20世紀の物質像

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概要
 今世紀初頭の「科学革命」は、人類の物質観に根本的な修正を促すものだっ た。すでに前世紀末の時点で、物質が「原子」と呼ばれる構成単位から成り立っ ていることはほぼ確実視されており、こうした原子が、空間内部で運動するとき の力の法則を解明できれば、物質世界については科学的に了解可能になるという 期待があった。しかし、世紀の変わり目を経て科学者たちが解明していった物理 の法則は、この世界が、それほど単純ではないという事実を突きつけた。何より も、古典科学の時代には科学の基本理念として絶対視された「空間−時間−物質 」というスキーム自体が、根底から覆されてしまったのである。「空虚な入れ物 としての空間の中を、自足した実体としての物質が、時間の流れに従って運動す る」 こうした素朴な描像は、アインシュタインやハイゼンベルグらの発見によ って打ち砕かれ、かわって、空間と時間と物質が一体となり、古典的なカテゴリ ーに依拠しては了解困難な世界が姿を現す。こうした世界像は、単に、新たな科 学的知識を提供するのみならず、哲学的なアポリアに対する答えを得るための手 がかりとなるかもしれない。実際、現代科学の語る世界は、物質についてのデカ ルト的な機械論を超克し、「人の心も所詮は原子の運動にすぎない」といった浅 薄な還元主義と訣別するものである。
 だが、科学者は、新しく開かれた物質観の地平を、人類が共有すべき叡智と して広く世に知らしめることを怠ってきた。それどころか、原子の内側から得ら れる莫大なエネルギーに目が眩んで、社会的展望のないまま政治家や軍人に利用 されたあげくに、マンハッタン計画による原子爆弾の開発へと突き進んでいく。 こうした迷走ぶりは、科学的知識が一般の人々に享受されることなくスペシャリ ストに占有されている状況と、表裏の関係にある。技術的な成果によってしか社 会から評価されない科学は、成果だけを求める社会に引きずり回されることにな るのである。
 本講義では、20世紀における物質科学の発展を解説するが、個々の科学的発 見に関する歴史的な事実よりも、物質像の変遷という思想史的側面を重視する立 場をとる。さらに、マンハッタン計画や巨大加速器についても取り上げ、科学が 持つ社会的な側面をも論じたい。具体的な内容は、次の通り:
  1. 原子核物理〜現代科学の光と影
     原子核研究の歴史は、「自然界の謎の解明」を目指す趣味的な学問としての古 典科学が、経済的/政治的な課題の解決を目的とする技術主義に蚕食されていく 過程と合致する。キュリー夫妻やラザフォードが活躍した「古き良き時代」は終 わりを告げ、科学者が巨大組織に組み込まれる時代が到来する。政府主導で科学 者が動員されたマンハッタン計画では、原爆製造という政治目的がすべてに優先 され、フォン・ノイマンやベーテのような純然たる理論家までが応用技術の開発 のために働くことを余儀なくされた。この時代の科学者は、研究対象をどのよう な目で見つめていたのか。
  2. 量子力学〜機械的原子論の終焉
     物理学における今世紀最大の成果と言える量子力学は、物質界を支配する法則 が、機械的な原子論からはほど遠いことを明らかにした。多数の構成要素を含む 物質は、要素間の局所的な相互作用に従って運動しているにもかかわらず、因果 律を否定する形で全体的な秩序を形成していく。こうした不思議な性質は、20年 代にハイゼンベルグやパウリに代表される若手物理学者によって少しずつ明らか にされていったが、その余りの難解さ故にか、哲学的なインパクトは必ずしも大 きくなかった。むしろ、量子力学は、新素材開発という応用部門を持つ物性理論 の研究者によって、便利な計算道具として扱われるようになる。
  3. 複雑系の科学〜エントロピー/秩序形成/カオス
     物質界は、数学的な法則に従っているにもかかわらず、ほとんど予測不能な複 雑な振る舞いを示すことがある。19世紀の熱力学は、エントロピー増大の法則に よって秩序が失われていくという自然の必然を明らかにしたが、近年、散逸構造 理論やコンピュータ実験を通じて、非閉鎖系では、短期間ながら自発的に秩序形 成が実現されることが知られるようになった。「複雑系における予測不能な秩序 形成」という新パラダイムは、人類に世界についての新たな知見をもたらすもの なのだろうか。
  4. 素粒子論〜究極の理論を求めて
     量子力学に相対論を適用することによって1929年に作り上げられた「場の理論 (素粒子論)」は、物質界のミクロの極限の法則を明らかにする究極的な理論( の端緒)であると考えられている。この理論は、「空間−時間−物質」の統一を 要請するのみならず、そもそも、空間や時間が基本的な構成要素でない派生的な ものであることをも示唆する。これほど革命的な理論であるにもかかわらず、そ の思想的な意義は、全くと言って良いほど評価されていない。逆に、巨大加速器 を用いた研究は、予算を食い過ぎるとして批判を浴び、SSC計画は遂に中止に 追い込まれる。


©Nobuo YOSHIDA