前ページへ 次ページへ 概要へ 表紙へ


第5章.無からの創造

〜科学が神話になるとき〜



素粒子論と宇宙論

 1970年代になると、宇宙論研究に新たな地平が拓かれる。それまで、ミクロの極限を扱うための学問として専門化されていた素粒子論(場の量子論)が、マクロの極限を扱う宇宙論に適用され出したのである。
 かつては、素粒子論と宇宙論は正反対のスケールを扱う学問で、互いに関わり合うことはないと思われていたが、1970年代以降、両者の相互交流が盛んになってきた。こうして、初期宇宙の状態の記述や暗黒物質の正体の探究に素粒子論が使われる一方、基本粒子の個数などの素粒子論の基本的なパラメータを決めるのに宇宙論のデータが援用されるようになっている。
 全くスケールの異なる2つの学問領域が互いに貢献しあえるのは、物理法則が「普遍的(universal)=宇宙的」だからである。古代ギリシャの学者が考えたように、この世界を支配する法則が、月軌道の上と下では全く異なっているものならば、(地上の)物質の根源を記述するミクロの理論が、宇宙の創造や終焉を左右するはずがない。しかし、現在の多くの科学者が信じているように、この世のあらゆる出来事が、全て共通の普遍的法則に従っているならば、最も基本的なミクロの法則が宇宙全体を支配することは、決して不思議ではない。もちろん、宇宙に限らず社会の動向や人間の振舞いもこうしたミクロの法則に従ってはいるのだが、関与する自由度があまりに多く実現可能なプロセスが膨大なものになってしまうので、人間が興味を持つ分野に関して確定的なことは何も言えなくなってしまう(「私は、あと何年生きられるか」という問いに対して、物理学は物質構造の安定性などから「500年以上である確率は低い」といった程度の解答しか与えられないだろう)。これに対して、宇宙論を扱う場合、科学者の興味は、多くのファクターに左右される局所的な変動よりも、宇宙全体の動向に向けられるので、素粒子論が対象とする最も根元的な物理法則が、決定的な役割を果たすのである。
 素粒子論とは、物質の基本的な構成要素の性質を探索する学問で、1929年にハイゼンベルグとパウリによって「場の量子論」という理論的枠組みが提出された。1930年代に入ると、フェルミのβ崩壊の理論や湯川が提案した中間子論など多くの面で成功を収め、さらに、1940年代のくりこみ理論、1960年代のクォーク・モデルやゲージ理論などの構築によって、その完成度を高めてきた。現時点で、具体的に何が世界の根元的な構成要素なのかは、まだ定説がない(ミクロの“紐”だという説が有力だが実証されていない)ものの、あらゆる物理現象を、世界の基本的な構成要素である「場」の状態によって記述する還元主義的な枠組みは、ほぼできあがっていると言って良い。
fig29  「場の量子論」と呼ばれる理論的枠組みは、きわめて数学的で理論物理学と縁のない人には難解なものだが、ここでは、簡単なイメージを使って説明しよう。一般に、「場の理論」と呼ばれる理論形式では、古典的な「空間の中に物体が存在する」という前提を排して、空間の各点が運動の自由度を持っていると見なされる(右上図)。最も単純な理論の場合、こうした自由度は、バネの単振動と良く似た方程式に従うので、ごく素朴に、空間にはびっしりと小さなバネが存在しているとイメージしても、とりあえずはかまわないだろう(右中図)。こうしたバネたちは、隣同士との相互作用を通じて振動するが、いわゆる量子論的な効果によって、いくつかの決まった振動パターンの組み合わせをとるようになる。こうした振動パターンの中で安定に存在するものを人は「物質」と呼び、振動していない(正確には零点振動しかしない)領域は「何もない」と言われるのだ(右下図)。素粒子論を宇宙論に適用するとき、こうした物質観が基本的な役割を果たすことになる。


真空の相転移

 ビッグバン理論の大きな欠点は、仮に宇宙が大爆発によって生まれたとして、「その前」に何があったかと問われても、解答を模索する術がなかったことである。一般相対論を含めたほとんどの物理学理論は、エネルギーや物質の保存則を認めている。だが、ビッグバンの瞬間には、巨大な爆発のエネルギーと、天体の素材となる原物質(ガモフのひそみに倣えばイーレム)が存在していなければならず、基本的な保存則と矛盾するように思われる。それに加えて、現在から時間を逆に辿っていくと、ビッグバンの瞬間に向かって宇宙の温度や物質密度は際限なく増えていくはずであり、宇宙の始まりは無限大の温度と密度を持つ定義不能な状態だということになる。当時の物理学者たちは、こうした事情を考慮して、宇宙の創造の瞬間に科学は遂に到達し得ないのではないかと悲観主義に傾いていたようだ。一方、行き過ぎた科学主義に胡散臭さを感じていた人々には、これは好ましい状況だったに相違ない。キリスト教総本山のローマ法王庁は、ビッグバン宇宙論はキリスト教の教義と矛盾しないと言明しているが、その根底には、この理論が(神の業による)宇宙の創造についての科学の無力さを明らかにしたという見方があったのかもしれない。
 ビッグバン理論が持っていた「始まりの困難」は、しかしながら、1970年代末から80年代にかけて、場の量子論を宇宙論に適用することによって、少しずつ克服されていった。
fig30  ここでポイントとなるのが、真空概念の見直しである。上で述べたように、真空とは、何も存在しない「虚空」ではなく、場の変動の基準点となる−−先の素朴なイメージを用いるならば、バネが自然の長さにある−−「基底状態」である。従来の理論では、真空は最もエネルギーが低い状態として一意的に定義されるものと見なされてきた。ところが、1970年代の場の量子論の進展において、こうした「基底状態」は、温度によって変化し得ることが明らかになった。ビッグバンのように極限的な高温から冷えていく過程で、ちょうど水が冷えて氷になるように、真空それ自体が、以前よりもエネルギーの低い状態へと「相転移」を起こすのである。バネの喩えを使うと、一端を固定していた土台が(高温状態が生み出していた支えを失って)ガクンと崩れるようなもので、基準が急激に低くなった結果、それまで振動していなかったバネも弾みで(?)動き出すことになる。ビッグバンは、こうした「相転移」と共に生起した出来事として研究されなければならない。こんにち信じられている理論によれば、宇宙初期に、エネルギーの高い不安定状態から低い安定状態へと真空が相転移する現象が、少なくとも2回以上は起きたと考えられている。
 実は、真空が「相転移」したと考えることにより、アポリアと思われていたビッグバン理論の困難が、かなりの程度まで解明されることになった。以下では、「エネルギーの起源」「物質の起源」「秩序の起源」について、順次、解説していこう。


エネルギーの起源

 かつて、ビッグバン理論は、エネルギー保存則を破るので理論的に定式化することは不可能だと考えられたこともある。しかし、この問題は、グース(A.H.Guth)による「インフレーション宇宙理論」(1980)の副産物という形で解決を見た。
 インフレーション理論によれば、創造された直後に、宇宙は、エネルギーの高い不安定な真空から、より低い安定真空へと相転移を起こす。このとき、余ったエネルギーが場の変動を生み出して、高温の物質を含む「火の玉」状態になったと考えられる。特に、相転移前の(全宇宙の)エネルギーを0と定義すると、「エネルギーのない」状態から、保存則に反しない形で大爆発のエネルギーを調達することができる。インフレーション理論が、「フリーランチ(ただ飯)理論」と呼ばれる所以である。ただし、真空のエネルギーは、アインシュタインの宇宙模型の章で述べた「宇宙項」と密接な関係を持っているので、どのように定義すべきかについて、まだ、理論的な決着がついている訳ではない。
 なお、「インフレーション」なる名前は、相転移が終了するまでの間、宇宙が(それまでの相対論模型で予想されたよりもはるかに)急激に膨張して、もとの状態の1080倍(数値は信憑性に乏しい)以上に膨れ上がったことに由来する。こうした急激な膨張があったと仮定すると、宇宙論研究者を悩ませてきた2つの謎が解き明かされる(この話は、かなり専門的なので、ごく簡単に触れるにとどめる)。1つ目は、「平坦性の問題」と呼ばれる謎で、「なぜこの宇宙の曲率は、球面状か鞍状か区別できないほど小さいのか」というものである。地球表面のように曲率がかなり大きいと、水平線の彼方に消えていく船舶を眺めることによって、大地が内向きに湾曲していると実感できる。しかし、宇宙の場合は、遠方のクェーサーを観測しても、ユークリッド幾何学からのずれはほとんど認められない。インフレーション理論によれば、このように曲率が小さい理由は、初期のインフレーションの時期に宇宙全体が急激に膨張し、空間の歪みが観測できないほど平らになるまで引き延ばされてしまったからだと説明される。宇宙論で懸案とされてきたもう1つの謎は、「地平線の問題」である。従来のビッグバン理論によると、観測できる最も遠方の領域(宇宙の地平線)は、大爆発の瞬間から互いに光速を越える速さで遠ざかっていったとされており、物理的に連絡を取り合うことは不可能なはずである。にもかかわらず、例えば天の北極と南極からやってくる電磁波のスペクトルがほぼ完全に等しいのはなぜか−−という謎だ。これも、宇宙初期のインフレーションを仮定すると、膨張前に互いに密接な相互作用で一様な状態になっていた狭い領域が、急激な膨張を経て(地球から見て)地平線上の対蹠点に位置することになったと考えれば、簡単に理解できる。このように、インフレーション理論は、懸案の謎を一気に2つも解明する画期的な成果を上げたことから、現代宇宙論の要になる仮定として、多くの研究者の支持を集めている。ただし、いまだ確実に検証されてはいない(理論に合致しないデータも見いだされている)。
 インフレーション理論の応用として興味深いのが、宇宙の多重発生という考えである(下図)。佐藤勝彦によれば、インフレーションの過程は、「母宇宙」から「子宇宙」が出芽するようなものであり、このプロセスで子−孫−曾孫と多数の宇宙が生成される可能性もあるという。こうして数多く生成された宇宙のほとんどすべては、出来たと思う間もなく一瞬のうちに潰れてしまう(スモールバンとスモールクランチ)か、あるいは、あまりに膨張が急激すぎて、相転移で生まれた物質が引力で合体することなくバラバラに飛び散って天体も形成できない宇宙になってしまうと予想される。われわれが生きている「この」宇宙は、無数に存在する短命な宇宙や不毛な宇宙の集まりの中で、きわめて例外的に多くの天体と生命を宿す豊穣な世界なのかもしれない。こうした考えは、哲学的にある種のインパクトをもたらすかもしれないが、いまだ、科学者の支持を集めているとは言い難い。
fig31


物質の起源

 真空の相転移というアイデアによって、何もない基底状態から物質が生成される可能性が明らかにされた。しかし、これだけではまだ、宇宙における安定な物質の存在を完全に説明することはできない。実は、上に述べた素朴なバネのイメージは、光や中間子など「ボーズ粒子」と総称される素粒子にしか適用することができず、固体を形作る陽子や中性子(あるいはその構成要素であるクォーク)のような「フェルミ粒子」の生成を考える際には、もう少し掘り下げた議論が必要になるのだ。
 フェルミ粒子とボーズ粒子の最大の相違点は、粒子数保存則の有無である。ボーズ粒子の場合、粒子数が保存されないので、余分なエネルギーがあると、次々と新しい粒子が生まれてはあちこちに飛散してしまい、安定な構造を保つことができない。これに対して、フェルミ粒子には、(陽子と反陽子、電子と陽電子というように)「物質」粒子と「反物質」粒子の2種類があり、それぞれの粒子数の差は一定に保たれるという性質がある。この2種類の粒子は、狭い領域に大きなエネルギーが集中したときにペアで生成されたり、逆に、衝突して一緒に消滅してしまうことはあるが、どちらか一方だけが、突然に発生したり消滅したりすることはない。このため、「物質」粒子(あるいは「反物質」粒子)だけから作られた構造物は、「物質」粒子と「反物質」粒子をペアで生み出すだけの巨大なエネルギーがなければ、粒子数保存則の結果として安定性を獲得することが可能になる。
この説明は、物理学的にはかなり杜撰なものである。より正確なところが知りたい人は、素粒子論の教科書を繙いていただきたい。
 われわれが住む天の川銀河がエネルギーを放出して崩れていかないのは、銀河を構成する天体が「物質」粒子だけからできているからである。宇宙線の観測を通じて、近隣の銀河集団にも「物質」しか存在しないことが確かめられており、遠方の銀河に関しても、いくつかの理由から同様だと推測されている。
 それでは、なぜ「物質」しか存在しないのか。ビッグバンの高温・高密度状態の中では、「物質」粒子と「反物質」粒子がペアで生成・消滅を繰り返しているはずであり、そのうちの「物質」粒子だけが生き残った理由は、長い間謎とされてきた。この謎は、吉村太彦の「CPの破れ理論」(1979)によって、初めて解き明かされた。
 素粒子の振舞いを記述する最も基礎的な方程式において、「物質」と「反物質」の項は対称的な形で現れる。相転移前の原初の宇宙では、「物質」と「反物質」は、完全に等量存在していた。ところが、相転移によって、真空の側に両者を区別する要因が生まれてくる。これを「自発的な対称性の破れ」といい、この世界が複雑な構造を持つ要因である。
fig32  「自発的な対称性の破れ」を理解するには、ワインボトルの底の形をした膨らみの上にビー玉を置いた状況を思い浮かべれば、わかりやすいだろう(右図;これは、物理学者がポテンシャル関数として想定しているものと同じ形状である)。ビー玉が膨らみの頂点に置かれているときには、ワインボトルを中心軸の周りに回転させても、状況に変化はない。このことを、(軸の周りの回転について)対称性があるという。しかし、ビー玉が底の凹みへと落ち込むと、この対称性は失われ、軸から見てある方向が特別な意味を持つようになる。
 こうした現象は、自然界ではごく普通に見られる。例えば、鉄に代表される強磁性体は、高温に熱しているときには磁気を帯びていないのに、温度を下げていくと自然に磁化することが知られているが、これは、鉄に含まれる電子1個1個が小さな磁石になっていて、各磁石が同じ向きに揃った方がエネルギーが低くなるために生じた「自発的な対称性の破れ」だと考えるとわかりやすい(下図)。高温状態では、熱振動によって磁石がバラバラの向きになっている高エネルギー状態に押し上げられ、ある向きが特別の意味を持っている訳ではない(=回転対称性がある)。温度が下がり始めると、磁石をいろいろな方向に向ける揺動力が弱くなり、最終的には、磁石が同じ方向を向いた低エネルギー状態に落ち着くことになるのだが、このとき、磁石が揃った向きが鉄全体の磁化の向きという特別な意味を持つので、(どの方向も同じという)回転対称性は破れたことになる。しかも、この対称性の破れは、外から磁石を操作した結果ではなく、温度が下がるときに、ある方向を向いていた磁石がたまたま多かったというような偶然の作用によって実現されたものである。この過程は、(ボトルの底の中心のような)エネルギーの高い対称的な状態から(周辺のへこみのような)エネルギーの低い対称性の破れた状態へと、(外部からの操作によらずに)自発的に(spontaneously)相転移したものと解釈される。
fig33
 「物質」と「反物質」の間の対称性は「CP対称性」と呼ばれ(詳細は省略)、かつては厳密に成立すると考えられていたが、1960年代に、ごく僅かに破れていることが確認された。[CPの破れ理論」とは、宇宙初期の相転移が起きる前には「物質」と「反物質」が完全にシンメトリックに振舞っていたのに、相転移によって両者の相互作用に僅かな差異が生まれたため、この宇宙で「物質」の方が量的に圧倒的に多くなったと主張する理論である。相互作用の「僅かな差」が量の「圧倒的な差に発展するというのは奇妙に思えるかもしれないが、数値を使うと、次のようになる。相転移によって真空が「物質」と「反物質」の振舞いに僅かな差異を与えた結果、宇宙ができてから1000分の1秒までの間に、「反物質」粒子10億個に対して「物質」粒子が10億1個存在するようになる。宇宙が膨張して温度が下がっていくと、10億組のペアは、互いに消滅して光のエネルギーとなり、四方に拡散してしまうが、10億分の1の割合で残った「物質」粒子は対消滅する相手を持たないまま宇宙空間にいつまでも残ってしまう。この「物質」が重力によって凝集して天体を形成し、生命の発生を可能にしたのである。
fig34
 宇宙初期における「自発的な対称性の破れ」は、物質と反物質の関係にとどまらない。この宇宙では僅かに右と左の対称性が破れており、現実世界の物理法則と鏡に映った世界の物理法則は、ほんの少しだけ違っている。例えば、この世界では、アサガオや巻き貝は右巻きだが、鏡の国では、左巻きの方が多い(はずである)。同様に、この世界では、生物はL型(=左旋性)アミノ酸しか代謝できず、DNAは右巻きラセンであり、ニュートリノと呼ばれる素粒子にはキラリティ(旋回性)が左巻きのものしか存在しないが、鏡像世界では、全て逆になる。こうした違いも、宇宙初期の相転移に起源を持つという考え方がある(ただし、確証されてはいない)。相転移前は、世界は完全に左右対称だったが、エネルギーの低い真空に左巻きのニュートリノだけが存在できる状態とその逆の2種類があり、たまたまこの宇宙では、前者の状態に落ち込んでいったのである。
 「真空の相転移」という発想は、宇宙の成り立ちに関して、従来とは異なる新しい見方を与えてくれる。この宇宙は、創造された瞬間は、物質も変化もなく全きシンメトリーが支配していた。ところが、ひとたび膨張を始めると、対称性の破れが生じ、いびつだが変化に富んだ世界へと転移していく。この世界の豊穣さは、完璧な幾何学的秩序が崩壊したところから始まったのだと考えると、宇宙の奥深さ対する畏敬の念を禁じ得ない。


秩序の起源

 「真空の相転移」という場の量子論の概念を援用することにより、宇宙論の多くの謎は解明することができた。だが、相転移前の宇宙がいかにして与えられたか−−この言い回しの適否は問わないで頂きたい−−という最大の謎は、最後まで残される。
 この問題は、エントロピーという概念を軸に説明するとわかりやすい。
エントロピーについての説明は、『20世紀の物質像』を参照されたい。
宇宙全体のエントロピーは、ビッグバンの時点から一方向的に増大し続けている。真空の相転移、天体の形成、恒星からの光の放出など、宇宙誌においてメルクマールとなる出来事は、いずれも膨大なエントロピー生成をもたらすものであった。宇宙が死に絶えるまでの期間が100億年の100億倍の100億倍以上もあると予想される宇宙誌のスケールで眺めると、ビッグバンから僅か100億年しか経っていない現在はまだ宇宙の生誕直後であり、全エントロピーは、実現可能な最大値と較べてきわめて低い値にとどまっている。コーヒーにミルクを1滴落とした場合、その直後のエントロピーが急増する段階では美しい模様が形成されるが、ミルクがコーヒーに混ざり合った高エントロピー状態に達すると、さして興味深い現象は起きなくなる。これと同様に、現在の宇宙も、出来たばかりで急激にエントロピーが増大するただ中にあるからこそ、生命が生まれ文明が育まれるのだ。具体的には、核融合によって生み出された短波長の光が宇宙空間に四散するというエントロピー増大過程に巻き込まれる形で、小天体表面の分子が光化学反応を行って高分子合成を実現し、生命の発生を可能にした。こうしてみると、宇宙初期の低エントロピー状態が、あらゆる現象の根源とも言える。
 「始まりの瞬間」におけるエントロピーの低さは、並大抵のものではない。ペンローズが行った大まかな数値計算によると、こうした低エントロピー状態が全くの偶然で実現される確率は、10123分の1となる。もちろん、これが偶然であるはずはないし、また、偶然に実現されるような物理的なプロセスを考えることもできない。それでは、この宇宙の創造主が、10123もの可能性の中から、ただ1つの選択肢を選び取ったとでも言うのだろうか。
 この謎は、多くの人の目には解答不能なアポリアとして映った。しかし、何人かのチャレンジ精神に溢れた科学者は、敢えてこの問題に取り組もうとした。その中で、最も有名なのが、ホーキング(S.W.Hawking)の「宇宙の量子状態理論」(1982)である。
 ホーキングの理論は、もはや一般人の理解力を超越しているが、無理に言葉で表すと、次のようになるだろう。通常の物理理論では、ある時刻における系の状態は、それ以前の時刻での状態をもとに求められる。この計算には、以前の状態を境界条件とする「経路積分」と呼ばれる技法が用いられる。ところが、「始まりの瞬間」に、それよりも前の時刻はない。そこで、ホーキングは、この経路積分を、通常の時間軸に直交するもう1つの仮想的な次元(「虚時間」と呼ばれる)の方向で行い、その端には「何もない」という境界条件を置いてみた。「虚時間」を使った経路積分は、「トンネル効果」なる量子論的な効果によって系の状態が変化する過程を計算するテクニックとして1970年代に盛んに用いられたものだが、ホーキングが採用した境界条件は、「何もない」ところから変化した結果だけが忽然と姿を現すという奇怪なプロセスに対応する。いわゆる「無からの創造」である。ところが、驚いたことに、この計算の結果は、エントロピーがきわめて小さい「始まりの瞬間」と、よく似た状態を与えるたのである。この理論を信じるならば、宇宙の最初の状態は、それ自体には「変化」が全くないが、宇宙進化のあらゆる可能性を内包したものになるという。それでは、こうした境界条件が、宇宙の初期状態を定めるという根拠は何なのかとなると、ホーキングは明確な回答を与えない。むしろ、この境界条件は、宇宙の時間的な端を定める未知の法則の現れだと考えているようだ。水道の蛇口から垂れ下がっている水滴の形が重力や表面張力などの物理法則によって決定されるのと同じように、宇宙という時間的・空間的に拡がった存在の全体的な形状も、ある法則で定まっている。自分の理論は、その法則を表現するものだというのである。
 ホーキングの論法には、正当化しがたい論理の飛躍があり、学会で支持を集めているとは言い難い。しかし、理論全体が壮大な妄想にすぎない可能性があるものの、人間に可能な究極の知的挑戦として、高く評価したい。

宇宙の量子状態

THE QUANTUM STATE OF THE UNIVERSE

スティーブン・ホーキング(ケンブリッジ大学)
 理論物理学の課題は、これまでなされた全ての観測と合致し、かつ、これからの観測結果を予測するような、宇宙についての数学的なモデルを建設することにある。このモデルは、通常、2つの部分からなっている:  (1)モデルにおける物理的な場を支配する局所法則。…  (2)局所法則によって許される状態の集合の中から特定のものを指定する初期条件。…  第1の部分については、多くの努力が  特に、最近の20年間に  なしとげられた。われわれは、いまだ完全で無矛盾な場の理論を獲得してはいないが、こうした理論が持つべき性質の大部分を知っていると思われる。…  局所法則についての業績とは対照的に、初期条件については、ごくわずかしか明らかにされていない。実際、多くの人々は、初期条件は物理学の一部分ではなく、形而上学や宗教に属していると主張している。彼らによれば、自然は、欲するままに宇宙を生み出す完璧な自由があるという。しかしながら、現実に明らかなことは、宇宙がある法則に従って整然と発展しているという事実である。それゆえ、初期条件を支配する法則も存在すると仮定するのが妥当ではなかろうか。これに対して、観測されている宇宙はきわめて複雑であり、単純な初期条件から生じるはずがないと論じる人がいるかもしれない。だが、これは有効な反論ではないと考える:量子電磁気学の法則は単純だが、化学や生物学の複雑さをすべて生み出している。後に、単純化されたモデルを使って、宇宙の単純な初期条件でさえも、きわめて複雑な振舞いを生み出し得ることを示そう。… (Nuclear Physics B239(1984)257-276 より)


©Nobuo YOSHIDA