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第II部.技術革新と市場戦略



 技術革新とは、ステレオタイプ的な表現を用いれば、研究室から市場へと新しい技術が送り出される過程である。第I部では、主として研究室の側を中心とした議論を進めてきたが、これだけでは、現代社会において技術革新が実現される過程を半分も理解できないだろう。誰かが新しい技術をふと思いつき、それを利用して従来には見られなかった商品の製造を始める−−というのは、前近代の話である。現在の日本のように市場が重要な役割を果たしている社会においては、技術開発自体が市場の影響力の下に左右されることになる。それも、消費者やユーザーのニーズに由来する間接的なコントロールではなく、より直接的な市場戦略の渦の中に技術が巻き込まれている。第II部では、こうした状況を、知的所有権や規格の決定という観点から見ていくことにしよう。

 

§1 知的所有権概論



 「知的所有権とは何か」という問いに答えるのは、容易ではない。“もの”に対する所有権の場合は、所有される対象が物理的な存在としてはっきりしているが、アイディアや表現のような無形の財産となると、どこまで所有権が及ぶのか、その境界が曖昧になりがちだからである。むしろ、知的所有権と称されるべき確固たる法的概念があると考えるよりも、特許権や著作権など、“もの”以外を対象とする所有権を単に総称しているだけだと見なした方が良いだろう。
 知的所有権の起源は古く、シルクロードを介した交易が盛んだった頃、中国が絹織物の製法を秘密にしたまま、ヨーロッパ諸国に高値で売りつけていたことが知られている。一般に、古典経済における知的所有権は、ある商品の製造技術などを特定の権利団体に占有させるものであり、技術発展を妨げる弊害も小さくなかった。しかし、こんにちの知的所有権は、むしろ、パイオニアの権利を保護することによって、技術革新を促進することを目的としている。現在では、新しい技術を開発するために、膨大な資金と人材が必要になることが多い。もし、こうした先行投資に報いるシステムが整っておらず、苦労して新製品を開発しても、利益を上げる前に他社に類似品を発売されて利益を奪われてしまうならば、誰も技術開発に手を染めようとしなくなり、結果的に経済的停滞を招来するだろう。このような愚を避けるため、新しい技術を生み出すパイオニアに、充分な経済的利益をもたらす権利を保証する必要がある。この役割を果たしているのが、特許権を中心とする知的所有権である。
 現代においては、知的所有権が、市場戦略を遂行するための手段として盛んに利用されている。具体的には、他社が当該技術を利用する際に、ライセンス料の徴収や各種の使用制限を行うことがある。
 こうした手段を積極的に活用しているのが、アメリカだろう。アメリカは、50〜60年代には、日本への技術流出に対して寛大で、半導体に関するセミナーに日本人技術者が大挙して押し寄せて膨大なコピーを本国に送付しても、大目に見ていた。ところが、70年代に入って、自動車や半導体などの基幹産業で日本が台頭してアメリカの企業を圧迫するようになると、自国の経済を守る手段として、技術に関する権利を以前になく声高に主張し始める。例えば、外国企業による知的所有権の盗用で、アメリカ企業は年間 500億ドルもの被害を受けているとの認識の下に、米議会は、知的所有権の保護強化を盛り込んだ包括通商法を可決している(1988年8月)。権利の侵害に対しては訴訟も辞さない強気の態度を示す企業も多く、基本ソフトを巡る富士通とIBMとの著作権争いは、結局、富士通側が8億ドルを支払うことで合意した。こうした姿勢はライセンス料の高騰という形でも表面化しており、従来は製品価格の1%程度だった半導体特許の使用料を、5%以上に引き上げる企業もある。
 知的所有権を手段とした市場戦略の中には、防衛的なものも少なくない。任天堂のファミリーコンピュータは世界的なベストセラーになっているが、この上位機種となるスーパーファミコンが世界で最初に発売されたのは、実は、日本ではなく台湾である。台湾は、当時は著作権に関する国際条約に加盟しておらず、外国に著作権がある製品の複製を国内法で禁止していなかった。これが、台湾製の安価な海賊版が大量に出回り、市場を混乱させる一因となっていた。こうした事態に対応するため、任天堂は「台湾において世界で最初に発売された著作物に関しては著作権を認める」という法律を利用して、台湾でのスーパーファミコンの著作権を確保したのである。

特許権と著作権

 市場戦略に利用される知的所有権は、主として、特許権と著作権の二つである*1。両者は、もともとは、保護する対象として本質的に異なったものを想定してきた。すなわち、特許権が製品や製法の「アイディア」を保護するのに対して、著作権が思想や感情の「表現」を保護するとされている。こうした基本的なスタンスの違いは、権利の成立や範囲に関して、両者の間で大きな差異となって現れている。これを具体的に見ていくことにしよう。

 特許権が著作権と最も大きく異なっているのは、権利がどの段階で成立するかという点である。著作権が著作物を公表した時点で派生するのとは異なり、特許権の場合は、審査にパスしなければ権利が成立しない。実際、特許権が成立するまでには、次のように、かなりの時間と労力を要する。はじめに、特許庁に特許を出願し、それから7年以内に審査を請求しなければならない。特許庁の審査官による審査をパスすると、その旨が公告され、特許の内容が『特許広報』に公開される。この時点では正式な権利は与えられないが、特許内容に抵触する製品の販売を差し止めるなど、特許権とほぼ同等の権利を持つ仮保護の状態に置かれる。この特許に対して異議のある者は、公告後3ヶ月以内に申し立てをすることができる。これをクリアすれば、特許庁に登録料を納付して特許権が成立する。権利の期間は、公告日から15年(または、出願日から20年)である。
 特許の審査に当たって判断の基準となるのは、(1)新規性/進歩性の有無、および、(2)自然法則を利用しているか−−の2点である。前者は、それまでになかった新しい発明でなければならないという条件なので、その意味は明らかだろう。問題は後者の基準である。いかに画期的なアイディアと言っても、単なるデザインや利用法の範囲にとどまる限りは特許として認められないのである。例えば、「ウォークマン」と呼ばれる商品は、それまで巨大なラジオカセットを持ち歩いて大音響の音楽をまき散らしていた若者の生活様式を一変させた発明だが、「音楽を個人で聞くための再生専用の携帯用テープレコーダー」というアイディアは自然法則を利用していないので、(製品全体としては)特許の対象とはならないのである。この要件が特に重要になるのは、コンピュータ・プログラムや数学の解法などのソフトウェアである。上の要件を文字どおりに解釈すれば、これらは自然の法則を用いていないので、特許としては成立しない。ところが、こうした技術も莫大な経費をかけて開発しているので、特許権が取得できないとなると、企業にとっては痛手となる。場合によっては、「(これこれのアルゴリズムを)実行する装置」という形で、あたかも自然法則に則ったハードウェアであるかのごとく装って特許を取得するケースもあるが、常に成功する訳ではない。このため、コンピュータ関連の技術的な分野においても、著作権を志向する傾向が強まっている。

 著作権は、特許の場合と異なって、発表した時点で権利が成立し、50年の長きにわたって継続する。この権利は、元来、小説や音楽などを念頭に置いたものであり、芸術の保護が主たる目的であった。したがって、作品を成立させるのに必要な表現−−すなわち、ある程度まとまった長さの部分や(登場人物の名前などの)コードなど−−の無断使用を禁じる権利であり、作品を生み出すアイディアの独占を許すものではない。例えば、数年前に、地球に降り立った異星人が地球人の少年と仲良くなる『ET』というアメリカ映画が大ヒットしたが、もし、これに登場する異星人を模した人形を無断で販売すると、コードの盗用に相当するため、著作権法違反と認定される。しかし、映画のプロットだけを拝借して、異星人を人魚に置き換えたり、異星人が地球の女性に恋するという内容に改めれば、著作権には抵触しない。
 ところが、こうした芸術や学問のための権利が、最近は、技術を独占的に使用するための手段として流用されるようになっている。こうした傾向が、果たして今後の技術発展の上で望ましいことなのか、節を改めて考えてみたい。
 

§2 ソフトウェアと著作権



 現代の技術社会における知的所有権の役割は、パイオニアの権利を保証して技術開発を促すことにある。しかし、この権利が乱用されると、特定の企業に技術が独占される結果を招来し、逆に技術の停滞をもたらしかねない。こうした危険を避けるために、当然のことながら、この権利をどこまで適用するかという範囲の設定に細心の注意が必要となる。だが、こんにちの急激な進歩は、古典的な「発明」や「著作」とは異質の技術的創作物を生み出すことになった。その代表例がコンピュータのソフトウェアである。

ソフトウェアの保護

 最初期のコンピュータにおいては、実行できるプログラムは本体のハードウェアによって決められていた。ちょうど現在の電卓と同じように、あらかじめ特定の配線が完了しており、適当なデータを入力すれば、配線のされ方に応じて計算が遂行されるという訳である。ところが、フォン=ノイマンらによってプログラム内臓型のコンピュータが開発されると、ただ一つのハードウェアを使って、文字どおりあらゆる論理演算を遂行することが理論的には可能になったのである。現在では、プレーヤーの操作に対応した一つの冒険物語をディスプレイ上で展開してみせるゲーム・ソフトすら開発されている。こうなると、もはやプログラムはコンピュータに付属するものではなく、それ自体が莫大な投資を必要とする技術開発の対象となってくる。それどころか、最近では、半導体の設計に関してはCADを利用した自動化が進んでいるのに対して、ソフトの開発には多くの人手と時間を要することに変わりはなく、むしろ技術開発のボトルネックになっている観さえある。こうした状況の下では、ソフトウェアの知的所有権をどのように保証するかが、重要な意義を帯びてくる。
 ソフトウェアの保護が法律的に難しい問題を含んでいる理由は、これが「アイディア」から「表現」まで幅広いスペクトルを示す対象だからである。ソフトを開発するに当たっては、はじめに何を実行させるかについての基本的な仕様を設定しなければならない。これに基づいてシステムの個々の部分が行うべき機能を考察し、ある程度の見通しが立った段階で、フローチャートを描いて動作の流れを決定していく。このフローチャートも、大まかな流れを追うだけの初期のものから、次第に具体的な処理の手順の定めた詳細なものへと発展することになる。最終的には、詳細フローチャートをプログラム言語でコード化することによって、ようやくソフトウェアが完成するのである。したがって、コンピュータ・ソフトはオブジェクト・コードという「表現」を持っているが、これは最終段階ではじめて具体的な形をとるものであって、開発過程で多くの技術力が投入されるのは、むしろ「何をどのように実行するか」という「アイディア」に対してなのである。こうした二面性があるため、コンピュータ・ソフトを保護するのは、発明の「アイディア」に適用される特許権か、著作物の「表現」に適用される著作権か−−という厄介な問題が生じることになる。
 日本国内でソフトウェアの知的所有権が法律上の問題として取り上げられるようになるのは、1970年代に入ってからである。72年には、通産省のソフトウェア法的保護調査委員会が、ソフトの権利を保護する制度の必要性を説いた報告書を提出している。その後の政府の動きを見ると、文化庁と通産省の間で見解の相違が見られる。すなわち、1973年の文化庁の著作権審議会の報告書では、ソフトウェアを学術的な著作物と認め、著作権による保護を打ち出したのに対して、通産省産業構造審議会では、ソフトウェアの特質や取引の実態に即した新規立法の必要性を訴えている。両者の対立は、法律学者をも巻き込んで数年間にわたって続けられるが、最終的には著作権で保護することが決定され、1986年にソフトウェアの保護をうたった改正著作権法が施行された。結果だけ見ると、文化庁の言い分が通った形になっている。
 著作権に軍配が上がった理由は、いくつかある。国際的な趨勢として、ソフトウェアを著作権で保護する動きが目立ってきたことも指摘すべきだろう。しかし、それ以上に大きな影響を及ぼしたのが、アメリカ通商代表部からの強い要請だったと言われている。アメリカは世界有数のソフト大国であり、オペレーティング・システムのようなコンピュータを動作させるための基本ソフトをはじめとして、外部機器と接続するためのインターフェース情報、さらにはデータベースや表計算などの各種のアプリケーションソフトに到るまで、多くのソフト資産を抱えている。これらを武器に積極的な技術輸出の攻勢を仕掛けるためには、当然のことながら、所有者の権利が最も強くなる法律によって保護されるのが好ましい。特許権に較べると、著作権は、保護期間がはるかに長いことに加えて、ソフトの内容を公開しなくとも、当該ソフトを含む製品を発表した時点で権利が生じるという大きなメリットがあり、ソフトを開発した側に有利に働く。こうした事情があるため、アメリカは著作権法によるソフト保護を強く求め、日本もこれを受け入れる結果になったと考えられる。

特許によるソフトの保護

 著作権の問題を考える前に、そもそも特許権によってソフトウェアが保護できないかを論じておきたい。
 特許の役割は、現実に実現可能な技術的発明を保護することにあり、空想の世界でしか通用しないような発明まで適用範囲を広げるのは好ましくない。このため、特許が成立する条件として、「自然法則を利用する」という点が要請されている。これを文字どおり解釈すると、抽象的な機能の表現にすぎないコンピュータ・ソフトは、特許の対象にはならないはずである。しかし、これではソフトウェアの技術的な性格を無視することになるため、最近では、多少の拡大解釈によって、一部のソフトについては特許を成立させる動きが見られる。
 特許が成立する可能性が最も高いのは、当該ソフトウェアを実行するスタンド・アローンの装置が実現されるケースである。この場合は、「〜を実行する装置」として出願すれば、自然法則を利用しているものとして本来の特許の適用範囲となる。また、独立した装置でなくとも、ハードウェアの特定の性質を利用しているときには、自然法則に則ってハードウェアを動作させる点を評価して、特許の対象となる可能性が生じる。具体的には、CPUやメモリー、入出力装置の使用を制御するオペレーティング・システムなどの基本ソフトがこれに当たる。
 しかし、ある程度の融通が利くとはいえ、ソフトの多くが特許の保護を受けられないという状況に変わりはない。このことを如実に示す例が、「カーマーカー法」に関する特許である。これは、線形計画法と呼ばれる数学分野における画期的な解法で、効率的な投資配分を算定するためなどに応用できる。この解法を開発したAT&Tは、1988年にアメリカでの特許取得に成功し、数学的なアルゴリズムにまで特許の網が掛けられるという点で注目を集めた。しかし、同様に特許が申請されていた日本では、「自然法則を利用した発明とは言えない」との理由で、1991年に却下されている。両国特許庁の見解の差は、ソフトウェアがどこまで特許によって保護されるかについて、いまだに国際的なコンセンサスができていないことの証である。特に、日本においては、数学的な解法やアルゴリズムに関して、一般に特許の取得が難しいことを示す結果になった。

著作権によるソフトの保護

 特許によって全てのソフトを保護するのが困難だということになると、今度は、著作権の適用を考えなければならない。日本やアメリカでは、既にこの方向で法改正を実施して行政面での対応を進めている。しかし、技術的な内容を持つソフトウェアを、もともと小説や音楽などの文化的著作を念頭に置いて制定された著作権法で保護することは、かなり無理があるといわざるを得ない。その結果、現実問題として、法律の適用の仕方に、相当の柔軟性が要求されることになる。

 それでは、具体的に何が著作権に抵触するかを見ていこう。
 誰が考えても明らかに著作権の侵害に相当するのは、既存のソフトのデッド・コピーであり、市販のプログラムの全部または一部を機械的に複製する「海賊行為」がこれに当たる。コンピュータが市場に出回り始めた初期の頃には、こうした違法コピーが頻繁に行われており、レコードやビデオと同様に、著作権による取り締まりが要請されたのも当然の帰結かもしれない。このほか、あるソフトを別のプログラム言語に無断で翻訳することも、著作権の禁止事項に該当する。
 著作権の適用が難しくなるのは、完全に同じではないが類似しているケースである。例えば、他社の市販ソフトが好評なため、これと類似した機能を持つソフトを発売することは、著作権法で禁じられていない。しかし、発売されたものが先行のメーカーと結果的に同一のプログラムになった場合はどうなるのか。比較的小さなプログラムに関しては、特定の機能を実現するための表現がほとんどユニークに決まってしまうことがあるが、このときは、著作物としての「表現」は「機能」に従属すると見なされ、著作権による規制の適用外となる*2。これに対して、ある「機能」を実現する「表現」が幾通りかあるような場合には、「実質的に類似している」ケースに限って、著作権の侵害となる。ただし、何をもって「実質的類似性」を判定するのか、現時点では確固たる基準はない。裁判に持ち込まれた場合には、プログラムの内容そのものよりも、ソフトの開発に当たって先に発売されたプログラムを参照したか、開発期間や販売価格が異例ではないか−−などの外部事情が顧慮されることが多く、裁判官の心証が判決を左右する蓋然性も高い。

 ソフトウェアと著作権の問題を論じるときに重要なポイントとなるのが、リバース・エンジニアリングである。これは、簡単に言えば、他社製品を分解してその仕組みを調べる作業であり、ソフトウェアに関しては、逆アセンブリによってソースコードを分析することを指す。こうした作業自体は、性能の点検やバグの発見など、製品を利用する上で必要なこともあるため、たとえその過程で無断コピーの作成を伴うとしても、著作権法による規制の対象とはならない。しかし、これによって得た情報をもとにして、補完製品や互換製品を開発する場合には、著作権の問題を解決しておかなければならない。例えば、市販のパソコンには、外部の入出力機器とパソコン本体のインターフェースの役割を果たす基本ソフトがマイクロチップの形で搭載されており、特定のパソコンに接続する補完製品を開発するためには、この基本ソフトの動作に対応するように設計する必要があるが、このとき、リバース・エンジニアリングによって得たソースコードの知識をそのまま利用すると、著作権の侵害となる。また、特定のパソコン用に販売されているアプリケーションが走る互換パソコンを製造する目的で、基本ソフトのコードを直接分析するのは、それ自体が著作権の侵害に当たるとされている。
 リバース・エンジニアリングがどこまで許されるかについては、いまだに統一的な見解がない。最も厳しく制限する立場をとっているのが、世界最大のコンピュータ・メーカーであるIBMで、同社が公開している情報以外の知識を利用して製品の開発を行うことを禁じている。しかし、補完製品の開発に必要なインターフェース情報は、特定の機能を実現するためのユニークな表現に該当するため、著作権の適用範囲には入らないとする主張もあり、議論は分かれている。

 このように、著作権によってソフトウェアがどこまで保護されるかについては、必ずしもクリアカットな議論が行われておらず、しばしば場当たり的に結論が出されているのが実状である。この節を終えるに当たって、その実例となる判決を2つ挙げておこう。
 第一の判決は、ウェラン対ジャスロウ事件の第二審で下されたものである。アメリカのソフトウェア裁判史上で最も有名なこの事件は、ウェラン社が開発した歯医者の顧客管理プログラムの著作権をジャスロウ社が侵害したとして、販売の差し止めと損害賠償を請求したものである。第一審においては、ジャスロウ側にプログラム創作能力が乏しいにもかかわらず短期間で製品を開発していること、ウェラン社製のソフトを参照した上でコードレベルでの類似が明白なプログラムを作成していること−−などを理由に、違法なコピーが行われたとしてジャスロウ社に有罪を宣告した。ところが、1986年の控訴審では、こうしたポイントを無視して、著作権はソフトウェアの「構造(structure )、手順(sequence)、構成(organization)」まで保護するという判決が出されたのである。ここで挙げられた3つの要素は、いずれもソフトウェアの機能を実現するためのもので、従来の考えでは著作権が保護するところの「表現」と見なされていなかった。このため、著作権の適用範囲を大幅に拡大する判例として、世界的な注目を浴びることになった。ただし、この判決自体は、多くの学者から批判され、必ずしも以後の裁判のスタンダードとはなっていない。
 著作権に対する法曹界の振幅の大きさを示す第二の判決としては、西ドイツの高等連邦裁判所のものを指摘したい。ここでは、いくつかの事件の判決において、技術文書には著作権の保護が及ばないとの主張を繰り返している。その基本的な立場は、技術的な内容の独創性は表現の独創性とは無関係であり、技術的表記法に従って作成された文書には著作権で保護すべき表現の独創性は見いだされないとするものである。コンピュータ・ソフトもこれに準じて取り扱われ、一般に著作権の対象とはならない。ただし、専門家によって「ソフトウェアが充分な創作性と独創性を備えている」と認められた場合には、例外として著作権法の保護が受けられるとされる。こうした観点からすると、流通しているソフトの実に8割以上が、著作権の適用範囲外となってしまい、上のウェラン判決とは対照的に著作権の範囲を狭く解釈するものである。
 私見では、この2つの判決は、いずれも裁判官がソフトウェアの実態を充分に理解していないことによる極端な例だと思われる。しかし、正規の裁判でこうした判決が下されたこと自体、ソフトウェア保護のための著作権という概念がいまだに確立されていないことを物語っている。
 

§3 生物が特許になるか



 特許権や著作権のような知的所有権は、革新的な技術を開発したパイオニアの権利を保証する上で重要な役割を果たしている。しかし、自然界に既に存在しているものを工業的に利用するため取り出してきたとき、これを知的所有権で保護することが本当に適切なのだろうか。少なくとも、法律的な保護が及ぶ範囲は、合理的に決定されていなければならないはずである。この節では、こうした問題の例として、バイオテクノロジーに関連する手法や産物について取り上げたい。

 はじめに、バイオテクノロジーの現状について簡単に触れておきたい。
 産業分野に生物活動を利用することは、発酵による味噌や醤油の製造から作物の品種改良に到るまで、以前から行われてきた。しかし、こんにちのように生物を利用した技術が盛んに使われるようになるのは、DNAを切り貼りする遺伝子工学が開発されてからである。これは、制限酵素を使ってDNAを適当な部位で切断したり、遺伝子の発現を促す機能を持った部分と接合することによって、望みの遺伝子産物を作り出させる技術である。遺伝子工学の成功によって、バイオテクノロジーは、コンピュータがもたらした情報革命以来、最大の技術革新と呼ばれるに到ったのである。
 バイオテクノロジーが産業界に何をもたらしたかについては、多くの書物に詳しく記されているため、ここでは簡単に瞥見するにとどめたい。農業の分野では、病虫害に抵抗性のある作物を作り出すために、こうした性質を持った植物の遺伝子をトウモロコシや小麦の細胞に挿入する技術が利用されている。現在ではまだ実験的な段階だが、90年代半ばから、本格的に実用化される見通しである。また、医学分野では、各種のホルモンの合成やワクチンの製造に活用されており、これらの医薬品が有用な病人にとっては福音と言えよう*3。工学的な応用は多方面にわたるが、生化学物質の製造のほかに、バイオマスを利用してエネルギーを合成する技術も研究されていることを指摘しておきたい。
 このように、バイオテクノロジーは、さまざまな産業分野において多くの成果を上げているが、だからと言って、人間が自然界の生物を自由自在に活用できるようになった訳ではない。それどころか、工学的に可能なのは、遺伝子を特定の部位で切り貼りするという限られた操作にすぎず、あくまで自然界に存在する遺伝子資源を部分的に応用しているだけである。生物が特定の性質を発現するメカニズムは、現在なお人類にとって神秘だと言わざるを得ない。
 こうした状況の下では、この種の技術を使って実現される内容も、当然のことながら、人間の自由にはならない。最近、洗剤や食品などでバイオテクノロジーを利用したと称する商品が次々に発売されているが、これらは、あらかじめ何を開発するかを設定した上で目標指向的に研究を進めた成果というよりも、土中から採取したバクテリアを培養して性質を調べているうちに面白い種類のものが見つかったので商品化してみたというのが実状である。また、合成したいタンパク質をコードする遺伝子が判明したとしても、直ちに生合成が可能になるとは限らない。当該遺伝子を含むプラスミドを大腸菌に挿入しても、そもそも合成を開始しなかったり、所期のタンパク質とは異なるものを合成してしまうケースが多々ある。それどころか、予期せぬ副作用によってとんでもない事態に陥ることも有り得ない訳ではない。実際、遺伝子操作によって品種改良したはずの作物が、(特定の病気に対する抵抗性がないなど)予想もしなかった弱点を持っていることがあり、被害が表面化してはじめて判明したという例もある。
 以上の内容から示唆されるように、今をときめくバイオテクノロジーといえども、本質的に未知なる領域の周辺を、ほとんど職人芸的な手腕でいじりまわしていると形容するのが適切だろう。

バイオテクノロジーの知的所有権−−手法の特許

 遺伝子工学の手法によって自然界の生物資源を利用する場合、新規に開発された技術に関するパイオニアの権利を保護するのは、主として特許制度である。既存の生物を対象としているとは言え、遺伝子操作などの具体的な手法に適用されるケースは、他の技術分野と本質的な差異はなく、他の技術分野と同様に取り扱うことができる。
 遺伝子工学の手法で最初に特許を取得したのは、コーエンとボイヤーによる「生物学的なキメラ分子の製造法」である。これは、プラスミドと呼ばれるDNAのリングを利用して、他の細胞に遺伝子を挿入する技法である。バイオテクノロジー関係の学者の中には、金蔓となる特許権を武器にして小さな会社を興すだけの商才に長けた人も少なくないが、プラスミド法を開発した二人は、取得した特許を(コーエンが所属していた)スタンフォード大学に譲渡している。スタンフォード大は、以後の学問的発展に重大な貢献を果たすことになるとの考えから、この技法を多くの企業に安価に提供する道を選んだ。大学側から提示された条件によると、当初のライセンス料として1万ドル、年間使用料として1万ドルを支払うことにより、コーエン/ボイヤーの開発した技術を利用することができる。大手の化学薬品会社を含めて多くの企業が契約を結んだが、この事実は、上の出費が研究が成功した暁に手にする報酬に較べて安いことを意味している。このように、バイオテクノロジーの特許は、コンピュータ・ソフトの著作権と同様に、巨大ビジネスの波に揉まれることになった。
 プラスミド法とは対照的に、特許を取得できなかったことで話題を呼んだ例もある。イギリス政府の基金による公的な医学研究機関であるMRC(メディカル・リサーチ・カウンシル)において、ミルシュタインとコーラーは1973年にモノクローナル抗体の開発に成功している。これは、半永続的に生存するガン細胞と抗体産生細胞を融合することによって、純粋な抗体の大量生産を可能にする画期的な技法であり、開発者にノーベル賞をもたらしている。ところが、MRCが特許の申請を怠っている間にミルシュタインが論文を公表したため、この手法が周知のものとなって、特許が成立するための必要事項である“新規性”が失われる結果になってしまった。こうしてMRCは、莫大なライセンス料を生むと予想された特許権を手にする機会をみすみす失ったのである。こうした失態が生じた理由ははっきりとせず、政府基金の機関であるMRCがイギリス政府並の「お役所仕事」をしたのだという声もある。しかし、その一方で、大学や公的機関が金儲け主義に走ることを批判し、特許権の成否に大騒ぎする風潮を戒める研究者も少なくない。
 バイオテクノロジーの技法は、しばしば金の卵を生むアヒルとなるだけに、企業間の醜い抗争もめずらしくない。最近では、DNAを大量に合成する技法であるPCR法の特許を巡って、シータス社とデュポン社が争っているが、こうしたケースは、今後さらに増えることが予想される。市場でのシェアを争奪する場合と異なって、所有権を奪い合う係争は新しい技術を生み出す契機とはなりにくいばかりか、開発途中の段階で他社に知られないように研究内容を秘匿する傾向を生じるため、技術全般の進歩という観点からは決して好ましいものではない。こうした中にあって、過度の特許権争いやライセンス料の引き上げなどを防ぐためにも、企業や大学の節度ある態度が求められている。

バイオテクノロジーの知的所有権−−産物の特許

 手法の特許に較べて、遺伝子工学によって生み出された新生物に関する特許は、法律的にも倫理的にも多くの問題を含んでいる。次に、この点について見ていこう。
 最初に特許が認められたバイオテクノロジーの産物は、GE(ゼネラル・エレクトリック社)に所属するチャクラバティが開発した「石油を食べる微生物」である。ただし、この微生物は、遺伝子工学によって生み出されたものではない。チャクラバティは、原油の異なる成分を分解する能力を持っていた4種類の細菌を交配して、自然種よりも高度の消化能力を示す雑種の細菌を作り出した。この「古典的な」手法に則って作られた微生物に対して、アメリカの特許庁は、当初は特許権を認めようとはしなかった。しかし、1980年6月になって、最高裁判所は「微生物も特許の対象になる」との画期的な判断を下し、翌年の3月に初の特許生物が誕生するに到った。
 この判決が弾みになったのか、これ以降は、生物に対する特許の範囲は拡大の一途を辿ることになる。こうして、85年には、全ての植物種が特許の対象となり得ることが特許庁によって確認され、さらに88年になると、人間のガン遺伝子を挿入された「ハーバード・マウス」が特許を得た最初の動物という栄誉を担うことになった。こうした特許生物は、しかしながら、そもそも自然界に存在していた遺伝子を適当に切り貼りした結果として世に送り出されたものであるため、果たして特定の機関が特許を主張できるのかという疑問を払拭することができない。例えば、開発途上国に自生している植物が(ある病気に対する抵抗性のような)有用な形質を発現する遺伝子を持っていたとしよう。技術先進国が、この遺伝子を取り出して特定の作物に挿入して特許を取得した場合、もともとの原産地である開発途上国の権利はどうなるのか。法律的には、議論の余地がある。
 こうした問題に対して、アメリカ特許庁の立場は一見明解である。すなわち、「自然界には不純物を含んだ状態でしか存在しないならば、精製工程によって単離された物質は特許の対象となる」という(従来は化学物質に適用されていた)考えを拡張して、たとえ自然種が持っている遺伝子であっても、人間にとって役に立たない状態から切り離して有用な生物種に挿入された場合は、“進歩性”や“新規性”などの要件を満たしている限り、特許が認められると見なしている。しかし、現実には、相手が繁殖能力を持つ生き物だけに、事態はそれほど単純ではない。例えば、細胞融合によって特定の経済的価値を示す植物が生み出されて特許が認められたとすると、この特許は、(ある遺伝子を抑制する因子を挿入するなど)別の技法によって作られた同じ性質を示す生物にまで適用されるのだろうか。この件に関しては、アメリカ国内でも意見が分かれている。だが、精製物の特許を認める根拠として、「物質を単離する技術に対して権利の保証をしなければならない」とする発想を重視するならば、たとえ同一の性質を示すとしても、異なる手法に由来する生物にまで特許権の範囲を拡張すべきではないだろう。ただし、遺伝子レベルまで全く同じ生物となると、どう解釈したら良いのかは判然としない。あるいは、ほとんど笑い話になるが、特許生物が研究所から逃げ出して自然界で繁殖したらどうなるのだろうか。
 バイオテクノロジーの産物に与えられる特許については、未解決の問題が数多く残されたまま、今なお申請のラッシュが続いている状況である。こうした問題は、下手をすると将来に禍根を残しかねないだけに、慎重な議論を積み重ねることが必要であろう。
 

§4 規格決定の裏で−−HDTV開発に見る



 こんにちの日本のように複雑な経済システムが樹立されている社会では、革新的な技術が開発されたからといって、これが直ちに市場で流通するようになるとは限らない。新しい技術をもとにビジネス・チャンスを拡張しようとする動きが起こる一方で、既得権を守ろうとする在来勢力の対抗措置も講じられ、市場を舞台としてさまざまな動きが交錯するからである。こうした「市場戦略」において重要な手段となるものとして、既に述べた知的所有権のほかに、規格の標準化があることを指摘したい。
 どの規格が標準となるかが市場の動向を大きく左右することは、数多くの事例から明らかだろう。アメリカ大陸で鉄道の建設が始まった当初は、線路の幅が会社ごとに異なっていたが、これでは相互乗り入れができずに不便なので、線路網の拡がりや鉄道会社の力関係に応じて、次第に特定の規格に収斂していった。当然のことながら、最終的な標準規格とは異なる線路を敷設していた会社は、大きなダメージを受けることになった訳である。鉄道に限らず、各種の情報通信機器のように相互にあるいは周辺機器と接続して使用する製品の場合には、同一の規格を採用しなければ利用者にとってデメリットが大きくなるため、市場において規格の標準化が促され、これに合致しない規格は淘汰されていく。ときには行政当局や国際的な委員会が統一的な規格を決定することもあり、その結果が企業の浮沈にかかわる可能性も決して小さくはない。
 標準となる規格が決定されるプロセスとして最も単純なのが、いわゆる「早い者勝ち」であり、市場にいち早く参入した企業の規格がそのまま定着していくケースである。典型的な事例が、パーソナル・コンピュータ市場に見いだされる。この分野では、こんにちNECが圧倒的なシェアを占めているが、その最大の理由は、NECが他社に先んじてパソコン製品を市場に投入したことにある。個人用の小型コンピュータが発売された当初は、ユーザー自身がプログラムを組むことを前提としていたため、専門家ないしマニア向けの小さな市場しか期待できなかった。しかし、ユーザー側からの要求が徐々に高まるにつれて、既製のソフトが商業的価値を持つようになり、ソフトを専門に開発する会社が設立されて、NEC製のパソコンで走るさまざまなソフトが市販され始める。こうなると、プログラミング能力のない素人でも操れるという点で利用価値が格段に向上するために、パソコン本体の売れ行きが大幅にアップするばかりか、これに刺激されて、市販ソフトや周辺機器もますますその数を増していくという好結果を生む。このような状況の下では、新しい規格のパソコンを販売しても、NEC製品に対応した既存のソフトが利用できないため、思うように市場が開拓できない。こうして、国内市場では、すぐれた技術力を持つ多くのメーカーがパソコンを手がけたにもかかわらず、結果的にNECの独走を許してしまったのである。
 ただし、新しい製品を最初に投入した企業が、常にうまい汁を吸う訳ではない。VTR市場に関しては、ソニーがベータ規格に基づいていち早く市場に参入したものの、他社のとりまとめに失敗して、ビクターを盟主とするVHS陣営の前に破れ去っている。また、松下電送は電話回線を利用して短い文書を交換できるメモ電話を開発したが、同一機種を購入した特定個人間でしか利用できないという不便さが災いして、マーケットを開拓できないまま、家庭向きに低価格化したファクシミリに席を譲っている。
 規格の問題に関して特に大きなニュースとなるのが、国際的な規格の統一化だろう。最近では、携帯電話とHDTVの規格が話題に上っているが、前者についてはいまだ事態が流動的なため、ここでは、標準規格の決定が単に技術的な要因だけではなく、さまざまな利害が絡んだ思惑に左右される例として、後者を取り上げたい。

次世代テレビの規格

 現行のTV方式は、既に放送開始以来40年近く経過しており、高画質を求める一般視聴者の要求水準にかなうものではなくなりつつある。こうした状況を考慮して、80年代を通じて、新しい方式に基づくTV放送を模索する動きが高まってきていた。
 現時点で考案されている次世代TVの方式は、大きくEDTVとHDTVの2種類に分けられる。このうち、EDTV(extended definition television)とは、既存のTV受像機によっても受信することのできる放送形態で、現行方式の改良版と見なして良い。EDTVの一種であるクリアビジョン方式は、既に一部で放送が開始されており、従来の受像機を使っても通常通りの画面が映し出されるが、クリアビジョン対応の受像機を用いると、より解像度の高い映像を楽しむことができる。今後はさらにゴースト・キャンセラーが搭載されるようになり、放送波の反射に伴って主に都市部での画面を見づらいものにしているゴースト(映像のダブリ)がかなりの程度まで解消されるはずである。
 これに対して、HDTV(high definition television、高品位テレビ)は、もはや在来型の受像機では受信できないばかりか、カメラやVTRを含めた全ての放送施設を新規に設置しなければならない。また、画像の情報量が増えてテレビ塔から発信される地上波で搬送することは不可能になるため、人工衛星を介した衛星放送(または、光ファイバーを使ったケーブル放送)を利用することが不可避となる。このように、HDTVとは、現行方式とは根本的に異なる全く新しい放送形態を実現するものである。譬えて言えば、ラジオのFM放送のTV版に当たるだろうか。FM放送は、それまでのAM放送用のラジオでは受信することができなかったが、新たにFM用の受信機を買えば、AMとは較べものにならない高音質の放送を聞くことができた。これと同様に、HDTVも、専用の受像機を備えている人が、より高画質の映像を楽しむためのものである。
 こんにち実用段階に達しているHDTVとしては、NHKが開発したハイビジョンと、ECの共同開発によるHD−MACの2つの方式があるが、両者の間で基本的な性能に大差はない。ハイビジョン方式は、1970年代からNHKで研究・開発が進められてきたもので、1989年からは一定の時間枠内で衛星放送が開始されており、世界的に見てもHDTV技術のリーダー格であることは間違いない。この方式では、画質の向上を図るために、1画面当たりの情報量を現行方式(NTSC)より大幅にアップしている。例えば、TV映像を映し出す走査線の数は現行の 525本のおよそ2倍の1125本に、また、走査線当たりの有効画素数も3倍近くまで増やしている。さらに、画面の縦横の比率も、これまでの3:4から9:16という横長サイズに変更している。ここで重要なのは、こうした新たな仕様を決定するためには、相当の基礎研究が必要になるという点である。走査線の数にしても、多ければ多いほど画質が良くなるという訳ではない。人間の目の解像度には限りがあるため、走査線の本数には、それ以上増やしても画質の変化が知覚できないという上限があるはずである。さらに、1画面当たりの情報量があまりに膨大になると、定められた帯域の電波で画面情報を搬送することが不可能になる。もっとも、(走査線を 700本にするというような)中途半端な改良では、TV受像機や放送施設の全てを作り替えるだけの魅力に乏しい。こうした事情があるため、走査線の本数を決めるだけでも、走査線数と画面の見え方に関する知覚心理学的な調査や、電波で搬送できる情報量の上限についての技術的および経済的な考察など、多方面にわたる研究が前もってなされていなければならない。ハイビジョンとは、このように莫大な労力と時間を費やして開発されたものである。
 これに対して、HDTVのヨーロッパ規格となるHD−MAC方式*4の場合、後発組のメリットを生かして、より短期間で実用化の一歩手前までこぎ着けている。当初はオランダのフィリップス社やフランスのトムソン社などが音頭をとって始まったHDTVの開発が、ユーレカ計画(欧州先端技術開発計画)の一環としてEC全体の共同プロジェクトに拡大されたのは、既にNHKがVTRなどの周辺技術の開発を進めていた1986年のことであり、ハイビジョンに較べて技術面でかなりの遅れが見られた。しかし、NHKが一から研究を始めたのに対して、後発のメーカーは先行技術を参考にできるという強みがあるため、その差は急速に縮まりつつある。実際、HD−MACでは、画面の縦横比や有効画素数はハイビジョンと全く等しいが、走査線は従来の機種との互換性を考慮して1250本に設定されており、先行方式から都合の良い点を取捨選択していることが伺える。

HDTV規格決定の裏側

 誰しもが考えるように、HDTVの規格が世界的に統一された場合のメリットは巨大である。現行のTV放送では、いくつかの方式が並立しているため、例えば、イギリスで大事件が勃発したとしても、BBCによる現場からの映像を日本で生中継することはできない。国際化の進展に伴って世界各国との情報交流が緊密になってきている中で、TVだけが互換性がないというのは、いかにも不便であり、HDTVの実用化に当たって世界統一規格を採用するのが合理的なことは明らかである。にもかかわらず、1990年の国際通信諮問委員会(CCIR)では、日米欧それぞれで規格が分裂することが決定的になってしまった。その背後には、自国の利益を守ろうとする各国政府の思惑がある。
 ヨーロッパ 技術的にはNHKのハイビジョン方式が圧倒的にリードしていたにもかかわらず、ECでHDTVを共同開発することに決定したのは、これまでの実績からみて、TVならば日本の輸出攻勢に対抗できるとの見通しがあったからである。VTRやCDでは日本に市場を席巻されているものの、TV受像機に関しては、伝統的にヨーロッパの企業のシェアが高い。例えば、年間2000万台以上の売上がある世界最大のカラー・テレビ市場のアメリカにおいて、米RCAを買収したトムソン社(仏)のシェアは22%、フィリップス社(蘭)のそれは11%に上る。これに対して、日系企業のシェアは全て併せても28%にすぎず、また、アメリカに本社を持つ会社でカラー・テレビを生産しているのは僅かにゼニス社のみである。ヨーロッパの家電メーカーが、HDTVが市場に登場して以降も、TV生産における優位を維持しようと画策するのは当然のことであろう。特に、フィリップスやトムソンは半導体の不振などで業績が低迷しているだけに、家電販売に期するところが大きい。

 ECと日本の間でHDTVの規格が分裂した場合、既にハイビジョンの関連機器開発に投資してきた日本のメーカーにとって負担が重くなるのはやむを得ない。また、ECで開発した技術を利用することになるため、ロイヤリティの要求に応じる義務も生じる。現在でも、ドイツなどで採用されているPAL方式の受像機を製造するに当たっては、テレフンケン社にライセンス料を支払っており、これが、ヨーロッパTV市場に参入する際の障壁となっている。したがって、HDTVの場合も、独自の方式が日本の輸出攻勢に対する防護となることは充分に期待できるだろう。
 ECの方針としては、現行方式から一気にHDTVへと移行するのではなく、従来機種との互換性を持つMAC方式を間に挟んで、HD−MACへと段階的に移っていく予定である。このため、方式を変更する段階で日本のメーカーが割り込む余地も小さくなっており、少なくともヨーロッパのTV市場に関しては、フィリップスやトムソンなど欧州勢の優位を覆すのは難しい。
 アメリカ 世界最大のソフト供給国であるアメリカの立場は、ヨーロッパ諸国とはかなり異なったものである。映画やTV番組のソフトを輸出する場合、世界的な統一規格が採用されている方が、方式を変換する手間が省けて好都合なのは言うまでもない。さらに、製作費の高騰に頭を悩ませている映画会社では、HDTVの利用によってランニング・コストの低減が期待できるため、これをできるだけ早い段階で導入したいとする意向が見られる。こうした事情があるため、1986年のCCIRにおいて、アメリカは技術的に最も先行していた日本のハイビジョン方式を支持する姿勢を示していた。

 ところが、その翌年頃からアメリカは態度を豹変させることになる。これは、半導体を中心とするエレクトロニクス業界が、ハイビジョンとともに日本メーカーがアメリカ市場へ参入してくることに対して危機感を抱いたためである。HDTVは単なるTV放送の受像機にとどまらず、コンピュータと結びついたマルチメディアとして、将来は情報通信産業の主要部門に成長する可能性もある。したがって、この分野で米国企業のシェアが低下することは、半導体の売り上げに直接響くばかりか、他の主要エレクトロニクス部門での競争力の減退にも通じかねない。米国エレクトロニクス協会がHDTVに関する調査委員会を設けたところ、IBMやAT&Tをはじめ家電以外の分野からも続々参加を申し込んできたのは、こうした背景があるからである。これら有力企業の圧力によって、1990年のCCIRでは、アメリカは日欧いずれとも異なる道を歩むことを主張するに到ったのである。
 ただし、現時点でのアメリカは、ハイビジョンやHD−MACに対抗するだけの技術を持ち合わせていない。数々の提案がなされてはいるが、独自の方式を打ち出せないまま混迷が続いているというのが現状である。このため、暫くは現行方式の改良版であるEDTV(アメリカ国内ではATVと呼ばれる)を繋ぎとして採用し、その間に技術的に可能なHDTV方式を模索することになるだろう。
 日本 世界に先んじてHDTVを開発したにもかかわらず、日米欧がそれぞれ独自の道を歩むことが決定的になったため、NHKは、ますます孤軍奮闘の様相を色濃くしている。NHKの方針によれば、このまま現行方式による衛星放送の受信世帯数を増やしていき、1997年から本格的なハイビジョン放送を開始する予定だが、下手をするとハイビジョン方式を採用するのは世界で日本だけということにもなりかねない。

 こうした状況に対して、日本の家電メーカーは冷静な態度を崩していない。メーカー側が懸念するのは、むしろ規格問題がこじれてHDTVの開始が遅れることであり、規格がどのように決まろうとも、ヒット商品に恵まれない最近の家電メーカーにとって、HDTVが金の卵であることは間違いない。実際、ソニーや東芝、松下などの有力企業は、既に米国内にHDTVの研究所を開設しており、各国の規格に柔軟に対応していく姿勢を示している。
 

§5 イメージ化された技術−−ファジーとニューロ



 これまでは、革新的な技術を世に送り出すに当たって、技術を開発した当事者やその周辺の人が採用している市場戦略を中心に見てきた。いたずらに市場原理に身をまかせたままでは、いかにすぐれた技術といえども、一般市民の手に届かずに終わてしまう懸念を拭えない。知的所有権による保護や統一規格の採用が、市場への浸透度を左右するほとんど決定的な要素となっていることは否定できないだろう。いまや、技術者も市場戦略に無関心ではいられない時代なのである。ところが、これを重視するあまり、製品を支える技術が実態以上に粉飾されて宣伝されるケースも現れてきている。技術そのものよりもイメージ効果によって、市場競争に勝利しようとする意図からだろうが、中には技術に対するユーザーの信頼を失いかねないものもある。その実例と言うと語弊があるが、この節では、ここ暫くTVのCMなどで頻繁に耳にする「ファジー制御」なる技術について、はたして宣伝されているほどの内容があるのかを検討したい。

ファジー理論の基礎

 ファジー理論とは、数学者のザデーが1964年に提唱したもので、古典的な二値性を排した新しい集合概念の確立を目的としている。古典的な集合理論において、ある元aと集合Aの関係は、一般に aIA または aIA のいずれかである。これに対して、ファジー集合の発想は、aがAに属す“程度”をメンバーシップ関数を使って表そうというものである。例えば、古典的な集合論に基づけば、ある年齢の男性は{少年}や{青年}の集合に属するか否かのいずれかであり、「18才以下の男性は全て少年だが、19才になった途端に青年になる」という形で表現される。しかし、ファジー集合論では、年齢の関数として{少年}や{青年}のメンバーシップ関数が導入され、「20才の男性はメンバーシップ値 0.8で青年であり、同時にメンバーシップ値 0.1で少年である」と主張される(図参照)。この理論には、メンバーシップ関数を決める合理的な方法がないという欠陥があるものの、必ずしも「あれかこれか」という二値論理に従っていない日常的な概念帰属の関係を表現しやすい点ですぐれている。
 ザデーの主張はあくまで数学的な集合論の変革を目指すものであったが、ファジー理論が一般に受け入れられたのは、むしろ、日常的な概念が支配する制御の分野であった。特に、わが国でこの方面での利用が盛んに試みられたことは、原理的な研究よりも応用を重視する日本らしい受容と言えよう。

ファジー理論による制御

 制御理論とは、センサーなどからの入力信号xをもとにして、制御量である出力uを決定する数学的な手法である。従来の制御理論では、xからuを求めるための数学的な演算として、主として線型の(微分ないし積分を含む)数式を用いているが、ファジー理論に基づく制御では、数式に代わって、日常的な規則に対応する「if-then ルール」を使ったファジー推論が採用されている。ここでは、ごく簡単な例を用いて説明しよう。2つのルール:
if x is A1, then u = C1
if x is A2, then u = C2
を考えよう。古典的な理論では、入力xがA1 (ないしA2 )であるか否かという条件部は、曖昧さなしに確定することができた。例えば、温度を入力シグナルとして給水量を制御するシステムにおいて、上のルールに対応するのは「温度が50℃以下ならば給水量は10%50℃以上ならば20%とせよ」といったものである。このとき、温度は確実に50℃以上か以下のいずれかであり、これに応じて給水量も確定されるが、50℃になった瞬間に給水量が急激に変化するという不便さを免れない。ところが、ファジー推論でこれを扱うときには、メンバーシップ関数を適当に決めておきさえすれば、A1(A2)が表す内容として「温度が高い(低い)」という曖昧な概念を採用できる。図のような関数が与えられた場合、温度xがx0 のときには、メンバーシップ値α1 で「高温」、α2 で「低温」と見なされる。このときの給水量を決定するためには、結論部もメンバーシップ関数を用いて曖昧にする必要がある。図に示したように、条件部のメンバーシップ値に応じてuがC1 あるいはC2 となる重みを(適当に規格化した上で)それぞれw1 およびw2 とすると、最終的な出力は、

u = w1 C1 + w2 C2
 で与えられる。当然のことながら、入力がA1 からA2 へと移行する過程で、出力uは階段状に変化せず、C1 からC2 へなだらかに変わっていく。

 上のようなファジー制御が有効に機能する系としては、次のようなものが考えられる。第一に、条件の変動に対応する出力量の変化がなだらかになることから、急激な出力変化が好ましくないシステムの制御に都合が良い。実際、上の例で初めに示したような古典的な温度調節を、給水機構と温度センサーが離れて設置されている系で実行すると、給水中に温度が50℃に達しても、直ちにセンサーが反応せず設定値を越えてしまうオーバーシュートを惹起しやすい。ファジー制御を用いれば、こうした行き過ぎの現象を回避することが比較的容易である。第二に、制御規則を数式で表現するのが困難なシステムでは、ファジー推論に見られる「if-then ルール」の方が利用しやすい。制御プログラムを作成するソフト開発のクルーは、オペレーターが経験に基づいて行っている操作法をインタビューなどを通じて聞き出すが、その内容は、必ずしも「温度が52度以上で毎秒2度以上の割合で低下しているときには、給水量を22%に増やす」という数値的なものではなく、「温度が高めかなと感じたときには、ちょっと水の量を増す」といった曖昧なものが多い。したがって、これを数学的/論理的命題に移し変える際にも、明確な数式よりは曖昧さの残る規則の方が好都合なのである。また、多くの要因が複雑に絡み合うシステムの場合も、数式による表現が困難になるので、ファジー制御が推奨される。
 ファジー制御の成功例として知られているのは、仙台市の地下鉄南北線で採用されている自動運転のシステムである。この路線では、運転手はドアの開閉などごく一部の業務を遂行するだけで、運転そのものは全て自動制御で行っているが、従来の線型演算に基づく制御では、急激な加速が多く乗り心地は必ずしも良くなかった。ところが、日立製作所が開発した予見ファジー制御を採用したところ、前後方向の揺れが少なく、駅に到着する際にも定位置に滑らかに停止するようになった。このほか、給湯装置の湯温の調節や浄水場の塩素注入量の制御など、ファジー制御が実用化されて好成績を収めているケースは少なくない。
 しかし、ファジー制御にも多くの問題がある。最大の難点は、メンバーシップ関数を決定する合理的な基盤がないため、ソフト開発の担当者が試行錯誤を繰り返して最適の関数を選ばなければならないことだろう。最初に例として上げた{少年}や{青年}の集合にしても、もともと個人差や主観的判断に依存する概念であるため、年齢ごとに{少年}である値を決定することは、原理的に不可能なはずである。さらに、適切な「if-then ルール」を選定するための根拠も明確ではない。制御規則の多くは、たとえ曖昧さを残していると言っても基本的には単純な条件と帰結の結びつきにすぎないため、オペレーターが述べる経験則のニュアンスを表現しきれるものではない。しかし、こうした微妙な違いを反映させようとすると、膨大な数の規則が必要になって現実的ではなくなる。ファジー制御を応用するに当たっては、メンバーシップ関数も「if-then ルール」も、実用性という観点から適当なところで妥協して決定することになるが、それでも、制御プログラムを開発するためにソフト部門に課せられる負担は膨大なものになる。

家電のファジー制御

 最近では、エアコンの温度調節やカメラのオートフォーカスをはじめ、多くの家電製品がファジー制御採用とうたわれている。しかし、常識的に考えて、経験あるオペレーターが行うような複雑な制御を、家電に搭載されるような簡単なマイコン・チップで実行しているとは思えない。複雑なメンバーシップ関数を使って膨大な「if-then ルール」を遂行するだけの容量がないからである。とすれば、ファジー制御と言っても、利用する関数形や規則数がかなり制限を受けることになり、結果的には、数個のパラメータによって張られる空間がいくつかの領域に分けられ、各領域ごとに出力の値が与えられている場合とほぼ等価となる。ファジーの特色は、領域の境界で出力の変化が滑らかになる点に限定される。これだけならば、比較的簡単な数式で制御の推論部分を再現することが可能なので、ファジー制御を広告で宣伝するほどのものとは言えないだろう。
 家電業界でも、「どのような面で機能が向上したか」を明らかにしないままで「ファジー」を強調しすぎると、宣伝面で逆効果になると判断して、行き過ぎたCMを規制する動きが出ている。具体的には、家電のメーカーや流通業者で構成されている全国家庭電気製品公正取引協議会が、過当表示を防ぐための基準作りを進めているほか、家電メーカーの中にも、独自の社内基準を設けるところが現れ始めた。こうした基準が必要になった先例としては、どこまで自動化されたものを「全自動」洗濯機と呼ぶかについて公取協が統一的な見解を打ち出したケースがある。いくつかのメーカーが想定している「ファジー」の基準は、メンバーシップ関数と「if-then ルール」に基づくファジー推論を行っていること、および、この手法を採用することによって機能が向上することを求めるものである。しかし、オーバーシュートの回避や曖昧な経験則の組み込みといった利点は、大規模システムではファジー制御固有のものと考えられるものの、たかだか数個のパラメーターを操るシステムの場合、メンバーシップ関数や「if-then ルール」を用いなくても同程度の改善は期待されるはずである。したがって、どのような機能の向上が見られるときに「ファジー」の名を冠するかを合理的に結論することはできないのではないかと思われる。

新しい宣伝惹句−−ニューロ

 最近は、「ニューロ」という語句がCMで頻繁に用いられているが、これは、「ファジー」以上に過当な宣伝効果を狙ったものと言いたい。確かに、高等動物の神経機構を模したニューロ・コンピュータは、現行のノイマン型には難しいパターン認識を迅速に遂行する次世代のコンピュータとして開発が進められているが、本格的なマシンが登場するのは将来のことである。より単純なニューラル・ネットにおいても、簡単なパターン認識能力と学習能力を示すものが制作されているが、こうした能力は素子の数を充分に増やしたときにのみ有効に機能することが知られており、家電製品に搭載できる程度のチップでは大した性能を発揮できない。にもかかわらず、あえて「ニューロ」というキャッチ・コピーを用いるのは、やはり新しい技術としての好イメージを獲得したいためだろう。

(1997.3.14執筆)

©Nobuo YOSHIDA