第1章.生命倫理の基本理念
- 生命倫理(bioethics)あるいは医の倫理(medical ethics)の必要性
- 脳死と臓器移植、尊厳死、顕微受精、遺伝子治療など
- 「正解」はなく、多くの経験の積み重ねが必要
- かつては、医師が一方的に治療を施していた
- 現在では、患者−医師関係がより能動的に
- 医 師
- 情報提供↓↑治療方法の選択/拒否
- 患 者(自己決定権)
- 背景:医療手段の多様化・複雑化、医学的知識の普及
- 患者の権利宣言(アメリカ病院協会、1973)
- (前文省略)
- 1.患者は、思いやりと敬意に満ちた看護を受ける権利を有する。
- 2.患者は、その担当医から、自分の診断・治療・予後について、理解できる表現による完全な情報を得る権利を有する。
そのような情報を患者に与えることが医学的見地から適当でないと思われる場合には、本人に代わる適当な人に伝えなければならない。
- 3.患者は、あらゆる処置および治療が開始されるに先立ち、同意する上で必要な情報を、担当医から得る権利を有する。
緊急な場合を除き、かかる同意のための情報には、特殊な処置や治療、医学的に有意なリスクおよび無能力状態が続くと予想される
期間を含まなければならない・・・
- 4.患者は、法が許す範囲で治療を拒否する権利を有すると同時に、かかる拒否行為がもたらす医学的結果に関する
情報を得る権利を有する。
- (以下省略)
- インフォームド・コンセント(説明した上での同意)
- インフォームド・コンセントの内容
- (1)患者の病名/病状を正しく伝える
- (2)治療に必要な検査の目的と内容を伝える
- (3)治療のリスクや予想される副作用を伝える
- (4)治療法や処置の成功の確率を説明する
- (5)代替法があれば説明する
- (6)治療を拒否するとどうなるかを伝える
- 単なる法的な概念ではなくが、倫理的な性格を有する。
- 意志決定能力を持つ個人が、各個人の価値観/人生観に基づいて自己の健康管理を行うべきだという原則による。
- 医師と患者の相互協力が必要になる。
- ※注意
- (1)「すべて知るべし」の権利ではない
- (2)権利の放棄も可能
- (3)同意した後取り消すこともできる
- インフォームド・コンセントの問題点
- どこまで真実を伝えるべきか
- ガンの告知
- 60年頃までは米国でも90%は告知せず
- 現在では治療法も多様になり患者に選択の余地あり
- (例:乳ガンの乳房温存療法)
- より微妙なケースはどうするか
- (例:脳動静脈奇形、ハンチントン舞踏病)
- 危険性を強調すると手術の成功率が低下することも
- プラシボ効果の利用は許されないか
- 患者をだますプラシボは許されない
- 鎮痛効果を援用することも
- “素人”判断に委ねるべきか
- エイズ感染者の出産
- (女性と胎児の権利の問題、中絶の強制はできない)
- 生体肝移植(危険性の認識)
- 当人の同意が得られない/信用できない場合
- 昏睡状態のとき
- 「リビング・ウィル」が最良の方法
- 一般的にはQOLを重視
- 鬱状態で判断力が低下しているとき
- 経験的に対処すべきか?
- 小児/精神遅滞者の場合
- ある基準以上ならば本人の意向を尊重
- インフォームド・コンセントが充分に行われない理由(日本医師会、1990)
- 説明しても患者の理解が得られない(46.1%)
- 患者数が多くて時間的余裕がなり(31.4%)
- 患者が説明を希望しない(8.4%)
第2章.死を選ぶ権利
- 東海大病院「安楽死」事件
- 事件の概要:(省略)
- 事件の背景:(省略)
- 事件後の対応:(省略)
- マスコミの報道:(省略)
- 安楽死が許されるための要件(名古屋高裁、1962)
- 「いわゆる安楽死を認めるべきか否かについては、議論の存するところであるが、それはなんといっても、
人為的に至尊なるべき人命を絶つのであるから、次のような厳しい要件のもとにのみ、これを是認しうるにとどまるであろう。
- 病者が現代医学の知識から見て不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること。
- 病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること。
- もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
- 病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託または承認のあること。
- 医師の手によることを本則とし、これによりえない場合には医師によりえないと首肯するに足る特別な事情のあること。
- その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。
- これらの要件がすべて充たされるのでなければ、安楽死としてその行為の違法性まで否定し得るものではないと
解すべきであろう」
- カレン・アン・クインラン事件
- 事件の概要:(省略)
- ニュージャージー州最高裁判決:(省略)
- 安楽死概念の歴史的変遷
- ギリシャ哲学者(ソクラテス、エピクテトス):安楽死を容認
- ストア哲学者(マルクス・アウレリウス):老化から自らを解放できる
- 初期キリスト教(アウグスティヌス、トマス・アクィナス):
- 「自殺は憎むべきもの」「死ぬときは神が決める」
- 19世紀ヨーロッパ 安楽死(Euthanasia)概念の成立
- 〜1940 安楽死を支持する動きが活発化
- ギラード博士「安楽死の立法化に対する弁護」
- J.ハックスレー、バーナード・ショー、H.G.ウェルズらが支持
- 米 安楽死協会創設(1938)
- 〜1950 戦争のため安楽死運動は後退
- ナチの戦争犯罪(「精神的欠陥者」「不具者」の安楽殺)
- クサビ理論(一度安楽死を認めると拡大解釈される)
- 〜1960 自発的安楽死を容認する動き
- サンダー博士事件 末期癌の患者の静脈に空気を注入して死なせる(1949)
- →翌年、無罪判決。医師免許を停止されるが、後に復職。
- ピウス12世 自発的消極的安楽死を容認
- 〜1970年代半ば 生命の無益な伸長への反対意見が強まる
- キューブラー・ロス 死に至る5段階(1965)
- 米 安楽死協会 リビング・ウィルの配布(1972)
- ギャラップ調査(1973) 自発的積極的安楽死を53%が容認
- 慈悲殺事件
- ロバート・ワスキン事件(1965):ガンで苦しむ母親を殺害
- →精神異常を理由に無罪
- モンテマラノ博士事件(1973):咽頭癌患者を殺害
- →陪審の評決は無罪
- 1970年代半ば〜 消極的安楽死容認の判決が定着、一部法制化も
- カレン・クインラン事件(省略)
- カリフォルニア州自然死法成立(1976)
- 事前指示がある場合、末期患者の延命治療を中止
- サイケヴィッチ事件判決(マサチューセッツ州最高裁、1977)
- 急性白血病の精神障害者への延命治療を中止
- 安楽死の分類(J.フレッチャーによる)
- 積極的(direct):致死量の薬物などによって物理的に死に到らしめる
- 消極的(in-):延命治療の中止、苦痛の緩和により結果的に死期を早める
- 自発的(voluntary):正常な精神状態における患者本人の意思による
- 非自発的(in-):患者の意志によらない
- 積極的−非自発的:
- 慈悲殺(mercy killing)、法的に認める国はない
- 積極的−自発的:
- 医師による自殺幇助など(ケボキアン医師事件→判決は分かれる)
- 多くの論者が批判
- 誤診、治療法の開発、患者の心境の変化
- ペイン・クリニックが効果的、クサビ理論
- 消極的−非自発的:
- カレン・クインラン事件など、医療現場で暗黙裏に実行
- 代行判断、推定判断になるため議論が続く
- 消極的−自発的:
- 尊厳死、無益な延命治療を中止
- 世界的に認められつつある
- ペイン・クリニックによる生命の短縮について
- 大幅な生命の短縮は起こり得ないとの予測の下に実行
- 苦痛から免れる利益を優先
- 麻薬系鎮痛薬(塩酸モルヒネなど)の問題
第3章.脳死と臓器移植
- 「死」の概念の変化
- 死の3徴候:呼吸停止、拍動停止、瞳孔散大
- 定義変更の必要性
- 医療の進歩により、呼吸や拍動の停止が必ずしも死と同一でない
- 法律、社会制度、公衆衛生および医療の観点から統一性が必要
- 「脳死」概念の発展
- 1959 フランス人臨床チーム「過昏睡」概念を提出
- 呼吸補助を受けている患者の著しく深い昏睡状態
- 死後の解剖により脳の広範な自己融解を確認
- 「全脳の不可逆的機能停止=死」の論拠
- 統合機能説:全脳による身体各部の機能統合を重視
- 最優位臓器説:脳の機能こそが生きていることの指標
- ※高次脳ないし脳幹の機能停止を死とする論拠は薄弱
- 脳死に到る過程
- 1次性病変または2次性低酸素状態
- →脳浮腫→頭蓋内圧上昇→脳血流停止→不可逆的機能停止
- 脳死の判定基準
- 判定基準の条件(大統領委員会答申)
- (1)生者を死んでいると判定する誤りを排除する
- (2)死者を生きていると判定する誤りを極力少なくする
- (3)不当に遅れることなく判定できる
- (4)さまざまな臨床の場に対応できる
- (5)明白で確認しやすい
- ハーバード基準(1968)「不可逆性昏睡」:(省略)
- 厚生省基準(1985)
- 必須条件:
- 器質性脳障害(1次性/2次性を問わず)
- 深昏睡、無呼吸
- 原疾患の確定(画像診断法による)
- 回復不能
- 除外例:
- 小児(6歳未満)
- 脳死と類似した状態になりうる症例(薬物中毒など)
- 判定基準
- 深昏睡(III-3方式で300)
- 自発呼吸の喪失(無呼吸テスト)
- 瞳孔の散大・固定(左右とも4mm以上)
- 脳幹反射の喪失(対光反射など)
- 平坦脳波
- 時間的経過(上記の状態が6時間経っても変化ない)
- 留意点
- 筋弛緩薬などの影響を除外する
- 判定の手順
- 検査結果の記録を残す
- 十分な経験を持つ2人以上の医師による
- 厚生省基準への批判
- 脳機能停止の検査が運動出力のあるものだけ
- →聴性脳幹反応、アトロピンテストも必要
- 不可逆性の確認が不十分
- →脳血流測定を入れるべき
- 臓器移植の歴史
- 初期は、拒絶反応により移植患者死亡
- 第一世代(免疫抑制剤としてアザチオプリンを使用)
- 腎臓(1963〜)、肝臓(1963〜)、心臓(1967〜)
- 第二世代(シクロスポリン)
- 腎臓:1年生着率 血縁腎95.5% 死体腎84.0%
- 死体腎は阻血性腎障害を起こしていることが多い
- 同障害のない腎臓の場合、1年生着率95.3%
- 透析患者の尿毒症は移植後短期間で改善
- 心臓:5年生存率80%(1990)
- 肝臓:1年生存率80%、5年生存率60〜70%(1990)
- 手術中に血流を止める技術の開発が貢献
- 第三世代(FK506など)
- 臓器移植の基本条件
- 確実な脳死判定
- 臓器提供の承認(誰の?)
- レシピエントへのインフォームド・コンセント
- 公平性の確保(移植ネットワーク)
- 臓器売買の禁止
- ドナーカード制度
- 手続きはどこまで簡単化すべきか
- 欧米では、運転免許証を利用したシステムが普及
- 仏、ベルギーなどでは提供したくない人が届け出
- ドナーカード登録者だけでは臓器が絶対的に不足
- 臓器移植ネットワーク
- HLA抗原の適合性により移植患者を決定
- 移植情報の24時間サービス
- 日本の現状(省略)
- 【コメント】この講義をした92〜93年当時は、臓器移植法案の素案もまとまっておらず、
脳死体からの移植に反対する声も強かったが、1997年に臓器移植法が成立してから、
日本でも漸く臓器移植を行う体制が整った。
- 臓器移植を巡る事件
- 筑波大 膵腎同時移植事件(1984)(省略)
- 「尊厳死女性からの腎臓摘出」事件(1992)(省略)
- 九大 肝臓移植事件(1993)(省略)
第4章.神を演出する
- 生殖医療
- 人工妊娠中絶(省略)
- 人工体内授精(省略)
- 体外受精
- 安全性(母体への危険は小さい、胎児への影響は不明)
- 多胎妊娠が多い(通常3個以上の受精卵を移植)
- →一部だけを中絶するケースも
- 余剰胎芽の問題
- 新技術の開発(兼備授精、人工着床など)
- 代理母(省略)
- 男女の産み分け(省略)
- 出生前の診断と治療
- 超音波検査(省略)
- 羊水穿刺(省略)
- 胎児鏡検査(省略)
- 絨毛採取法(省略)
- 母体血清の生化学的検査
- 異常が発見された場合の処置
- 両親には的確な説明とカウンセリングが必要
- 異常がない場合の性別情報は知らせない
- 胎内治療を行う場合もある
- 人工中絶は両親の判断に任せる
- 選択的堕胎も可能
- 胎内治療
- 輸血:重度の貧血の場合に実施(唯一の標準的治療)
- 薬物治療:心拍異常への抗不整脈薬、ビタミン/ホルモン
- 出産後に障害児となるリスクも高まる
- 医学研究への胎児の利用
- 実施例:
- 胎児の骨髄や幹細胞を貧血/白血病の治療に
- (チェルノブイリ事故の際に被曝者に注入)
- 脳細胞をパーキンソン病患者に移植
- 妊婦への投薬の影響評価
- 胎児研究の倫理的ガイドライン
- 他に研究方法がない場合に限る
- 倫理委員会による認可を要する
- 胎児の解剖や臓器摘出は分娩室外で行う
- 充分な記録を残す
- 母胎外で生きられる胎児は用いない
- 新生児治療とQOL
- 乳児集中治療室(ICN)
- 米では年間23万人の乳児が治療を受ける
- 多くの未熟児が治療を要する
- (呼吸不全、脳/肺出血、Ca欠乏症、各種感染症)
- 過去20年で生存率が劇的に向上
- 20年前1kg以下の新生児の90%が死亡
- →現在では過半数が生き延びる
- レベルIIIのICNでは680g以下でも75%が生存
- 問題点:
- 治療の高額化(早産の子供で数万ドル)
- 治療不能な障害が残るケースも多い
- (低酸素症による脳障害など)
- 新生児殺は許されるか
- ホプキンズ・ケース(1971)(省略)
- ベビー・ドゥ問題(1982)(省略)
- 遺伝子スクリーニング
- ハンチントン舞踏病(常染色体優性遺伝)
- 症状:
- 壮年になってから確実に発病
- 運動障害・記憶喪失・精神異常が緩慢に進んで死に至る
- 「人間がかかり得る最悪の病気の1つ」
- 発病後の自殺率8%
- 1983 発症前のDNA診断が可能に(治療は不可能)
- 保因者と判明した場合に告知すべきか?その子供の検査は?
- 雇用者や生命保険会社が検査結果を入手するとどうなるか?
- 養子縁組機関が医師に調査を要請したことも
- テイ=ザックス病(省略)
- 遺伝子スクリーニングの問題点
- 保因者に対する差別を助長
- (サラセミアや鎌形血球病の例では少数民族が差別された)
- 雇用者や保険会社が結果を入手する危険も
- 胎児を中絶するかどうかは最終的に両親に決断させる
- 遺伝子治療
- 2000〜3000の単一遺伝子病が確認
- 従来の治療
- 対症療法:糖尿病のインシュリン治療など
- オーファン・ドラッグ
- 体細胞に対する遺伝子治療は実用化に向かう
- ADA欠損による免疫不全症に対して実施
- 遺伝子を組み込んだ細胞を移植
- 生殖細胞に対する遺伝子治療には批判が多い
- 動物実験:スーパーマウス
- 成長ホルモン遺伝子を胚に注入、6%の成功率で巨大に
- 予測がつかない問題が次世代に受け継がれる危険性がある
©Nobuo YOSHIDA