか取り上げず、銀河系外の天体には全く言及していない。また、1921年の講演26)では、銀河系外のデータが得られないために宇宙の平均物質密度を決定できないと述べており、銀河系外星雲の分布から平均密度を求める可能性に思い至っていない。こうしたことから、彼が、銀河系外の天文学的知識をほとんど持っていなかったことが窺える。にもかかわらず、1917年論文で「宇宙はほぼ一様な構造をしている」という現代的な宇宙原理の考えに到達できたのは、一般相対論の境界条件に関する純理論的な研究に、彼の驚異的な直観力が加わった成果だと言えよう。
アインシュタインは、1916年の後半から、境界条件に関する研究を発展させて、宇宙全体の構造を考察するようになる。この過程で最初に考案され、間もなく棄却されたのが、次に述べるかなり奇妙なモデルである。
既に述べたように、彼は、物質が存在する領域から遠く隔たったところで時空がユークリッド空間・斉一時間に漸近するという境界条件(2)に対して、相対性の要請に反するという理由で批判的だった。彼の考えによると、外力を加えないときに物体がどのような運動をするかは他の物質との相対的な位置関係だけで決まるはずであり、何もない空間に対する慣性というものはあり得ない。したがって、物質が存在しない宇宙の辺境では、慣性は消失すべきである。この条件を満たすgμνとして、彼は、次のようなものを提案した27):
…(3)
ただし、εは空間的無限遠で無限小になる量である。
この重力場は、空間が完全に潰れ時間が無限に引き延ばされるような特異性を持つ時空を表している。このとき、慣性質量に相当する量はO(ε5/2)の形で零になり、「外力がないとき、物体は静止座標系に対して等速度運動をする」という慣性の法則は成り立たない。また、重力ポテンシャルが無限大になるため、この領域に近づく物体は、物質が集まっている“宇宙の中心”に向かってはじき返されてしまう。言うなれば、宇宙の彼方に重力バリアとでも呼ぶべきポテンシャル障壁が存在している訳で、その影響で中心部に集められた天体が銀河系のような構造体を形成しているとも解釈できる。
アインシュタインは、このアイデアをかなり気に入って、(3)で表される重力場がアインシュタイン方程式(1)の解になっている可能性をいろいろと調べたようだ。場の方程式を解く場合、(3)のように無限遠が特異点となるような解は、「現実的でない」という理由で排除するのが一般的である28)。こうした物理学の常識に反して、無限遠が特異点になる解こそが現実的だと考えることによって、限られた物質世界の周辺に無限の空虚が拡がるという不愉快な宇宙像を排しようとしたのである。
ところが、研究を続けた結果、期待とは異なって、(3)のような境界条件を持つ重力場は、方程式(1)の解にならないことが明らかになる29)。現在の物理学の知見からすると、これはごく当然の結果と言えるが、アインシュタインにはよほど残念だったらしい。1917年論文では、間違ったアイデアであるにもかかわらず、"etwas indirecten und holperigen Wege"(遠回りででこぼこの道)に読者を案内しようと言って、わざわざ2ページ以上割いてこのモデルを紹介している。
大いに気に入っていたアイデアを自分自身で否定してしまったために、アインシュタインは、再び境界条件を考え直さなければならなくなる。まず取り上げたのは、2つの可能性──すなわち、彼が嫌悪した(2)の境界条件に立ち戻るか、あるいは、そもそも普遍的な境界条件など存在せず、個々のケースごとに特殊な条件が与えられると考えるか──である。しかし、どちらも彼としては承伏しがたいものだった。
突破口が開かれたのは、1917年の初めである30)。それまで「物質が存在する領域から無限に離れたときに空間はどのような状態に漸近するか」という形で問題を設定していたのを改め、そもそも物質から無限に離れられるのかと問い直したのである。ただし、無限に拡がった空間に無限大の物質があると仮定すると、あらゆる地点に無限遠を含む周辺からの影響が及ぶため、重力場を一意的に決められなくなる31)。「物質は空間に瀰漫しているが、その総量は有限である」という状況を現実的なモデルで表現しなければならない。こうして彼が到達するのが、空間が一様な正の曲率を持ち、閉じた球面を構成しているというモデルである。この場合、空間はどの部分もほぼ一定の密度で物質を含んでおり、全ての物質から遠く離れた宇宙の辺境はどこにも存在しない。ある地点から出発して一方向に進んでいくと、何ら変哲のない場所を経巡った挙げ句に宇宙を一周して出発点に戻ってしまう。その意味で、この発想の転換は、大地が平坦ではなく球面をなしていると思い至った古代の哲学者の発見になぞらえることができる。
この世界が「閉じた球面状の空間」になっているというアイデア自体は、19世紀半ばにリーマンが提出しており、アインシュタインがこれを借用したのか、あるいは、別の思考経路を辿って同じ考えに到達したのかは明らかではない。いずれにせよ、閉じた球面状空間に物質を一様に分布させて場の方程式を満足する重力場の解を得るという発想は、完全にアインシュタイン独自のものであり、彼の最大の業績の1つに数えて良い。
球面空間を構成する重力場を求めるには、一般に極座標を用いて計算するのが簡単であり、1917年以降には多くの研究者がそのやり方を採用している32)。しかし、それまで球面解を扱ったことのなかったアインシュタインは、より直接的な方法で計算を遂行した。まず、3次元の球面解を得るために、4次元空間(x,y,z,w)に存在する球の表面:
x2 + y2 + z2 + w2 = R2 …(4)
を考える。この球面上の線素を、(4)を利用してwを消去した残りの3つの座標(x,y,z)を使って表せば、4次元球の表面である3次元空間の重力場(計量場)gμνの式が得られる。この式は、極座標表示のものに比べて複雑で一般的な計算には向かないが、静的なケースでのパラメータの関係式を求める場合には計算が簡単になる。
球面空間の重力場の式が得られると、次に問題となるのは、これがアインシュタイン方程式(1)を満たす現実的な解かどうかをチェックすることである。ここでアインシュタインは、必ずしも正当化できないいくつかの重大な仮定を置いている。
まず、右辺に現れるTμνを求めるに当たって、「恒星の相対速度が光速に比べてきわめて小さい」というデータをもとに、全ての物質が静止していると見なせる特別な座標系が存在すると仮定している。しかし、これは奇妙な仮定である。恒星の速度が小さいというのはあくまで銀河系内部の観測に基づく知見であり、銀河系外の天体についてはほとんどデータはなかった(銀河系外星雲の運動に関する報告はアインシュタインの耳に届いていない)。閉じた球面状の空間に物質がほぼ一定の密度で分布しているというモデルを採用するならば、物質が偏在している銀河系領域だけでなく、その外部の天体も考慮に入れなければならない。にもかかわらず、銀河系内のデータを宇宙全体に外挿して全物質が準静的だと仮定することは無理がある。
さらに、アインシュタインは、重力場gμνの各成分が時間に依存しないことを天下り的に仮定する。特に、球面空間の大きさを表す(4)のRは時間に依存しない定数とされる。これは、時間的に変化する重力場の中で物質が静止することはあり得ないという思いが念頭にあって、自然な仮定として措定されたと推測されるが、球面空間の重力場が方程式を満たすかどうかを検討する際に、あらかじめ式の形を限定するのは妥当ではない。
このように、物質分布と重力場が静的であるという仮定は物理学的には正当化できないものではあるが、これらを採用した心理は忖度できる。もともとアインシュタインの研究テーマは、物質が存在している領域から無限に離れた地点での境界条件の定式化であるが、これは、現実の物理的世界においては、銀河系から遥かに離れた宇宙空間の状態を問題とすることに相当する。この場合、銀河系が準静的状態にあるため、遠方の空間も時間的に変化しないと仮定することに無理はない。ここから出発しながら、「遠方はユークリッド空間になる」「遠方には重力バリアがある」という2つの仮説を自ら否定し、一度は行き詰まった後に、彼は「物質から無限に離れることはできない」という形で問題を設定し直すことになる。厳密に言えば、この時点で、銀河系のデータに依拠する議論は有効性を失う。しかし、彼には、一貫して同一のテーマを探求しているという意識があるため、それまで用いていた仮定を自然に引き継いでしまった訳である。
以上の(妥当でない)仮定を採用すると、アインシュタイン方程式(1)の両辺の具体的な表式が求められる。
球面空間の重力場の式はかなり複雑な形をしているが、空間が一様であるならば、方程式が満たされているかどうかのチェックはどの点で行ってもかまわないので、最も式が簡単になる原点(x=y=z=0)で計算すれば良い。この点では、重力場gμνは次のような簡単な形になる:
…(5)
このとき、方程式左辺のリッチ・テンソルRμνは、
…(6)
と求められる。また、右辺の括弧内は、平均物質密度をρとすると、
…(7)
となる33)。
明らかに(6)と(7)を使ってアインシュタイン方程式(1)を満足させることはできない。しかし、閉じた球面状の空間という画期的なアイデアに惹かれていたアインシュタインは、これを捨て去ることを肯んぜず、方程式そのものを変更する道を選んだ。すなわち、アインシュタイン方程式(1)からのずれが対角要素に限られていることに着目し、左辺に重力場gμνに比例する項を付加して、場の方程式を
Rμν - λgμν = -κ(Tμν - 1/2gμνT) …(8)
に書き換えてしまう。この方程式も元のアインシュタイン方程式と同様に座標変換に対して共変な形をしており、一般相対性の要請を満たしている。ここで、
λ = κρ/2 = 1/R2 …(9)
という関係式が満たされていれば、(5)〜(7)が方程式(8)を満たしていることは容易に確かめられる。方程式(8)に導入された付加項-λgμνがいわゆる宇宙項であり、λが宇宙定数を表す。アインシュタインは、(8)が正しい重力場の方程式であり、宇宙はその静止解である閉じた球面状の空間になっていると見なすことになる。
以上のような経緯を顧みると、アインシュタインが宇宙の不安定性を避けようとして積極的に宇宙項の導入を試みた形跡はない。彼は、付加項が反重力効果をもたらすことを認識しておらず、単に球面空間が解になるように方程式を書き換えているにすぎない。また、関係式(9)によれば、初期条件として与えられるべき物質密度ρと宇宙の大きさを表すパラメータRが、基礎方程式に現れる物理定数λによって一意的に決定されており、この物理系が「過剰決定系」である(すなわち、条件式の数が多すぎる)ことを示しているが、この点についても十分に顧慮していない。
論文の末尾で、アインシュタインは、「この付加項は、物質の準静的な分布を可能にするためだけに必要だった」という“言い訳”をしており、宇宙項がなければ動的な解が存在すると考えていたようにも受け取れる。しかし、この記述は、前後のつながりからみて、「閉じた球面状の空間」という宇宙モデルを捏造するためにわざわざ宇宙項を付加したのではないという主張と解釈すべきである。彼にとって重要なのは、境界条件を不要にした球面空間のアイデアであり、宇宙項は、このアイデアを物理的に正当化するためにしぶしぶ導入したにすぎない。