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人間因子の問題



 

チェルノブイリ原発事故(1)


■事故の概要

 チェルノブイリ原子力発電所は、ウクライナ共和国(旧ソ連)の首都キエフ(人口50万人)の北130kmのプリピャチ河畔に位置し、周囲を針葉樹林と草原に囲まれている。1986年4月26日未明、4号炉を停止する際に行われた実験の途中で原子炉が暴走、出力が急上昇して爆発する事故が起きた。この結果、原子炉建屋が大破し、炉の中にたまっていた放射性物質がウクライナ、ベラルーシを中心とする全ヨーロッパに飛散した。被曝者が500万人にも上る被害の実態は完全には解明されていないが、事故後30年間にわたる致死的ガンの発生数は、少ない見積もりで数千人、多い見積もりで数十万人だと言われる。原発周辺地域では、子供の甲状腺ガンなど、原子炉事故特有の疾病が多発していることが報告されている。

 当時のソ連では、ゴルバチョフ大統領の下で従来の官僚主義的な体制を改めるべくペレストロイカ(改革)路線が押し進められており、その要となる政策がグラスノスチ(情報公開)だとされていた。事故が起きた直後、ソ連当局は国民にも外国にもその事実をひた隠しにし、スウェーデンの観測所が放射性物質を検出して事故の発生が否定できなくなってからも、被害を軽微なものと発表していた。しかし、ゴルバチョフ大統領が陣頭指揮を執ってからは、それまでのソ連からは考えられないほど大量の情報が発表され、事故の実態がかなり明らかになってきた。特に、86年8月14日に国際原子力機関(IAEA)に提出された事故報告書には、原子炉の仕組みや事故のプロセスが詳細に記載されており、西側の関係者を驚かせた。

 しかし、その後の調査・研究によって、ソ連が発表した事故の内容は、事実をかなりねじ曲げたものであることが明らかになってきた。ソ連当局の見解では、事故の原因は、安全規則を無視したオペレータの不適切な操作にあるものとされ、中でも、事故で死亡した若いオペレータに責任の多くが押しつけられている。こうした観点から、責任者を弾劾する裁判では、事故当時作業に当たっていたオペレータと原発の管理者に対して、厳しい判決が出されることになった。だが、現在では、こうした個人の責任もさることながら、事故を引き起こした最大の要因は、原子炉の欠陥にあると考えられている。簡単に言えば、チェルノブイリ型原子炉は、きわめて暴走しやすい危険な「欠陥炉」であり、十分な訓練を受けていないオペレータが制御するのは無理があるということだ。チェルノブイリ型原子炉は、電力供給が逼迫していたソ連が積極的に開発を進めていたものであり、ソ連当局としては、おいそれとその欠陥を認めるわけにはいかなかったのだろう。


■原子炉の特徴

 チェルノブイリ型原子炉は、黒鉛減速・軽水冷却・沸騰水型チャネル炉(RBMK型)と呼ばれるもので、ソ連が独自に開発した特殊な原子炉である。原子力発電の技術は、アメリカが世界をリードしており、日本を初めとする多くの国は、アメリカからの技術供与を受けて原発を建設してきた。しかし、共産主義国は、軍事に応用可能な高度技術の提供を受けられなかったため、自前で原子力技術を開発するしかなかったのである。

 RBMK型の最大の特徴は、ウェスティングハウスやジェネラル・エレクトリック製の原子炉に見られる巨大な(典型的なものは高さが10mを越える)圧力容器を持たないという点にある。多量の核燃料を圧力容器内で集中的に反応させる代わりに、18本の燃料棒が納められた比較的小さな圧力管を多数(チェルノブイリ4号炉の場合は1661本)配置し、核反応を分散させるものである。圧力管の周囲には、多数のパイプから供給される冷却水が流れており、核分裂熱で熱せられてから再び多数のパイプを通じて気水分離器に送られ、タービンを回転させるための乾燥蒸気を作り出す。言うなれば、巨大な原子炉の代わりに、小さな原子炉を沢山集めて発電を行っているのが、RBMK型の原子炉なのである。

 RBMK型は、1980年代に旧ソ連と東欧圏で積極的に利用された原子炉である。チェルノブイリ事故から6年経った1992年の時点でも、ロシア・ウクライナを中心に16基のRBMK型原子炉が稼働している。この背景には、技術的・経済的・社会的な要因が存在している。

 RBMK型のメリットは、何よりも、巨大な圧力容器を製造する上での困難を回避できることだろう。均質で十分な強度を持った巨大な圧力容器を炭素鋼で製造するには、きわめて高度な技術が要求される上、専用の大工場が必要になるため、一般にコストがかさむ。技術的・経済的な面で伸び悩んでいたソ連としてみれば、小工場で比較的容易に製造できる圧力管を用いたRBMK型の原子炉は、何かと好都合だった。

 さらに、運転効率の良さや規模拡大の容易さも、ソ連がRBMK型の採用に前向きだった理由である。すべての核燃料が圧力容器内に納められているアメリカ製原子炉では、燃料交換を行うためには、核反応をいったん完全に停止しなければならない。一般に、原子炉は一度停止すると再立ち上げに長時間を要するので、燃料交換の作業はいかにも不経済である。これに対し、RBMK型の場合は、発電中でも個々の圧力管を引っこ抜いて差し替えることができるので、燃料交換のために原子炉を停止する必要がなく、運転効率が良い。また、圧力管の本数を増やすことによって比較的容易に規模の拡大を図ることも可能である。いずれの性質も、電力供給が逼迫していた当時のソ連には好ましいものと言えた。

 このように、RBMK型原子炉にはさまざまのメリットがあったが、致命的な問題点が存在していた。それは、低出力時に正のフィードバック効果によって不安定なるという点である。

 原子力発電を行うためには、核反応の出力はほぼ一定でなければならない。出力の制御は、制御棒の挿入やホウ酸水の注入などの能動的な操作によっても行われるが、こうした操作は核反応と比べると長い時間を要し緊急時には間に合わないため、原子炉自身が出力を一定に保つような性質を持つことが要求される。すなわち、何らかの事情で出力が増えた場合は自動的に核反応が抑制され、逆に、出力が低下すると核反応を活性化するようなメカニズム−−いわゆる負のフィードバック−−が働かなければならない。アメリカ製の原子炉では、水の減速作用やドップラー効果がこうした負のフィードバックを行う(物理的な説明は省略)ため、核反応は一定のレベルを保ちやすい。しかし、RBMK型原子炉は、320万kWの定格出力のときは出力が安定するものの、70万kW以下の低出力になると、逆に正のフィードバックが働いて、出力が増え始めるといっそう核反応をさかんにするような振舞いを示す。これは、きわめて危険な性質であり、熟練していない人間が制御することは困難である。

 こうしたRBMK型特有の危険性に加えて、チェルノブイリ原発の原子炉は、全部で211本ある制御棒にも問題を抱えていた。第1に、制御棒の挿入速度が遅く緊急時に間に合わない。第2に、制御棒を完全に引き抜いた場合、先端部に空隙があるという設計上の欠陥のため、再挿入する際に一時的に反応度が上昇する。制御棒は、核反応を人間が手動で制御する上で最も有効な装置なので、この欠陥は、重大な結果を引き起こす要因となる。

 もちろん、チェルノブイリ原発の原子炉を設計した技術者たちは、こうした危険性を十分に承知していた。この危険な原子炉を手なずけるために彼らが行ったことは、安全を保つためのさまざまの規則を設けることであった。すなわち、(1)低出力の時に不安定になる危険があるため、低出力での運転は禁止する;(2)制御棒に問題があるので、制御棒の抜きすぎを禁止する(正確には、制御棒の挿入の程度を表す反応度操作余裕という量を定義して、これが定められた値以下にならないようにする)−−こうした「規則」によって、原子炉が持つ危険性を回避しようとしたのである。しかし、このやり方がうまくいくためには、こうした安全規則を周知徹底させておき、その上で、作業員のモラルを十分に高めておかねばならない。チェルノブイリ原発では、この基本が守られていなかったのである。



 

チェルノブイリ原発事故(2)


■核反応の制御

 ここで、事故がなぜ起きたかを明確にするために、核反応の制御がどのようにして行われているかを簡単に述べておく。

 通常の原子炉では、ウラン235の核分裂を通じてエネルギーを得ている。陽子92個と中性子143個を含むウラン235の原子核は、(ある範囲のエネルギーを持った)中性子をぶつけることによって分裂する。大きな2つの破片は放射性物質であることが多く、いわゆる「死の灰」となって原子炉内部に蓄積されていく。重要なのは、この分裂の際に2〜3個の中性子が放出されることであり、この中性子が(エネルギーを適当な値に減らしてから)他のウラン原子核にぶつかると、さらに核分裂が起きる。このため、ウランの密度と中性子のエネルギーを減らす物質(減速材と呼ばれる)の分布を適当に調節しておけば、連鎖的に核分裂が続いていく(下図)。連鎖反応によって分裂する原子核の数が指数関数的に増えていって短期間のうちに膨大なエネルギーが放出される過程が「原子爆発」である。原子力発電では、常に一定の割合で核分裂が続くように連鎖反応を制御することが必要になる。

fig2

 連鎖反応の制御は、さまざまなプロセスを通じて行われるが、最も重要なのは、核分裂を引き起こす中性子の個数の調節であり、主に制御棒の操作を通じて行われる。中性子を吸収する素材で作られている制御棒は、オペレータやコンピュータの指示によって原子炉への挿入度合いを調節することができ、出力を抑制したいときには深く挿入して中性子の吸収率を高め、逆に出力を増大したいときには原子炉から抜いて吸収される中性子の割合を減らす。チェルノブイリ原発4号炉には、総数211本の制御棒が設置されており、これらを部分的に出し入れすることによって、均一かつ定常的な出力を実現している。

 チェルノブイリ原発事故で問題になったのは、制御棒とともに、原子炉内の冷却水が、中性子を吸収して過剰な核分裂を防ぐ役割を果たしていた点である。水が吸収材になっている原子炉では、正のフィードバックによる不安定性が生じやすい。このことは、何らかの理由で水温がわずかに上昇したときにどうなるかを考えれば、わかりやすいだろう。このとき、次の一連の過程が生じる。

  1. 水温が上昇する
  2. 水中の気泡が増大する
  3. 中性子の吸収率が下がる
  4. 核分裂の割合が増す

fig3  気泡が増えると、中性子の通り道を遮る水の分子が減るので、水中で吸収される中性子の割合が少なくなるのである(右図)。ここで重要なのは、核分裂の割合が増えて熱出力が増大すると、さらなる水温の上昇を招くという点である。すなわち、ひとたび水温が上昇すると、上のプロセスを順に辿ったあげくに水温がいっそう上昇するという悪循環に陥り、水温の上昇(あるいは出力の増大)がどこまでも続いていくことになる。逆に、温度が下がり始めると、今度は、温度の低下(出力の減少)をもたらす無限ループにはまりこむ。このように、系に加えられた状態の変化が、一連の過程を経て元の変化をいっそう増大する方向に作用するプロセスは、正のフィードバックと呼ばれ、システムを不安定にする元凶として恐れられている。チェルノブイリ原発で使用されていたRBMK型原子炉の場合、定常運転のときには水による中性子の吸収効果以外にいろいろな要因が作用して、こうした不安定性は生じないが、熱出力70万kW以下の低出力のときに、この正のフィードバックを引き起こして不安定になるものだった。

 こうした不安定な原子炉で危険を回避するためには、充分な訓練を受け危機に陥ったときの対処法を熟知したオペレータが、高いモラルを維持しながら操作する必要がある。しかし、チェルノブイリ原発では、専門的な技術仕様書には危険性が記載されていたものの、核物理に関する専門知識を持たず分厚い仕様書に目を通すことのないオペレータたちは、低出力時の不安定性についてほとんど理解しないまま運転を続けていた。彼らの認識では、たとえ出力が不安定になったとしても、緊急停止ボタンを押して制御棒を挿入すれば何とかなるはずだった。ところが、すでに述べたように、この原発の制御棒はスピードが遅い上に、完全に引き抜いてから再挿入しようとすると、中性子を吸収しない先端部の空隙が(吸収材である水を押し出しながら)原子炉に入っていくので、中性子の吸収率が下がり、一時的に核反応が増進されるという問題がある。現場のオペレータは、このような危険性をまったく知らないまま、薄氷を踏むような危険な作業を続けていたのである。


■慣性回転による発電実験

 定常運転をしているとき、タービンは高温の蒸気の流れを受けて回転しているが、蒸気を断っても、巨大な質量が持つ慣性でしばらく回転を続けている。チェルノブイリ原発では、この慣性回転を利用して、ECCS(緊急炉心冷却装置)のポンプを起動するのに充分な発電が行えるかどうかを調べる実験が、1986年4月25日に行われようとしていた。

 ECCSは、何らかの事故が発生したときに炉心を急速に冷却するための装置であり、これが確実に起動しなければ、原発の安全はおぼつかなくなる。大地震などでですべての原子炉を緊急に停止しなければならない事態に陥った場合、ECCSのポンプを動かす電力は、他の発電所からの送電に頼ることになるが、当時のウクライナ地方では停電が頻発しており、緊急の際に外部電源が確保できない可能性は決して低くなかった。こうした事態に備えて自家発電用のディーゼル発電機が設置されていたが、ソ連製の発電機は性能が悪く、スイッチを入れても立ち上がるまでに1分以上要することもあり、炉心の冷却が手遅れになる心配がある。このため、タービンの慣性回転を利用して、ディーゼル発電機が立ち上がるまでのつなぎの電力が得られるかどうかは、安全性を維持する上で重要な意義を持つ。

 この実験は、いくつかのプレッシャの下で行われた。第一に、単に数値データを得るだけではなく、ECCSを起動するのに充分な電力が起こせるというポジティブな結果を出すことが求められていた。第二に、タービンへの蒸気供給を断った状態で実験を行うため、保守点検などで原子炉を停止する機会を利用しなければないが、そうした機会は1年に1回しかないため、失敗は許されない状況にあった。こうした心理的重圧が、後で見るように、かなり無理な条件下で実験を強行させることになる。


■事故の経過

 実験の過程を、時間を追って見ていくことにしよう(熱出力の変化の概略を記した図を掲げる)。なお、ソ連原子力利用国家委員会が事故後に作成した調査報告書では、事故の原因はオペレータの度重なる安全規則違反にあるとされており、この主張は必ずしも妥当ではないが、参考のため、以下のタイムチャートには、指摘された規則違反を記入しておく。

fig4
1986年4月25日
01:00 原子炉の出力を下げ始める。
13:15 熱出力160万kW(最大出力の50%)まで低下。第7タービン発電機の接続切断、主ポンプへは第8タービンが送電。
14:00 実験計画書通り、ECCS信号をオフにする(第1の安全規則違反)。キエフ市送電管理所から23:10までの送電要請があったので、ECCSをオフにしたまま、50%の出力で発電を続ける。
【注】ECCSの切断は、実験計画書に従った行為で、それ自体がオペレータのミスとは言えない(ただし、この状態で発電を続けたのは過失である)。実験開始が9時間遅延したことは、事故の直接の原因ではないが、オペレータが(もともと実験担当ではなかった)深夜勤の若い新人に交代したこと、危機的な局面が人間の判断力が鈍りやすい午前1時過ぎに訪れたことなど、結果的に事故の誘因をもたらした。
23:10 計画書に従って、実験予定範囲の70〜100万kWに出力を下げようとする。
同月26日
00:28 交代したオペレータが自動制御棒の設定点のリセットを怠る(第2の安全規則違反)。このため、出力が急低下、計画を大幅に下回る3万kWまで下がる。
【注】これは明らかにオペレータのミスである(このオペレータは事故の際の爆発で死亡した)。ただし、予定外の実験を押しつけられ、急いで計画書に目を通しながら実験を行っていたことを斟酌していただきたい。本来ならば、ここで実験は遂行不可能になり、中止せざるを得ないはずである。しかし、当時のソ連は体制が末期的状況を呈しており、指令の盲目的な完遂を是とする硬直化した官僚主義が横行していた。原発の安全のために重要な意義を持つ実験の失敗は、忌むべき職務不履行に当たり、左遷どころか解職もあり得る。おそらくオペレータは蒼白になり、何とかして出力を再上昇させて実験を遂行しようとしたのだろう。そこで彼が行ったのは、制御棒を次々と引き抜く作業だった。ただし、こうした重大な行為をオペレータが単独で行うとは考えにくく、現場にいた直接の上司が指示したものと考えられる。
01:00 原子炉内部に生成するキセノンのため、出力の再上昇が妨げられ、出力20万kWまでしか回復させられなかった。
【注】20万kWという出力は、予定された実験範囲を大きく下回っており、ここで実験することにどれだけの意義があるかわからない。また、低出力での不安定性が際だつ領域なので、本来ならば決して運転してはいけない値である。しかし、実験の技術的な意義も原子炉の不安定性も理解していないオペレータは、ここで実験を強行することを決意する。なお、実験に当たって立ち会いの技術者がいたが、タービン関係の実験のため原子炉の知識のない電気関係の専門家が派遣されており、原子炉の出力調節には口を差し挟めなかったようだ。
01:03〜07 実験手順に従って主循環ポンプを2台追加。これは、第8タービンが停止する実験終了時にも確実に炉心を冷却するための措置だが、炉出力が20万kWと低いため、冷却水の温度が下がりすぎ、流速も通常の15〜20%ほど速くなった。この結果、いくつかのポンプは、定格をはずれた状態で運転された(第3の安全規則違反)。
【注】ポンプの追加も計画書通りの行為で、必ずしもオペレータのミスではないが、予定より出力が低いことを充分に考慮に入れていなかった。
01:19 冷却水の温度が低くなり、蒸気ドラム内部の圧力と水位が低下。このため、原子炉緊急停止の信号が出されるが、オペレータはこれを無視する(第4の安全規則違反)。
【注】原子炉を定格から離れた状態で動かしているので、緊急停止信号が出されることは予想された事態であり、この信号に従っていては実験が遂行できない。
01:19:30 冷却水の流量が増えて水温が下がり始め、正のフィードバック効果で炉出力が下がりそうになる。このため、オペレータは制御棒をさらに抜いて出力を20万kWに保つ。
01:22:30 このとき挿入されていた制御棒は(実効本数に換算して)6〜8本に過ぎず、運転マニュアルに記載されている最小本数30本、「首相ですら違反することが許されない」設計上の最低安全基準15本を、大幅に下回っている。だが、コンピュータに直結した自動停止装置はなく、オペレータは、このまま実験を強行する(第5の、そして最大の安全規則違反)。
【注】事故後の多くの論調は、制御棒を引き抜きすぎたオペレータを非難するものだった。しかし、現場では、この状態は、実験を行うために原子炉停止直前に一時的に生じたものにすぎず、いざというときには緊急停止ボタンを押して原子炉を止めてしまえば良いという考えが支配的だったものと想像される。実際、生存者の報告では、当時のコントロール・ルームには危険な実験を強行しているという緊張感はなく、オペレータも、タバコを片手に気楽に操作していたという。
01:23:04 実験開始のため、第8タービン発電機に蒸気を送る蒸気管のバルブが閉じられる。このとき、タービン発電機が停止すると自動的に原子炉を停止する安全機構をオペレータが手動で解除する(第6の安全規則違反)。
【注】これは、実験が失敗した場合、再び原子炉を立ち上げて実験を続けようと考えたためであり、ミスではない。
01:23:05 タービンを回さなくなった蒸気の温度が上昇し、正のフィードバックが効き始めて炉出力も高くなり始める。
01:23:40 緊急停止ボタンが押されるが、200本あまりの制御棒がほとんど完全に引き抜かれていたため、再挿入の際に、先端部にある空隙がかえって炉の出力を高める方向に作用する。この結果、原子炉全体でいっせいに正のフィードバック効果が生じて、出力が急激に上昇する。
【注】オペレータが緊急停止ボタンを押したのは、常識的には原子炉の異常に気づいたためと考えられるが、生存者の報告では、慌てた素振りを見せてはいなかったという。もしかしたら、ECCS起動に充分な電力の発生を確認した(そのためには数十秒しかかからない)ので、実験を終了して原子炉を停止させるつもりでボタンを押したのかもしれない。
01:23:43 緊急警報が作動するが、炉の暴走は止められない。熱出力は50万kWに達し、さらに指数関数的に上昇し続ける。
01:23:46 原子炉内部に蒸気が激しく発生。
01:23:47 燃料棒チャネルの破壊が始まる。
01:23:48 急激に高温になり粉々に砕け散った燃料棒が冷却水と接触して水蒸気爆発を起こす。さらに、被覆材のジルコニウムの化学反応によって生じた水素と、炉の蓋が破壊されて流入した酸素が反応して水素爆発を起こす。

■総括

 これまで見てきたように、チェルノブイリ原発事故は、ソ連の報告書が主張するようにオペレータの規則違反が原因で起きたと考える訳にはいかない。確かに、オペレータのミスもあったことは否定できない。しかし、根本的には、経済的だが安全性に欠けた原子炉を、充分な知識を持たないオペレータに操作させていたことが、最大の要因である。また、事故の直接の引き金となった実験も、計画書通りならば必ずしも危険でないにもかかわらず、成功させねばという心理的なプレッシャがあまりに強く、計画をはずれた領域で無理な操作を行ったことが、事態の悪化を招いたと言える。



 

チャレンジャー号爆発事故


■事故の概要

 1986年1月28日午前11時38分、ケネディ宇宙センターから打ち上げられたスペースシャトル・チャレンジャー号が打ち上げ73秒後に爆発して大破、乗員7人全員が死亡する事故が起きた。この結果、ハッブル望遠鏡の打ち上げや日本人宇宙飛行士の搭乗の時期が数年間先延ばしされたほか、ハレー彗星の探査が見送られるなど、NASAの宇宙開発計画が大きく狂うことになった。また、代替機建造などの直接費だけで30億ドルを超す費用が余分にかかった。

 何よりも深刻と考えられているのが、精神的な悪影響である。当時、アメリカは1985年の半導体不況に端を発した経済情勢の悪化に苦しめられており、経済力・技術力の著しい低下を「アメリカ病」と揶揄する声もあった。そうした中で、他国の追随を許さないとアメリカ国民が自負していたのが高度な技術に支えられた宇宙開発事業であり、スペースシャトルは、その象徴的存在であった。しかも、チャレンジャー号には、シャトル計画で初めて民間人である女性教師のマコーリフさんが搭乗して、宇宙から全米の子供たちに向かって「宇宙授業」を行う予定が立てられていたため、打ち上げの模様をマコーリフさんの知人や多くの学童が見守っていた。その目の前でアメリカの誇りであるシャトルが爆発してしまったのだから、アメリカ人のショックはことさら大きかったと推測される。心理学者の中には、この体験が多くの子供にトラウマとして残ると警告する者もいる。

 スペースシャトル計画は、「人類を月面に立たせる」ことを目標としたアポロ計画に続くNASAのビッグプロジェクトである。ただし、国威をかけて充分な資金を調達したアポロ計画とは異なり、財政支出に対してシビアな目が向けられる中で、いかに経済的に宇宙開発を行うかが重大な課題となった。コスト低減の手段としてNASAが考案したのが、機体を繰り返し利用する方法である。機体をいくつかのパーツに分け、乗員が乗り込むオービタは地球周回軌道から自力で地上に戻って繰り返し使用するほか、オービタを一定の高度まで持ち上げるブースタも、パラシュートで海上に落下させ再利用できるようにした(燃料タンクは使い捨てにする)。このように、複数のパーツを組み立てて打ち上げるため、従来の円筒形のロケットとは異なって、接合部に無理な力が加わって破損する危険性が心配されたが、技術力で充分に克服可能だと考えられたのである。しかし、チャレンジャーの事故は、技術に対する過信を厳しく戒める結果となった。


■事故の経過

 チャレンジャー号は、当初、85年7月に打ち上げられる予定だったが、搭載物の準備の関係で延期となり、いったんは1月22日を打ち上げ日と決定したものの、天候などの影響で28日に再延期された。当時、フロリダは異常な寒波に襲われており、発射台や機体表面が氷で覆われており、発射時に氷の破片が機体と衝突して傷つけることが心配された。このため、機体の点検や打ち上げの是非の検討に時間を要し、結局、予定より2時間遅れた11時38分にロケットに点火された。

 このとき、NASAの管制センターは異常を感知していなかったが、映像記録には、打ち上げ直後からさまざまなトラブルが発生していたことが示されている。

 ロケット点火後0.7〜3.4秒に、早くも右側固体ブースタの継ぎ目付近から黒煙が発生している。この煙は12秒後に消失するものの、この段階で、高温の燃焼ガスがブースタの隙間に漏れ出していたことを窺わせる。

 さらに、58.8秒後に右側固体ブースタと燃料タンクの接合部から煙が噴出、59.2秒後には煙が出た場所から炎が発生した。この燃焼ガスの漏れによって、いくつかの異常が同時に進行する。もともと噴射口から外部に噴き出すはずの燃焼ガスが脇に漏れたために、右側ブースタ燃焼室の圧力が下がって2つのロケットの推力のバランスが崩れ、機体全体が予定のコースを外れ始めた。さらに、推力のアンバランスと横方向への噴射のため、右側ブースタを捻るような作用が生じ、燃料タンクとの接合部に無理な力が働いて、各部の破損を引き起こす。また、高温の炎にさらされる液体タンクの損傷も進むことになる。こうした異常事態に、管制センターの職員は全く気づいていないが、シャトルの搭乗員は、いつもより振動が激しいと感じていたことを示す記録が、ボイスレコーダーに残されている。

 打ち上げから65秒後に、高温の燃焼ガスの噴射に晒されていた液体水素タンクが破損して燃料漏れが始まる。66.2秒後には、ねじ切る力に耐えかねた右側固体ブースタ上部と燃料タンクの接合部分が破損して炎が発生、72秒後に固体ブースタと燃料タンク間の結合が完全にはずれて機体が激しく振動し始める。そして、打ち上げ73.2秒後、ついに固体ブースタが燃料タンク前部の液体酸素タンクと衝突、液体酸素と液体水素が反応して大爆発を起こす。燃料タンクは瞬間的に破壊され、乗員7人が乗り込んでいたオービタも大破した。頑丈に作られていたブースタはなおも飛行を続け、市街地に落下することが懸念されたので、管制センターからの遠隔操作で自爆させた。オービタには緊急事態に備えた脱出装置はなかったが、たとえ装備されていたとしても役に立たなかったと推測される。


■事故の原因

 事故後、レーガン大統領の指示によって、ロジャース元国務長官を委員長とする事故調査委員会が設置され、徹底的な原因解明がなされた。6月6日に提出された報告書によると、事故の直接の原因は、右側固体ブースタ継ぎ目部分から高温の燃焼ガスが漏れ出したためである。それでは、なぜ漏れが生じたのか。その理由は、驚くほどお粗末なものだった。 fig6

 固体ブースタは4つのパーツから構成されているが、巨大な質量を有し、打ち上げ時に複雑な応力や急激な温度変化が生じる機体では、パーツ間の継ぎ目部分が歪んで隙間が生じることが予想される。このため、合成ゴム製のOリングを挿入し、多少がたついてもゴムの弾性によって常に隙間を塞ぐような工夫がなされていた。ところが、合成ゴムは低温では固くなって弾性を失い、シール効果を喪失するという欠点がある。通常の気温ではさしたる支障はないが、チャレンジャー号打ち上げ当日のように寒波が襲来すると、寒風が吹きすさぶ発射台に置かれた機体は気化熱を奪われて温度が急激に低下する。チャレンジャー号の場合、継ぎ目部分の温度は-0.6℃に達していた。この結果、Oリングは完全に弾力性がなくなって継ぎ目部分の隙間を塞ぐことができず、燃焼ガスの漏れを許してしまったのである。

 これだけならば、単なる技術的な欠陥による事故として片づけられることかもしれない。問題なのは、こうした欠陥が技術者によって指摘されていながら、打ち上げが強行されたという事実である。

 固体ブースタを設計・製造したのは、NASAによる入札の際に最も安い価格を付けたモートン・サイオコール社である(技術的な観点からはもっとすぐれた設計案を提出したメーカーもあったというが、予算削減に苦しんでいたNASAとすれば、どうしても安価な機体を採用せざるを得なかったというところなのだろう)。チャレンジャー号打ち上げ前日、NASAはサイオコール社に打ち上げの当否について(かなり形式的な)打診を行っている。これに対して、サイオコール社の技術者は、Oリングが低温で脆化する危険があることを指摘し、寒波が去って気温が上昇するまで打ち上げを延期するように主張した。それまでの実績では、継ぎ目の温度が11℃での打ち上げに成功した例はあるものの、今回は、それよりもかなり低くなることが予想されたからである。しかし、初の民間人搭乗で久々に全米の注目が集まっているシャトルであるにもかかわらず、すでに2回にわたって延期しているNASAとしては、この提案に簡単に応じることはできず、あえて再考を要求した(ただし、この要求を行ったのは、打ち上げにゴーサインを出す権限を持ったNASAの最高幹部ではなく、中間管理職クラスである)。サイオコール社内部では技術者と経営者の間で激しい議論が闘わされたというが、最終的には「経営上の判断」によって打ち上げに同意する旨を伝えることになったのである。

 こうした経緯を見ると、チャレンジャー号の事故は、チェルノブイリ原発事故と多くの共通項を持つことがわかる。第1に、経済的・技術的な理由によって、安全面で万全とは言い難いシステムになっていた。第2に、こうした危険性を専門の技術者は察知しており、対応策を提案していた。第3に、にもかかわらず技術情報が現場の作業員や管理者に行き届かないまま、さまざまな精神的なプレッシャの下で、後から考えると危険な作業を強行、その結果として事故が発生した。チャレンジャー号とチェルノブイリ原発のケースでこれらを対照表で示してみよう。

チャレンジャー号 チェルノブイリ原発
経済的・技術的理由 シャトルを再利用可能に
最も安価な設計案を採用
低コストで容易に製造できるRBMK炉を採用
システムの危険性 低温でOリングがシール効果を失う 低出力で不安定になる(他に制御棒の欠陥も)
技術者の提案 低温でのシャトルの打ち上げ中止 低出力での運転禁止
現場の精神的プレッシャ 打ち上げを延期できない 実験を失敗できない


 

ボパール農薬工場毒ガス漏出事故


■事故の概要

 1984年12月2日の深夜から3日の未明にかけて、インド中央部にあるボパール市のユニオン・カーバイド(UC)農薬工場で、殺虫剤(商品名セビン)の中間生成物のイソシアン酸メチル(MIC)が排気塔から漏出した。致死的な毒性を持つMICは、工場周辺の住宅街に流れ込み、スラム街を中心に約2500人が死亡、20万人が傷害(失明、呼吸困難、皮膚の炎症など)を受けた。水牛1000頭が死んだ他、牛、犬、馬の死骸が到る所に見られ、ほうれん草や大根などの農作物の被害も大きかった。1986年3月、UC社が3億5000万ドルを支払うことで和解が成立。UC社はボパール工場を閉鎖し、農業部門を売却した。

 事故がこれほど巨大なものになった1つの原因は、有毒物質を扱う工場の周辺に住宅街が拡がっていたことである。近年、有毒物質を扱う工場は、欧米諸国では建設が困難になっているが、経済的な基盤の弱かった当時のインドにあっては、産業の活性化のために積極的に誘致が進められるという状況があった。アメリカに本社を持つ多国籍企業であるUC社は、インドの水準をはるかに超える高給を支給する優良企業であり、ボパールでは、比較的生活水準の高い従業員の住宅と、その財布を当てにした貧困者の住まいが、企業城下町の周囲に形成されていた。死亡者の多くは、住民台帳も整備されていないスラム街に住む貧困層に属しており、多数の死体を河原で一斉に荼毘に付したこともあって、正確な数字は把握されていない。2500人という死者数はあくまで概数であり、ボパール州政府の発表では1754人、一部マスコミでの報道では3000人以上となっている。

 事故を起こした工場は、1982年に操業開始したものの長期にわたって赤字を出し続けていた。このため、設備面ではアメリカ並のバックアップ装置を設置していたにもかかわらず、しだいにこれらの維持を重荷に感じるようになり、安全対策が後手に回されるようになった。さらに、従業員に対する訓練も不十分で、技術的な知識に乏しく緊急時に適切な措置をとることが期待できないまま作業に当たるケースも増えていた。ボパール工場を監査した本社の技術者は、「この工場では深刻な事故が発生する可能性が高い」という報告書を提出していたが、その心配が最悪の形で現実のものとなった訳である。

 ボパールでの事故は、短期間の死者数では今世紀最大の産業事故と言える(チェルノブイリ原発事故に起因する死者は数十年間にわたって発生する)が、第3世界で起きたために、マスコミの取り上げ方も小さく、その実態が充分に知られていないまま、発展途上国特有の安全性無視が原因だと思われている節がある。しかし、事故のプロセスを分析すると、チェルノブイリ原発やチャレンジャー号のケースと同じく、経済的な理由でシステムの安全性が犠牲になっているにもかかわらず、現場の作業員にその認識がなかったという定型的なパターンが浮かび上がってくる。アメリカ、ソ連、インドという経済体制の全く異なる国々で共通したパターンの大事故が勃発したという事実は、事故というものの本質を考える上できわめて示唆的である。


■事故の経過

 このような大事故がどのようにして起こったかは、必ずしも完全に解明されたわけではない。チェルノブイリ原発やチャレンジャー号のケースと異なり、コンピュータによる集中制御が行われていなかったため、誤差の小さいタイムチャートが作成できないからである。しかし、おおよその流れは、次のようなものと考えられる。

 事故の発端になったのは、事故の2時間ほど前にMICのタンクに通じるパイプを水で洗浄したことだと言われている(他の説もある)。MICは水と激しく反応して熱を発するので、こうした作業は水がタンクに侵入しないように遮蔽板を挿入した上で行わなければならない規則になっていたが、現場監督がこれを怠ったらしい。MICは侵入した水と反応して高温になり、さらに複雑な化学反応を引き起こすことになった。その詳細はなお不明であるが、タンク内部にクロロホルムをはじめ多くの不純物が含まれており、これらが触媒として作用したため、ある時点から加速度的に反応が進行して一気に高温・高圧の状態になったと推定される。タンクからあふれ出したMICのために複数の除害装置が用意されていたが、後述するように、これらは充分に機能しなかった。

 危機的な状況が進展していることを示す徴候は、何人かの従業員によって観察されているが、化学的知識に乏しい彼らの対応は、驚くほど鈍い。深夜11時頃、計器室オペレータはMICタンクの圧力計が平常値の5倍を示しているのを目にするが、交代した直後で圧力の経時変化を把握しておらず、もともと故障が多い計器なので気に止めなかった。同じ頃、MICタンクの周辺でゴーゴーという音を聞い者もいるが、原因を突き止めることを怠った。11時半頃、パイプから刺激性の液体が漏洩しているのを目撃した従業員が司令室に報告したものの、監督は直ちに行動を起こさず時間を無駄にした(「お茶の時間」だったとも言われている)。

 0時を回った頃、MICが漏れているとの報告を受けた計器室オペレータは、タンクの圧力メータが振り切れているのを見て、MICを無毒化する除害塔を作動させたが、立ち上げに時間がかかった上に能力が不足していたため、除害しきれなかったMICが排気塔から噴出することになる。1時頃になって漸く工場総責任者がMICの漏出を確認するが、もはや工場内に毒性ガス警報を鳴らす以外に打つ手はなかった。この警報を耳にした従業員はパニックを起こしていっせいに逃げ出してしまい、住民の避難誘導は全く行われず、自動車を持たない人の避難用に用意されていたバスは放置された。

 一部の周辺住民は警報を耳にするが、連絡用に鳴らされるサイレンと区別できず、熟睡していた多くの人々と共に、放射冷却で冷えた大地を這うように進んできた毒ガスに巻き込まれてしまう。日が明けると、市街には逃げ遅れた住民の死体があまた見られたほか、生き残った人も目や肺の痛みにもがき苦しんでおり、さながら地獄の光景だったという。


■多重安全システムの失敗

 ボパール工場は、当時のインドの水準からすると、かなり高度の安全装置を備えていたとされる。にもかかわらず、これらがなぜ機能しなかったのか。背後にあるのは、例によって経済的な問題である。

 安全設計がいかに破綻していったかを、箇条書きにしよう。

  1. 欧米のUC社工場で使用されているコンピュータ管理システムは高価なため導入されていなかった。従業員は、充分な教育・訓練を受けていなかったため、適切な措置がとれなかった。
  2. フロンを利用した冷却系は、経費節減のためスイッチが切られていた。この冷却系が作動していれば、MICタンク内における化学反応の進行速度が遅くなり、適切な対応策を講じることができたと考えられる。
  3. ソーダ液を循環させてMICを中和する除害塔は、事故の40日前から作動状態になく、計器室オペレータがスイッチを入れてもすぐに動かなかった上に、MICが爆発的に反応した場合に対応できるほどの除害能力を持っていなかった。
  4. 有毒ガスを燃焼して無害化するためのフレアスタック(焼却塔)は閉鎖されていた。有毒ガスが漏出したときには、はじめに除害塔かフレアスタックの一方に導き、それでも足りないときは他方に切り替えるという多重安全システムになっていたのだが、設計が生かされなかった訳である。閉鎖の理由は保守点検のためとされたが、実際にその作業が行われた形跡はない。
  5. 水溶性の有害ガスを溶かして除くための水のシャワーは10メートルの高さまでしか上がらず、30メートルの排気塔から噴出するガスには効果がなかった(MICは水と反応して発熱するが、屋外では危険性は小さい)。
  6. 発生した有毒ガスを導くための予備タンクがあったが、最後まで使われなかった。その理由は不明だが、従業員の訓練が不十分だったため、とっさに適切な措置がとれなかった結果だと思われる。

 有毒物質を扱う化学工場は、原子力発電所や宇宙ロケットと同様に、本質的に危険なものである。技術者は、この危険性を克服するためにさまざまな装置を考案するが、それらが生かされるためには、現場で働く人々に技術情報が充分に伝わっていることが必要である。ダモクレスの剣に気がつかないまま作業を強行するといかなる結果が惹起されるか、過去の大事故の事例が如実に物語っている。



《考えてみよう》
チェルノブイリ原発事故、チャレンジャー号爆発事故、ボパール農薬工場毒ガス漏出事故には、次のような共通点があります。(1)経済効率を上げるためシステムの安全性が犠牲になっていた;(2)システムの危険を専門の技術者は察知していた;(3)技術情報が現場の作業員や管理者に行き届かないまま、後から考えると危険な作業を強行、その結果として事故が発生した。こうした点をもとに、システムの安全設計や危険性情報の伝達はどうあるべきかを考えなさい。


©Nobuo YOSHIDA